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ありがとう #わたしたちの人生会議(リレー連載)

この記事は、緩和ケア医の西智弘さんが主催の、「わたしたちの暮らしにある人生会議」という公募出版イベント(くわしくはこちら)のエキシビジョンとして書かれました。「人生会議って名前は聞いたことがあるけど、どういうことだろう」。お話を書くのは「発信する医師団」のメンバーたち。命をみつめる医師たちの、個人的なお話をリレー形式で連載します。

第一回 外科医 中山祐次郎
第二回 循環器内科医/産業医 福田芽森
第三回 病理医 榎木英介

「ありがとう」

私が研修医2年目の冬、祖父が亡くなった。

86歳だった祖父は、亡くなる直前まで86歳に見えないぐらい元気だった。
地元の市役所を定年まで勤めあげ、その後も地区の自治会長などをしていた祖父はなんでもよく知っており、近所の人の相談役であった。
また地理にめっぽう強く、どこへ行くにも道をよく把握していた。

亡くなる前日、祖父は病院にいた。
その日祖父は心筋梗塞を起こし、緊急でカテーテル治療が行われたのだ。
同じ市内の別の病院で研修していた私は、脳神経外科の仕事がその日だけは早く終わり、祖父に会いに行った。
「よう来たなぁ。どこの道通って来たんな?」
シリンジポンプに入ったいくつかの点滴と大きな心電図モニターに囲まれた重症ベッドに伏せている祖父と、見舞いに訪れた孫の会話は、孫がどの道を運転して病院まで来たか、だった。
初めて通った道をしどろもどろ説明した私に祖父は、「その道より〇号線の方がこの時間なら空いとるかもしれん」と言い、次に来るならその「空いとる」道を通ることを勧めてくれた。
その翌日、不整脈を発症した祖父は亡くなった。
あまりにも急で、何の覚悟もないままにその現実を伝えられた私たち家族は深い悲しみに沈んだ。

思えば私は祖父の運転によって何度もピンチを救われてきた。
中耳炎を繰り返しては耳鼻科まで何百回と車で連れて行ってくれた。
塾まで何百回と車で連れて行ってくれた。
県内有数の厳しさで知られる進学校に入学した中学1年生の遠足の日、体操服を家に忘れて登校した私は「絶望」という二文字を浮かべ校門に立ち尽くしていた。
先生からどんな仕打ちが待っているのだろう・・・
涙を堪えていると始業5分前のチャイムが鳴った。その時、祖父が車に乗って現れた。
窓を開け、何も言わず、体操服が入ったナップサックを私に渡し、「じゃあの」と言って走り去った。
私は祖父に何も言わなかった。ただ一目散に教室に走り、体操服に着替え、何事もなかったかのように遠足に参加した。

たぶん、私は祖父に一度も「ありがとう」が言えていない。
そう気づいたのは祖父の一周忌を迎える前だった。
そして祖父が亡くなった直後に東京での生活を始めた私には、祖父の一周忌に出ることもできなかった。
なんとかして、もうこの世界にいない祖父に「ありがとう」を伝えたい。
私はパソコンに向かった。
亡くなった後、祖父の部屋から出てきた86年間の写真を収集していたので、それらと前年の年末にたまたま録画していた餅つきの日の映像を繋ぎあわせて7分半のムービーを作った。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」
一周忌に集まる親戚全員に祖父のことを忘れさせてなるものかと思い、泣きながら、鼻をかみながら、ありがとうと呟きながら、編集した。
曲はケミストリーの「最期の川」にした。ぜひ一度聞いてみてほしい。

いつか人は亡くなる。残念ながら亡くなる。
私は東京にいても地元にいる祖母や両親と連絡をとること、年に3回は帰省すること、どんな形であれ「ありがとう」を伝えることを誓った。宅急便で米を送ってもらった時、実家の布団に布団乾燥機をかけてくれていた時、雑誌に載った文章を褒めてくれた時・・・30を過ぎても、してもらってばかりであることに、今さらながらこれを書いて気がついた。

実は帰省するたび、母が祖母に似ているなぁと思う瞬間、父が祖父に似ているなぁと思う瞬間がある。表情や、ふとした仕草が似ているのだ。
駅で別れる時は、あと何回会えるかな、話せるかなと思いながら電車に乗る。
新幹線に乗るころには、少し胸がチクチクする。
最期は後悔がないように、なんてどうやっても無理だろうけど、「ありがとう」を伝えることだけは続けよう。
そして、祖母や両親が亡くなった時はまたムービーを作って流そうと思う。

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