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最後の良い時間 #わたしたちの人生会議(リレー連載)

この記事は、緩和ケア医の西智弘さん主導の、「わたしたちの暮らしにある人生会議」という公募出版イベント(くわしくはこちら)のエキシビジョンとして書かれました。「人生会議って名前は聞いたことがあるけど、どういうことだろう」。お話を書くのは「発信する医師団」のメンバーたち。命をみつめる医師たちの、個人的なお話をリレー形式で連載します。

第一回 外科医 中山祐次郎
第二回 循環器内科医/産業医 福田芽森

最後の良い時間


医学部6年生の冬、祖父を亡くした。
 
「おじいちゃんの具合が悪いから、東京に着いたらその足で水戸に来てほしい」
10年前の2月、医師国家試験を終え春休みを満喫していた私に、母親からメッセージが届いた。そのとき私は同級生の仲間たちと、4月から忙殺されるであろう研修医生活の前の最後の思い出づくりに、遠方に卒業旅行に出かけていた。
悪い予感はしていた。年明け頃から、祖父は体調を壊し、食が細くなっていた。でも、東京から、水戸へ行く道中では、何も考えないようにしていた。答えはすぐ分かることだから。

「あのね、驚かないでね」
水戸駅のロータリーに、伯父の車で迎えに来てもらって、その車には母も乗っていて、私にそう告げて、その時私はすぐに分かった。「もしかして、おじいちゃん、死んじゃったの」。
「うん、そう、よくわかったね」
「うん、なんとなく」
水戸駅から15分、揺られる、車の中で、色々な話を聞いた。数日前祖父の体調が悪い日があり、叔母が病院に連れて行ったが自宅で様子をみることになった事、その後すぐに亡くなり、叔母以外は死に目に合う隙もなかった事、亡くなったあと祖父の葬儀の段取りは通常通り進んでいたが、従姉妹が「芽森ちゃんが会えなかったら悲しむ、会わせたいから焼かないで」と号泣して止めてくれた事、肉体をドライアイスで保存し、私が帰ってくるのを待ってくれていた事、帰路に知らせて気が動転するといけないので、水戸駅に着くまではお見舞いという体にしておいた事。
「旅行中に言ってくれてよかったのに」
「でも、もう死に目には会えないから急いでも変わりはないし、おじいちゃんはあなたが医者になるのをとても喜んでたから、働く前の最後の楽しい時間も、そのまま過ごして欲しいと思って。いいのよ、皆もゆっくりおじいちゃんと過ごせたから。でも、焼く前には会いたかったでしょう?」
「うん、それは、本当、ありがとう」
亡くなったのを知っても冷静ではあった私だが、従姉妹の優しさには、涙が出そうになった。年の近い従兄弟達の中でも私は一番下だったし、いたずらっ子で人懐こい末っ子気質な私は、祖父にも従兄弟達にも可愛がってもらっていた。母方の親戚は仲が良く、母は三姉妹の真ん中で、姉妹はそれぞれ4人家族だったので、3家族と祖父母の14人で、小さい頃は毎年のように旅行していた。今どき親戚一同での旅行は珍しいかもしれないが、高校生くらいまでは本当に毎年か年に2回くらい、14人で祖父母の家なり、近くの温泉地なりに、集まっていた。仲の良い14人で、祖父は皆に愛されていた。

祖父は、多趣味で、博識だった。県庁に定年まで勤め上げた後、美術館でボランティアのガイドをし、句会を主催し句誌を定期的に出し、絵も描き、陶芸もこなした。70代でも裸足で孫と全力でテニスをする、活発さもあった。私も従兄弟達も、囲碁や麻雀は祖父から教わった。とにかく、よく、120歳まで生きるとか、冗談に聞こえない冗談を娘たち孫たちに言われていたような、そんな人だった。そんなパワフルな祖父だったが、亡くなる1年くらい前、交通事故で足を悪くした後は、元気がない日が続いた。亡くなる少し前も、体調を壊し、電話で度々励ましていたが、食事があまり取れていないようだった。「…もう少し何かできなかったのかなあ」、月並みのことを思った。
 
