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別れは突然に#わたしたちの人生会議(リレー連載)

この記事は、緩和ケア医の西智弘さんが言い出しっぺの、「わたしたちの暮らしにある人生会議」という公募出版イベント(くわしくはこちら)のエキシビジョンとして書かれました。「人生会議って名前は聞いたことがあるけど、どういうことだろう」。お話を書くのは「発信する医師団」のメンバーたち。命をみつめる医師たちの、個人的なお話をリレー形式で連載します。

第一回 外科医 中山祐次郎
第二回 循環器内科医/産業医 福田芽森

 別れは突然に、何の前触れもなくやってくる…。

 その日私は、大阪の専門学校で教壇に立っていた。パラメディカルの専門学校。講義も半ばに差し掛かったとき、携帯電話が鳴った。

 授業中に携帯電話を取るのは学生に対して失礼だとは思ったが、滅多に電話をかけてこない横浜の実家の母からの電話だったので、学生に断って電話に出た。

「お父さんがね、いつまでたっても起きてこないから、起こしに行ったんだけど、冷たくなっているの。息してないの。」

 そこからの会話は覚えていない。今まで感じたことがなかった感情…宙を浮いたような、全てが夢かのような現実感のない感覚が、全身を駆け巡る。

 異変に気がついた学生が声をかけた。

「父親が死んだようだ。」

 学生は即座に授業を打ち切ってくれた。心遣いに感謝しつつ、親族などに電話し続けた。

 その日、私が幹事の飲み会があった。中止にするわけにはいかない。話を合わせ、笑顔で会話しながら、心ここに在らず。味がしない酒を飲んだのは初めてだった。

***

 思えば父とはすれ違いばかりだった。

 酔っ払って帰宅して、土産のケーキを今食べろ、と叩き起こされたり、家族旅行で海のそばを通ったので車を止め、いきなり「泳げ」と命じられたり。肩を揉めと言われたら逆らえない。おかげで親指は浪越徳治郎(知らないか)ばりに曲がってしまった。

 思春期になるにつれて、自然と父を避けるようになっていた。まあ、思春期の男子が父親と仲がよかったら、それはそれでおかしいけど。

 メーカーの営業職だった父は、いわば昭和のモーレツサラリーマン。朝から晩まで働いていた。もちろんその姿は見ておらず、ずっと会社にいる人、というのが子供たちの認識だった。

 私が生まれたその日さえ、海外出張に出ていたというのだから、ワークライフバランスなんてあったものじゃない。それが昭和だったといえばそれまでだが。

 帰宅は深夜。営業だからいつも客に接待して酔っ払って帰ってくる。血中アルコール濃度によって機嫌が変わるので、酒量が多い日は雷が落ちると警戒したものだ。休日も飲まない日はない。アルコール依存症だったと言えるだろう。

 タバコは一日70本。まさにチェーンスモーカーだ。家が煙くてたまらず、おかげでタバコは今に至るまで一本も吸っていない。反面教師というやつだ。

 モーレツな働き方、酒にタバコ。そりゃ体に良いわきゃない。

 父の体は次第に蝕まれていった。子供の頃ポリオにかかり足を引きずっていた父は、還暦を過ぎヨレヨレといった表現がピッタリになっていった。心臓の冠動脈も詰まりかけており、ニトログリセリンの舌下錠を持ち歩いていた。

 医師からは酒とタバコを辞めるように言われていたが、「ばか言っちゃいけない」と取り合わなかった。酒とタバコが人生の拠り所だったのだろう。

***

 冷たくなった父を見た母は救急車を呼んだ。

 第一発見者の母は警察の取り調べを受けた。そう、病院外での死亡は事件として扱われるのだ。疑いはすぐ晴れたのだが。

 警察から解剖もできると言われたけどどうすればいい?との電話を受けて、解剖してもらおうと即座に答えた。

 なんの因果か、病理医として病死の解剖を多数行ってきた私の身内が解剖されるなんて。病理解剖ではなく行政解剖ではあるが。解剖はある大学で行われた。結果はやはりというか、急性心筋梗塞であった。

