見出し画像

#4-1事実は小説より奇なりっていいますでしょ。実にホンマかいな!?があるんです(笑)脳から奏でる思い出のメロディ1(貧困幼少期からNPO代表理事までを100日で振り返る)

元々貧しい考え方をしていたのですが、色々な出会いを通じて今の私に育てて頂いたと思っています。全ての人のお陰です
そんな過去から今への振り返りnote100日投稿チャレンジしています。

昨日は幼少期の母の涙を初めて見た日の事を書きました。

今日はその施設を飛び出す話を書こうと思っていたのですが、noteで書き始めてから、色んな体験が脳の中に流れるので、ありのまま脳内に流れる思い出のメロディを吐き出してみます。

心の奥底に封印した 滅びの呪文

私は大人でも子供でも距離がつかめず、誰と一緒にいても話すことはあまりできない子でした。いうなれば、「暗い・地味」。
コミュニケーションは大人も子供にも得意ではなく、一人ですきに書ける絵はとても好きでした。そんな私の中学3年生の夏までの夢は漫画家でした。

「お父さんはどんなひとだったのか?」というようなお父さんを知る質問が出来ませんでした。聞いちゃダメと言われたわけじゃないのに、母に父の話をすることは、悲しませるような気がして、もし聞いたら私と母の関係を壊す”滅びの呪文”のように感じていたからです。

成人になってから、仕事のご縁で離婚し嫁に子供の親権を渡した男性と話す機会がありました。その方が『俺は娘に嫌われているやろなぁ』とおっしゃっていましたが、即答で「それはないと思いますよ」と答えました。それは今も変わりません。

子供はどんな時も親を好きだと思いますし、興味ないといっても興味ないことはない時が来るのかなぁと思います。自分のルーツだから。
たとえどんなにクソであっても、心底では嫌いになれないと思っています。

私の父は2018年にこの世を去りました。父の部屋には、3人の名前と生年月日が書いた紙があったそうです。この3人の名前は、私と弟2人。弟とは後妻との子どもです。
私は父の死を知ったあとに、2人の弟との関係ができ、今も交流があります。成人してから半分血がつながる家族の存在を知るのです。

もし、父が生きているならば、もう一度会いたかったです。

弟に「お父さんってどんなひと?」って聞くと『アイスピックみたいなもので追いかけてくる人』って答えるから、「何それ・・!!!くそすぎるやん!!!」と大笑いしました。『いや、あれがアイスピックかわからないけど、僕こわかったんです』

まったく笑えない話なのですが、弟から、父の感動エピソードが来るかと思っていたから、一周まわって大笑いです。子どもにそんなことする大人なんてくそすぎますが、生きているときに会いたかった。

生きていてくれるってありがたい。文句を言いながらも、話せることがどれだけ幸せなことかと思います。

死んだら文句ひとつも言えないのです。

雨上がり決血コンクリート

母子家庭支援施設の暮らしでは、基本的に外で遊ぶというよりは施設内で先生の傍で好きなことをしていました。建物はコの字型をしており、吹き抜けの庭では走っている音や、鉄棒・うんていをしている子供の声がきこえます。

その中で忘れられないエピソード。
それは、〇ちゃんと雨上がりの屋上で何となく過ごしていた時です。

〇ちゃんは元気でいつも笑っているような女の子で、先生と〇ちゃんが話し出しそうな空気に耳を傾けていました。

屋上には金網がはってあり、洗濯竿が無造作に何個かあり、洗濯物が干してありました。みんなの家の選択物干し場だったので、出入り自由でした。

雨上がりで灰色ながらも、薄雲がある程度で、一雨はもう降りそうにない。湿っぽい空気で何となく肌にしっとりとした衣がある感じの風です。

コンクリートの地面は、水はけの悪い部分に水たまりができています。

屋上は平面ではなく、途中15センチ程2段の階段を上る形なっており、私は段の手前で先生と一緒に今にも話しだしそうな〇ちゃんの顔を見ていました。

階段のイメージはテトリスのブロックのカタチです

その時、〇ちゃんが、
『先生ー!私な、こんな段差をジャンプできるんよ!』
『そうなの?〇ちゃんすごいじゃない(にこにこ)』
『先生、見てな!』

その瞬間,
テトリス的な階段の2段目から〇ちゃんが飛んだ姿が見えた後、

ドンッ

この音と共に目の前のコンクリートに、
じわぁ・・・と真っ赤な血が拡がっていくのが見えました。

『ギャーーーーーーーーーー!!!!』

『救急車!!!』

と先生が叫び、目の前の血まみれの〇ちゃんが目の前に見えて、私はびっくりして言葉が出ませんでした。

〇ちゃんは、ビーチサンダルだったのです。そして、偶然にも飛び込んだ場所の着地部分に水たまりがあって、着地の滑ってコンクリートに頭を打って血が流れていたのです。

あっという間に何人もの先生が屋上にきて、〇ちゃんは抱きかかえられて目の前からいなくなりました。
もう何が起きたかわからない私を見つけた先生は、ぎゅっと抱きしめて『怖かったね。もう大丈夫やからね』といってくれました。