安置所に着いて、叔母に会った。3姉妹の末っ子の叔母は、水戸から自宅が近いこともあり、一番祖父母の面倒をみてくれていた。亡くなった当日も、一番近くにいた人だ。「ありがとう、おじいちゃん待ってたから、会ってあげて」。
遺体はもう、綺麗になっていて、あの淡い色の木の箱の中に、祖父はいた。会うのもちょっと、久しぶりだったけれど、おじいちゃんは、おじいちゃんだった。でも、肉体としての命が尽きているということは、すぐ分かった。脈を確かめたわけでもないし、見た目も綺麗なのに、人間はなんで死が感覚的にわかるのだろう。
「おじいちゃん、来たよ」
私が祖父に呼びかけるのを見て、叔母は泣いた。私はいくらか祖父と話した後、叔母とも話した。叔母は、ぽつりぽつりと、亡くなった当日のことを話してくれた。
「もう一人で歩けない状態だったから、病院を出てタクシーを降りてからはもう、おぶって家に帰ったの」
そして、祖父を背中から下ろして、ベッドに寝かせると、スッと息がしなくなって、それで、亡くなったのがわかったのだ、と叔母は言った。
 
その日の夜は通夜で、久しぶりに会う親戚や祖父の知り合い、初めて会う祖父の友人、そしていつもの13人で、祖父を弔った。葬式は初めてではなかったから、驚きは特になかったけど、やはり、14人が揃っているのに、そこに祖父の笑い声がないのは、寂しかった。
ほとんどの人が帰って、13人と祖父が残った。棺に近づいて、眺めていると、従兄弟達や、叔父叔母や、祖母も、近づいてきた。棺を開けて、最後にもう少し話そうよ。
「おじいちゃんだね」
「じいさんだなぁ」
「タバコ好きだったから、入れておこうか」
「麻雀牌も、持ってくればよかった」
悲しい雰囲気じゃなくて、小さい頃毎年行っていた、旅行の、あの雰囲気だった。私達は、色んな場所に行ったし、色んな話をしてきた。
「もう、タバコ鼻に突っ込んじゃおうか」
おじいちゃんが、生きていたときのように、一緒にいるといたずら心が芽生えた。従兄弟達は笑った。
「おまえ、怒られるよ」
「怒って欲しいね」
叔母も母達も、笑っていた。
「おじいちゃん、天国で笑ってるよ」
「本当にあんたたちは、しょうがないんだから」
「でも、喜んでるね。こんなに孫たちに愛されて、皆、素直な子に育って、」
叔母も、母達も、泣いているような、でも笑っているような、忙しい表情で、私達と、祖父を見ていた。おじいちゃんと、皆で、集合写真を沢山撮って、沢山笑った。悲しいけれど、最後の幸せな時間を過ごした。
翌日は、お葬式、遺体を焼いて、骨壷に収めた。理由は特になく、祖父の骨を味見してみようかとも思ったけど、やめておいた。
 
「いい夜だったね」
東京に帰ってきて、母と話した。
「そうね、山本家らしい、時間だったね。あんまり人に言うと、変に思われるかもしれないけど」
母はまた少し笑って言った。いたずらっ子だった私が最後にしたいたずらを、祖父は笑って見ていてくれただろうか。今までも、私にとって親戚の仲が良いのは、嬉しく、誇らしいことだったが、祖父と過ごした最後の時間は、間違いなくこれからの私の人生の中で、温かくあり続けるのだろうと、そう思った。その確信の通り、今でも度々私は、この時間のことを思い出している。
「お母さんは、どういうお葬式がいいの」
ふと母に、尋ねた。山本家の次女の、理想の葬式を。
「お母さんはね、同窓会みたいな、お葬式がいい。楽しいお葬式」
「さすがおじいちゃんの娘だね、でも、葬式は同級生だけが来るわけじゃないでしょ?」
「そう、だから、今のうちに、友達同士を会わせて、できれば皆友達になってもらえたら嬉しいなと思って。高木さんと望田さんだって、もともと別々の友達なのよ、高木さんは幼稚園のママ友で、望田さんは私の大学時代の友達だし」
「ええっそうなの?すごいね、友達にも感謝だよ」
「そう、合いそうな友達同士しか、会わせないけど。でも皆、いい人たちだから」

母は、自分の葬式で、皆が久しぶりに会ってわいわい話せるような、そんな楽しいお葬式にしたい、と言った。友達が多く、いつも明るい母らしい考えだと思った。母の理想のお葬式のために、普段から協力してくれている母の友人達にも、感謝である。

母にはまだ長生きしてもらいたいけれど、もしお葬式を開くときがきたら、精一杯最後の素敵な時間を、母を大事に想う人達と過ごしたいと思った。10年前の、あの時のように。



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