なぜひとは変われないのか?──鏡と他人と自己一致:『カウンセリングテクニック入門
注意!筆者は専門家ではありません。読者です。この記事は取りあげている本を読みながら、読者でありつつ患者としての自分の自己治癒といった側面があります。繰り返しますが、筆者は専門家ではありませんので、この記事から受け取った情報は、あくまでも非専門家の一意見としてお読みいただきますようお願い申し上げます。
なお、ですます調で書いてあるのは、この記事を書いた時点(数年前)での筆者の流行によるものです。あしからず。
この記事で取りあげている本――
岩壁茂編著『カウンセリングテクニック入門』,金剛出版,2018
この記事に書いてあること――
自分が自分であることの変わらなさが、人生をツラいものにする。
臨床心理学は個人の正常化を担い、カウンセリングは個人の社会化を担う。
医者は症状の治療をし、カウンセラーは人格の治療をする。
過去と他人は変えられない。クライアントもまた自分の過去に悩みを抱える他人である。
カウンセラーは〝クライアントを癒やす〟のではなく〝クライアントが癒える〟ことを補助する。
人間は1枚の鏡で、クライアントもまた鏡であり、その鏡は無意識に記憶し、意識に反映し、人間関係を反復する。
クライアントの問題は無意識に営んでしまっている人間関係のパターン=〈営み〉に潜んでいる。
カウンセリングは〈受容〉〈共感〉〈一致〉を条件にした傾聴の態度を基礎とし、目標にもしている。
カウンセリングの場はクライアントにとって「日常的な関係性」ではなく「非日常的な関係性」である。
カウンセラーのテクニックは、いかにしてクライアントに自身の無意識的に反復してしまっている人間関係の〈営み〉を自覚させるかにある。
クライアントが「ありのままの自分」と「誤解された自分」とで齟齬をきたした自己イメージを一致させるためには、他人であるカウンセラーとの相互理解を通してとなる。
カウンセリングの前提はカウンセラーとクライアントとが人格的に出会うことだと言え、カウンセリングの目標はクライアントがカウンセラーとの関係を人格化することにある。
無意識に繰り返してしまっていることこそが、ひとの〝変わらなさ〟の根拠になっているのだから、自覚することによって、「無意識的な繰り返し」を「意識的な振る舞い」へと変えられる。そうすることで、ひとは変わることができる。
体験として得られた気づき(自覚)は、ひとつの出来事としてそれ以前と以後とを分ける。この出来事が、カウンセリングのなかで起こることであり、〝自分が自分であること〟の変化なのだ。
クライアントに自己の一致が認められたとき、カウンセリングは、ひとが変わることができるということを明かしてくれる。
目次
カウンセリングへの期待
自分は自分でしかないという事実
ここにしかない場所=〈こころ〉
こころの病い
臨床心理学とカウンセリング
カウンセリングは人格を治療する
〈こころ〉次第の人生
〝癒やす〟のではなく〝癒える〟
クライアントの抱える問題
自分=1枚の鏡
鏡は記憶する
鏡は反映する
鏡は反復する
クライアントもまた1枚の鏡である
問題は〈営み〉にあり!