ビックリしすぎて声が出ませんでした。

後日、何針か縫った〇ちゃんは包帯を巻いて〇ちゃんのお母さんと現れ、「びっくりさせてごめんね」と二人に謝られました。私は首を縦に何度も振りながら大丈夫と表現したのですが、この時の私は、血が出たどうこうよりも、人っていきなり飛んだりするのだとその行動に驚いていました。

私は子供だったのですが、身体を使って先生に自分を表現・アピールするという方法を知らなかったのです。

だからこそ、いきなり先生の前で飛ぶという行動が想像できず本当に怖かったのです。この体験を通じて私はビーチサンダルで飛んだりは絶対しないということを決めました。

そして、何かあったときに言葉大切なのではないこと。ぎゅっと抱きしめてくれるだけで、ホッコリできる安心感というものを教えてもらいました。

目の前の誰かが悲しんでいるとき、どうかぎゅっと抱きしめてあげてください。言葉にできない言葉は温かい体温が伝わるとほっこりするからです。
(知らない人にやるのは犯罪なのでダメ)

この日は人の血って物凄く真っ赤なんだなぁと感じた日でした。
血は鼻血でみるしかないので、水たまりのように広がる光景は30年たっても忘れられないです。それだけ、ショックが残っているのかもしれませんが・・

鳩時計がうちに遊びに来た日

ある日、母と私は部屋の窓を開けて昼寝をしていました。
思い返すと、窓は木枠ので鍵はゼンマイのような形状で、ひたすらねじを回すように鍵をしめ、窓を閉めるときや風が強いとガタガタというような窓でした。

パッポー(ぐるぐるぐ)喉が鳴る音みたいな音

バサ!!!!とお腹にかかっているタオルケットが捲りあがり、

『うわぁ!』と母が発します。

「えっ!!!!!なに!!!!!」(怖くてすぐに飛び起きる私)

『鳩が・・・ないている!』

「え・・・・・。」

その時、壁に1cmほどの厚みの何を置くのだろう?と思っていた戸棚(もどき)の上に、鳩が!!!!


(まじか!!!!)絶句

鳩を見ると鳩は、羽根を背伸びするがごとく、くの字のようにぐっと広げたんですよね・・・

こわい!こわい!こわい!!!!
そう思った私は、廊下へ避難(嫌なことがあるとすぐ逃げる子でした)

何分後か母が扉を開けて、鳩が外へ飛んで行ったことを教えてくれました。

無言

私は基本網戸がない、虫のドライブスルーが当たり前の空間で育つのですが、後にも先にも鳩が部屋に入ってきたのはこの1回です。

『最初鳩の声が聞こえた時、鳩時計かと思ったわ!けど、よく考えたらそんなもんないなとおもったんや(笑)』

無言

(鳩が入ってくる家ってどんな家やねん・・・なんであんなん入ってきたんや。。。怖すぎる。そもそも、貧乏な家に鳩時計なんかあるわけないやん)

自己表現が上手くいかないと言葉で言えないのですよね。

皆さんの家に鳩が入ってきたことあるでしょうか?

関西はノリ突込みと思われる方いると思いますが、私は大阪に通うまでノリ突込みという文化はありませんでした。
母は笑っていましたが、単純に、笑えないという心境でした。

(網戸がないとはいえ、鳩が間違えて入ってくる環境なんかこの家・・・
 もう・・・山やん・・森やん・・・)

子供時代の写真を見ると大体無表情でした(笑)感情が抑圧されていたのでしょうかね。大人になってから色々なことに感動出来ますが、反動なのかなぁと思います。


この記事が参加している募集

#振り返りnote

85,308件

#ノンフィクションが好き

1,405件

サポート頂きましたら、本を買って読書感想文を書くかなど、皆さんが楽しんで頂けるnote記事作成に使用させて頂きます。