 死の前日も泥酔し、眠りについたという父。脱水もあり、夜半から明け方にかけて、冠動脈が血栓で詰まった。おそらく痛みを感じだと思うが、酩酊状態だっただろうし、どうすることもできず、誰にも看取られず、人生の最後の時を迎えたのだ。

 自業自得と言えるかもしれない。冠動脈の狭窄を放置し、酒もタバコも辞めなかったのだから。とはいえ、こんなに早く死ぬとは思っていなかったのだろう。遺言も何もなく、日常が続くものとして様々な予定を入れていたからだ。

 棺には父が遺していたタバコを全部入れた。父はタバコとともに煙になった。

 突然何の準備もせずに人が亡くなると、手続きがこんなにも大変なのか…。葬儀の後、突然死の辛さを思い知ることになるが、ここでは触れない。

ぴんぴんコロリで死ぬと警察に通報?  ~不思議の国 日本の現実~

家族が亡くなった後の手続き一覧。連絡先は?口座や税金の手続きは?

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 葬儀に父の母、つまり私の祖母の姿はなかった。

 父が死んだ日は、祖母の90歳(卒寿)の誕生日だった。そして葬儀の日は、父が卒寿祝いのために祖母に会いに行く日だったのだ。

 脳梗塞を繰り返し、見るからに弱っていた祖母にその事実を伝えるのはあまりに酷だ…。親戚たちはそう判断したのだという。長崎に住む祖母が横浜まで移動するのも大変だというのもあった。祖母には都合がつかなくなったから父はこない、と告げだという。

 果たしてそれがよかったのか…。

 父の納骨の時、祖母に父の死を告げだ。

「そうか…。英顕(ひであき;父の名前)は死んだのか…。」

 多くを語らない祖母から絞り出すように出た言葉に、実の息子を亡くした深い悲しみを感じざるを得ず、お別れを言わせてあげるべきだったのではないか、という気持ちが湧き出てきた。

 もちろん、祖母を身近で介護する叔母が、体力や気力を踏まえて判断したのだから、それは尊重しなければならない。だからこそ、複雑な思いを抱かざるを得なかった。

 父が死んだ年の秋、脳梗塞を繰り返し、寝たきりになった祖母は誤嚥性肺炎で逝った。父の後を追うかのような旅立ちだった。

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この写真を撮影した数ヶ月後、祖母も旅立った。

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 最近鏡の中の自分に父を感じるようになった。歳をとるにつれて、姿形がどうも似て来ているのだ。

 鏡の中にいる父の幻影を見るたび、肩を揉まされすぎて曲がった親指を見るたび思い出す。父と祖母が逝ったあの年のことを。

 そして思う。もっと死について語り合っておくべきだったと。

 酒タバコにすがり、身を削って我々兄弟を育ててくれたこと。家族のために仕事に没頭し、それゆえ家族から疎まれる辛さ。今なら分かる。

 私がトラブルで理学部の大学院を辞め、医学部に学士編入学することになっても、何も言わず見守ってくれた。

 「ありがとう」とひとこと言いたかった。

 祖母には父の死を告げ、なんらかの形できちんとお別れを言ってもらうべきだったと今なら思う。介護していた叔母とも、親戚とも話し合い、負担が少ない範囲でもしもの時の対応を考えておくべきだった。

 新型コロナウイルスの感染拡大で、最後のお別れをいえない家族が悲しみに暮れていると聞く。その気持ち痛いほど分かる。

 もう繰り返すまい。残された母とも、悔いのないように話していきたい。そしてアラフィーを迎えた自分自身も例外ではない。病理医としてたくさんのご遺体を解剖させていただいた私だって死ぬのだ。当たり前だけど。

 ぜひ皆さんも、今のうちに大切な人と死について語り合って欲しい。

 誰にでも死はやってくる。それは突然かもしれないのだから。

 

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