カウンセラーのテクニック
カウンセリングの基礎と目標
受容と共感――傾聴の態度
非日常的な関係性
自己一致――傾聴の態度
自己関係の齟齬
自己イメージの強度と他人との相互理解
人格を通した相互理解と自己一致
カウンセリングで何が起こるのか
ここまでのおさらい
パラフレーズ・リフレクト・サマライズ
言い換え・反映・要約
鏡や反響板になる
「鏡であること」と「鏡になること」
ロジャーズの実例より
ロジャーズの実例から
カウンセリングのなかで起こること
カウンセリングのなかでひとは変わる
カウンセリングへの期待
自分は自分でしかないという事実
ひとは変わることができるのか、否か、それが問題です。
わたしたちは自分の人生を歩んでいます。生きていくうえでは、ひとは自分以外の誰かであることができません。その意味で、〝自分が自分であること〟において、自分は自分以外のものへと変わることがありえないように思われます。
自分は自分。――とはいえ、そのような〝自分が自分以外ではありえない〟人生のなかで、〈こころ〉を病み、希望を失い、生きることになんら価値をも見いだせなくなってしまったとき、〝自分は自分でしかない〟という事実はひどくツラいものになります。
ここにしかない場所=〈こころ〉
ツラさを感じるのは、〈こころ〉です。〈こころ〉は心臓でも、脳でも、ましてや松果体などでもありません。〈こころ〉は意思と重なりますが、意思にせよ、特定の部位を指して「ここに自分がいる」とは言えません。それでもわたしたちは人体のどこかでもない、けれども確かにここにある意思の在処を〈こころ〉と呼んでいます。
〝どこか〟ではなく、自分が自分であることが成立している〝ここ〟としか呼べない場所(ここにしかない場所)を、わたしたちは〈こころ〉と呼ぶのです。
こころの病い
〈こころ〉が不健康になると、ひとは態度や性格が変わってしまったり、問題行動を取ることがあります。「こころの病い」というやつですね。
「こころの病い」の患者(患った者。以降クライアント)になった場合に病院に行くと、臨床心理学が救いの手を差し伸べてくれます。
臨床心理学とカウンセリング
臨床心理学では、〈こころ〉の健康状態の回復を目的とした治療がなされます。言い換えますと、臨床心理学は、社会生活のなかで障害を抱えているクライアントの症状の回復を重視するのです。
臨床心理学は障害を抱えたクライアントの症状は相手にしますが、クライアントの社会生活上における適応に関しては対応しきれません。あくまでも臨床心理学のメインは、クライアントの問題となっている症状の回復にあります。
クライアントが社会生活において直面する障害への対処を目的として、適応の補助を重視するのがカウンセリングです。
クライアントに対して、臨床心理学を背景にした医者が個人の正常化を担うのだとすれば、カウンセリングを行うカウンセラーが目指すのは個人の社会化なのです。
カウンセリングは人格を治療する
「こころの病い」はクライアントが自らの人生を歩むうえでの大きな障害となります。このときに医者に期待されることは、病いを治すこと(回復)です。
しかし病いの症状が消えたとしても、病いを患ったクライアント自身が変わったわけではありません。その意味でクライアントは、病いが治ったとしても、「自分は自分である」という〝自分の変わらなさ〟のなかにいます。
消えたのは症状だけで、もしかしたらまた、同じような「こころの病い」に掛かってしまうかもしれません。
カウンセラーが受け持つのは、症状の原因であるクライアントの人格(自分が自分であること)を変えることなのです。症状ではなく、人格の治療。それがカウンセラーの役目なのです。
ある研究によれば、カウンセリングを受けたひとの病いの再発率が低くなるといいます。(※)このことは、「こころの病い」にはクスリ任せの対症療法だけではダメだということを示しています。
(※Smith ML,Glass GV & Miller TI (1980) The Benefits of Psychotherapy. Baltimore : The Johns Hopkins University.およびHollon SD, Stewart MO & Strunk D (2006) Enduring effects for cognitive behavior therapy in the treatment of depression and anxiety.Annual Review of Psychology 57 ; 285-315.の研究による。――岩壁茂「カウンセリングテクニックの「前提」」『カウンセリングテクニック入門』,金剛出版,2018,p38を参照)
〈こころ〉次第の人生
ひとは変わることができるのでしょうか?
