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雑木林

週末の午後、父はたいてい机に向かって勉強をしていた。難しそうな法律の本をずっと読み続けている。私はその背中を見ながらいつも待っていた。
 
「キャッチボールしようか」
 
その一言に心が踊った。
小走りにグローブとボールを取りに行った。そしてお気に入りの野球帽をかぶり、玄関で父を待った。

当時の家は武蔵野の雑木林の中にあった。松の木が生い茂る林の一本道。そこがグランドがわりだった。人も車もめったに来ない。道の両側が笹の葉に覆われているので、ボールを取りそこなうと探すのが大変だった。

大きく曲がる父のカーブが大好きだった。うまくキャッチできると誇らしく思った。私もまねして投げてみる。なかなかうまく行かない。ボールが大きくそれてしまうと、父は数十メートル先まで歩いて取りに行った。何度も同じことを繰り返してしまうが、父が不満を口にしたことは一度もなかった。

私の投げたボールがうまくカーブすることも、たまにはあるらしい。「おっ、曲がった、曲がった!」と言う父の言葉がこの上なくうれしかった。

週末のキャッチボールを私はいつも心待ちにしていた。朝から雨だったりすると、早くやまないかなーと何度も空を見上げたものだ。
 
あの雑木林の一本道、今はどうなっているのだろう。開発が進んで住宅地になってしまったという噂も聞く。訪れてみたい気もするが、父との記憶をそのままに留めおきたくて、足が向かないでいる。

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