もしも変われないのだとすれば、ツラい人生はツラい状態のまま、続いていくことになります。
もしも変わることができるのなら、ツラい人生でも幸せになれる希望があります。
人生を変えることができるのかは、わたしたちの〈こころ〉次第だと言われます。
ハートやマインド、ヤル気や気持ち次第で良くも悪くもなる人生。
――だとすれば、臨床心理学がひとの病いを治したその後に、病いの元になった〈こころ〉を癒やすカウンセリングの役目はとても重要なものだと納得できます。
〝癒やす〟のではなく〝癒える〟
カウンセラーは医者がクスリを処方して症状を治すようには、〈こころ〉を治しません。 病いは治すものですが、〈こころ〉はあくまでも癒えるものなのですから。
「過去と他人は変えられない」と言われますが、カウンセラーにとってクライアントは〝自分の過去に悩みを抱える他人〟です。だからこそ、過去も他人も抱えるクライアント自身を〝カウンセラーが癒やす〟のではなく、〝クライアント自身が癒える〟ために、カウンセリングの場はあるのです。
要するに、カウンセリングは〈こころ〉が〝癒える〟ことを補助するかたちで〝癒やす〟のです。
〈こころ〉が癒えたとき、ひとはクライアントとしてカウンセラーの元を訪れたときとは違っています。つまり、変わっているのです。
カウンセリングでひとは変わるのです。
以上のことを踏まえて、筆者は『カウンセリングテクニック入門』を読む際に、カウンセリングがどのような理念とワザを秘めているのかを期待するのです。
クライアントの抱える問題
自分=1枚の鏡
唐突ですが、1枚の鏡を想定しましょう。それはわたしたちが「わたし」と呼んでいる、〝自分〟もしくは人格のことです。
ひとの人格は遺伝によって決まっている部分もあるにせよ、多くの部分を環境との関係によって決定していくことになります。
あたかも、鏡が対面するものを映すように、環境との関係のあり方を映していき、自分に映ったものへと自分の中身が詰め込まれていく……。
たとえば、わたしたちが「わたし」と言って使っている言葉がありますが、もともと〝わたし〟が何なのかをわかっていたのでしょうか? おそらくわからなかったでしょう。わからないなりに、ひとは他人が使っているようにして、自分でも使っていったのです。使ってみた結果、ひとは〝わたし〟が何なのかを使っているうちにわかっていき、自分もまた〝わたし〟なのだと理解できるようになったのです。
要するに、「わたし」と言っている他人を自身に映したことで、自身に映った他人を自分の属性へと、中身へと、人格へと反映させていった結果、他人へのなりそこないとして、個性ができあがっていくのです。鏡に映るものは左右非対称のイメージであることを思えば、鏡もまた映しそこないだと言えます。「他人になりそこなう自分」と「対象を映しそこなう鏡」は対象との関係の仕方が似ています。だからこそ鏡のイメージは、わたしたちの〝自分が自分であること〟の根拠である人格を説明するのに示唆的です。
以上を、わたしたちの人格の形成を説明する考え方としておさえておきます。
鏡は記憶する
鏡は自らに映るものの全てを選ぶことはできません。鏡は自身に映った全てを記憶します。〝わたし〟が意識的に覚えていなくとも、無意識において記憶される――そういった記憶の仕方で以て、自らに映ったものは記憶されていきます。
鏡は反映する
ひとが「過去は変えられない」というとき、同時に、〝現在の人格は過去の反映である〟というメッセージにもなっています。
ひとが社会に出て人間関係で悩むことは、自分に都合のいい人間ばかりと出会い、そして付き合っていくわけではないという事情に由来します。しかし鏡であるわたしたちは、そうした不都合な人間関係も映してしまいます。
わたしたちは「自分がされたことを他人にする」という言い方を知っていますし、実際にそうした態度があることも知っています。鏡であるわたしたちは、自身に映ってしまった人間関係を、しばしば他の人間関係のなかへと反映してしまうのです。
「自分がされて嫌なことは他人にするな」という言い方もありますね。要は、「自分が他人にすること」は「自分が他人にされたこと」との関係から理解することができるというわけです。
あたかも鏡のように、「映す/映される」反映のイメージで、自分と他人との関係が理解できる……。
鏡は反復する
無意識によって引きおこる現在の行いは、特に、過去の挫折した人間関係によって決まってきます。「あのとき、こうしていたら、あんなことにはならなかっただろうに……。」そのような後悔が、ひとが生きていくことのうちには何度かあるでしょう。
過去に挫折した経験は、当人の自覚とは関係なく、「今度こそは成功させたい!」という無意識の願望として実を結ぶことになります。無意識の願望は、当人の自覚とは関係なく行ってしまう行動・思考のパターン(反復)となって現れるのです。
反復は意識的な領域ではなく、無意識的な領域によって引きおこるので、当人は思い通りにならないという現実に苦しむことになります
生活環境や人間関係の変化によって、クライアントの行動・思考のパターンがうまく通用しなくなること、それが、クライアントの抱える問題なのです。
クライアントもまた1枚の鏡である
クライアントもまた1枚の鏡です。
たとえば、ダメ男に尽くしてしまうことも、他人に上から目線になりがちなのも、みな、鏡としての自分がかつて対面することで自身に映してきた他人との関係を、別の関係のなかで相手に対して差し向けているのです。
以上のような事情は、クライアントの抱える問題が、鏡のような自身の人間関係の映し方によって引き起こっている――そのようにイメージすることができます。
問題は〈営み〉にあり!
「自分が他人にされたことを他人にする」――自分と他人、そして自分と自分への関係が、過去に映した人間関係の記憶である無意識のほうから決まっていて、当人は知らずのうちに反復して、同じような思考・行動のパターンを〝営んでしまって〟いる……。
そうです、問題はひとの〈営み〉のなかに潜んでいるのです。
日常の生活現場では、多くの場合、必ずしも当人が意識して行なっているわけではなく〝無意識に営んでしまっている〟行いがあります。
ひとは自覚をすることによって言動を変えることができますが、自覚がなく無意識のうちに行ってしまうことには自制のブレーキを掛けることはできません。
クライアントの生きづらさは、往々にして無意識的に反復してしまっている行動・思考のパターン、つまりはひとの〈営み〉によって起こっているのです。
カウンセラーのテクニック
カウンセリングの基礎と目標
カウンセリングにおいて、カウンセラーが目指すところは、最も基礎的なところと一致します。
カウンセリングのひとつの基本理念としては、アメリカ・カウンセリング学会の前身である American Personnel and Guidance Association が冠していたものがあります。そこでの〝 Personnel 〟の語には、「人が人生をどのように生きるのかを見つめることにカウンセリングの基盤があるということ」が含意されていたそうです。※
また、カウンセリングの基盤を作った臨床心理学者のカール・ロジャーズは、カウンセラーが守るべき三つの基本的な条件を提唱しています。
無条件の肯定的配慮(受容)
共感的理解(共感)
自己一致(一致)
アメリカ・カウンセリング学会にせよ、ロジャーズの三条件にせよ、目標と基礎とは一致しているのです。それは「傾聴」の態度です。
受容と共感――傾聴の態度
ロジャーズが提唱した三条件は、厳密には〝傾聴の三条件〟ということになります。
カウンセリングの目標であり基礎でもあるカウンセラーの傾聴の態度は、第一には、問題を抱えるクライアントに、〝肯定も否定もされずに話を聴いてもらえる〟という経験を与えます。
傾聴の際の〈受容〉とは、文字通りクライアントの言葉を、ただそのままの形で受け止めるという態度です。
〈受容〉の態度では、クライアントが「死にたい」と言ったからといって、カウンセラーは「そんなこと言ってはいけない」などとは言わないのです。同情したり賛同したりといった関係性では、相手の機嫌を損なわないように〝気を遣ってしまう関係〟になりかねないからです。なので、ただ、「そうなんだね、死にたいんだね」と、相手の直面している現状をそのままのかたちで受け止めてあげることが大切になります。
〈受容〉をしたそのうえで、カウンセラーは、クライアントが感じていることへの理解を、クライアントに訊ねながら、確かめながら、ひとつひとつ押さえていくことで〈共感〉していきます。
クライアントはカウンセラーに受容され、理解され、共感されることで、〝自分自身に対して共感する自分〟になることができます。ひとは他人に共感されると、他人に共感されている自分自身に共感できるようになるのです。
言い換えますと、自分と他人との関係で〝共感される〟関係ができると、その関係性を自分と自分自身との関係に投影することができるようになるのです。
非日常的な関係性
カウンセリングの場面ではクライアントが普段属している「日常的な関係性」とは異なる「非日常的な関係性」を作らなくてはいけません。
クライアントがカウンセラーの元を訪れるのは、クライアントの人間関係の〈営み〉のパターンが「日常的な関係性」のなかでうまく機能しなくなったからです。だからこそ、カウンセラーはカウンセリングの場でクライアントの〈営み〉のパターンそのものへと、クライアントの意識を促します。
極論を言えば、カウンセラーのテクニックは、いかにしてクライアントに自分自身の無意識的に反復してしまっている人間関係の〈営み〉に注意を向けさせるのかにある、と言ってもいいでしょう。
自己一致――傾聴の態度
自己関係の齟齬
ロジャーズの三条件に返りますと、非日常的な関係性に入っていくために、無条件にクライアントの現状を受容することからはじめます。受容をすることによって、徐々に共感的理解へと移っていくのです。
それから、おそらくは仕上げ位置にあると言っても過言ではないものが、傾聴の第三条件である〈一致〉です。
自己一致と呼ばれる傾聴の条件は、言葉通り、クライアントの自己関係の齟齬を一致させることを意味します。
たとえば、わたしたちはしばしば、自分のことを他人に伝えようとして誤解されてしまいます。そこには自分と他人とのあいだで宙づりになっている自己があって、その自己が相手に伝わらないことで「ありのままの自分」と「誤解された自分」とに分かれてしまうのです。
筆者が「自己関係の齟齬」と言ったのは、「ありのままの自分」と「誤解された自分」という二つの自分を抱えたときの自己の状態のことです。自分が自分であること(=自己関係)のうちに不純物が混じり込んだ状態と言ってもいいでしょう。
自己関係の齟齬の限りで、クライアントは、自分自身についての一致していないイメージを抱えることになります。
自己イメージの強度と他人との相互理解
自己イメージは、他人とのあいだで形づくられます。
文章が読者に読まれることによって意味が現れるように、自分は他人に理解されることによって自己イメージを受け取ることができるのです。
なぜ他人とのあいだでないといけないのかと言うと、それは自分にとって他人が〝変えられないもの〟だからです。
自分では変えることができないものによって保証される自己イメージは、たとえば過去の経験や人間関係によって現在の自分の人格が出来上がっているようなものです。自分が父親と母親とのあいだに生まれたことは否定しようがありません。こうした変えようのないものとの関係から自己イメージはかたち作られています。
他人もまた過去と同じように変えられないものの位置にあります。そのような自分では変えられないものとの関係によって保証される自己イメージは、布団のなかでひとりで悩んで決めた自己イメージとは断然、強度が違ってきます。ざっくり言えば、公認と非公認ほどの違いがあります。
以上を踏まえれば、強度のある自己イメージの理解が進むのは、自分と他人とのあいだで合意が成立することによって、となります。だからこそ、自己関係の不一致を解消するためには、他人であるカウンセラーとのやり取りによって得られる相互理解を手立てとするのです。
人格を通した相互理解と自己一致
相互理解を得られたなら、クライアントの「ありのままの自分」とカウンセラーに「理解された自分」とが一致し、傾聴の三条件は成立したことになります。(とはいえ傾聴の成立はカウンセリングの完成ではありません。カウンセリングはクライアントの社会的な適応を目標にするという性格から、明確にカウンセリングの完成を判断できるものではないのです。)
以上の通り、傾聴とその三条件は、カウンセリングにおける最も基礎の部分に置かれているテクニックであり、最も基本的な態度でもあると同時に、クライアントの〝自分が自分であること〟の健やかさの確立を目指した、カウンセリングの目標でもあるのです。
そして、クライアントの自己一致にまつわるカウンセラーの諸々のテクニックは、あくまでもそれを用いる「一人のカウンセラーの人格を通してはじめて効果をもつようになる」という認識を前提にしているのです。
言わずもがな、傾聴の三条件である〈受容〉〈共感〉〈一致〉は人格的であることを蔑ろにした無神経な人間にはできません。
こう言ってよければ、カウンセリングの前提はカウンセラーとクライアントとが人格的に出会うことだと言え、カウンセリングの目標はクライアントがカウンセラーとの関係を人格化することにあると見立てることもできるでしょう。
(※岩壁茂・平木典子「[対談]カウンセリングの前提/カウンセラーの条件」『カウンセリングテクニック入門』,金剛出版,2018,p11の平木の発言を参照)
カウンセリングで何が起こるのか
ここまでのおさらい
ひとは変わることができるのか、否か、それが問題なのでした。
クライアントが、問題を抱えている状態から変わることができるのかどうか、ですね。
ひとが何らかの問題を抱えてカウンセリングのクライアントになるとき、クライアントは日常的な〈営み〉に支障を抱えているのでした。
カウンセラーは、クライアントの日常的な〈営み〉を、カウンセリングという非日常的な人間関係のなかでうまく機能させなくします。つまり挫折させるのです。〈営み〉を挫折させることによって、クライアントに自分自身の無意識的に繰り返してしまっている〈営み〉へと注意が向かうように促すのです。
ひとは自覚することによって自身の思考・行動のパターンに自制のブレーキを掛けることができます。
無意識に繰り返してしまっていることこそが、ひとの〝変わらなさ〟の根拠になっているのだから、自覚することによって、「無意識的な繰り返し」を「意識的な振る舞い」へと変えられるのではないか。そうすることで、ひとは変わることができるのではないか――というわけです。
以上を踏まえて、最後に、カウンセリングの場面でクライアントとカウンセラーとのあいだで何が起こるのかを確認してみることにします。ひとがカウンセリングによって変わるとすればどのようにしてなのか。「パラフレーズ・リフレクト・サマライズ」というテクニックに焦点を当てることによって確認してみましょう。
パラフレーズ・リフレクト・サマライズ
言い換え・反映・要約
「パラフレーズ・リフレクト・サマライズ」とは、順に「言い換え・反映・要約」のことです。クライアントに自身の人間関係の営み方の問題点への気づきを促すことを目的として、カウンセラーがクライアントの言葉に対して、「言い換え・反映・要約」という操作を加えていくテクニックです。
テクニック名の通り、クライアントの言葉を別の言葉に言い換えたり、要約することによって、より的確な表現をクライアントへとフィードバックするテクニックとなります。
鏡や反響板になる
リフレクト(反映)では、クライアントの言葉の背後にある感情を特定したうえで、言い換えたり要約したりします。
「反映」という語は鏡のイメージを連想させます。
カウンセリング理論の創始者であるロジャーズは「カウンセラーは、自分の判断を加えずにクライアント自身の話した内容をそのまま聞けるような鏡や反響板になる必要がある」と考えていたそうです。(※)
カウンセラーがクライアントに対して〝鏡や反響板になる〟というのは、クライアントにとってカウンセリングでの人間関係が、ふつうの人付き合い――つまり日常的な人間関係とは違っていることを意味します。
そのような鏡や反響板の態度は、クライアントに自分が〝営んでしまっていること〟の、反復の挫折を悟らせることになるのです。
※Rogers CR (1942) Counseling and Psychotherapy. Boston : Houghton Mifflin ――藤生英行「パラフレーズ・リフレクト・サマライズ」『カウンセリングテクニック入門』,金剛出版,2018,p124を参照
「鏡であること」と「鏡になること」
鏡のイメージで話を進めましょう。
筆者は【クライアントの抱える問題】の章節で、クライアントひいては人間の人格を一枚の鏡としてイメージすることにしました。他方で、本節ではロジャーズの言葉を引いて、カウンセラーは鏡になる必要があるという知見を扱います。
ふたつの鏡のイメージは両立させられます。
【クライアントの抱える問題】では「クライアントが鏡であること」ことに焦点を当てています。それに対して、ロジャーズの考えを受けた本節は「カウンセラーが鏡になること」へと焦点を当てるのです。
「クライアントが鏡であること」と「カウンセラーが鏡になること」は両立します。
ここでも、自覚が関係してきます。
クライアントは無意識に自分がうまくいかなかった人間関係を反復してしまっていることで問題を抱えることになっているのですから、自分自身が鏡であることにも無自覚なのです。要するに、クライアントは無自覚な鏡なのです。
他方で、カウンセラーは自覚的に鏡であろうとします。
カウンセラーはクライアントの鏡になることによって、クライアントが反映・投影してしまっている自他関係及び自己関係を、クライアント自身に覗かせるのです。
無自覚な鏡であるクライアントは、自覚的に鏡になっているカウンセラーとの関係のなかで、いつも通りの人間関係の〈営み〉のパターンがうまくいかないことに気づくことになります。さながら、鏡を覗いて自分が思っていたよりか疲れていたのだと気づくようにして……。
ロジャーズの実例より
ロジャーズは自身のカウンセリング実例を、16ミリフィルムで記録しています。クライアントはキャシーという対人的な悩みを抱えている人物でした。そこではパラフレーズ・リフレクト・サマライズのテクニックが施されていて、クライアントが実際にカウンセリングの過程でどのような変化をするのかが認められます。
元の映像フィルムから適宜抜粋した記述を、さらに筆者が適宜要約したものであるため、カウンセリング実例としての情報量は薄まっていはします。しかしクライアントであるキャシーがカウンセラーの言葉によって自分自身が〝営んでしまっていたこと〟の自覚を得るくだりだけでも読む価値があると思います。
それでは、以下より――
面接は前期、中期、後期とあり、キャシーは前期に次のような発言をしています。
「私は、長い、長い間、孤独でした」
「私は、自分の殻に閉じこもっています。そこは安全です」
「自分の殻から出てくるのが怖いのです」
「私は、自分ではなく他の人に焦点が当てられているときはオープンになれます」
ロジャーズはキャシーの気持ちに寄り添いながら彼女の心情に共感していき、言葉や表情に多様な相互作用を観察します。
キャシーが沈黙する場面では、ロジャーズはじっと穏やかにクライアントである彼女を見守ります。いつも、沈黙を破るのはクライアントのほうでした。
映像では、ロジャーズはキャシーの言葉を傾聴しながら、適宜クライアントの言葉を言い換え、より明確な言葉で反映し、積極的な配慮をし、確実にクライアントに寄り添っている様子がうかがえます。
面接の中期で、クライアントはカウンセラーが自分の傷つきやすい部分に接近されたことを感じたからか、次のような強い感情を言葉で表現しました。
「今、私は怒りを感じています」――と。
それに対してロジャーズは「そのように人を避けることが、あなたを孤独にさせるのですね」と応答します。
ロジャーズの言葉はクライアントの心理状態を明確に反映し、応答しているのです。
このときのクライアントの感情の変化は、映像からでも明確に読み取れます。
面接の後期では、クライアントであるキャシーから「人生を余すところなく生きるには自分のすべてを受け入れなければならない」という肯定的な言葉が出ました。(※※)
※※Shostrom EL (1975) Three approaches to psychotherapy Ⅱ (Film). Santa Ana, CA : Psychological Films.――松見淳子「繋げる=理解から行動へ」『カウンセリングテクニック入門』,金剛出版,2018,p89-91を参照
ロジャーズの実例から
元が映像フィルムに記録されている実例なので、実際の感じは映像を見てみないことにはわかりませんが、以上の実例には確かにクライアントの変化が認められます。
カウンセリングの中期において、クライアントが怒りを表明する場面があります。自分の領域に踏み込まれたと感じたクライアントが怒りを表明するくだりです。その場面では、無自覚な鏡であるクライアントにとっては、いつも通りの人間関係の〈営み〉のパターンを展開しているに過ぎません。
ロジャーズはそのようなクライアントの人間関係の〈営み〉のパターンと、キャシーの個人的な対人関係の〈悩み〉とを(言い換えて、反映し、そして要約をすることで)関連付けることによって、クライアント=キャシーに自身の問題を自覚させるのです。
ここでクライアントに起こっていることは営んでしまっていることの一時停止だと言えます。
カウンセラーがクライアントに対して鏡になることによって、クライアント自身の〈営み〉へと注意を促します。そうすることによって自覚ができ、無意識に営んでしまっていたことの一時停止をすることができるようになるのです。つまり、自分の人間関係の〈営み〉のパターンを自覚することで「営みの一時停止」ができるようになるのです。もっと言えば、 自らの〈営み〉に気づくそのことが「営みの一時停止」につながるのです。
カウンセリングのなかで起こること
パラフレーズ・リフレクト・サマライズのテクニックは、ロジャーズの実例のように、クライアントに対して処方するようなものではありません。むしろクライアントの思考・行動の主体であることを尊重した、補助的なものでした。補助的に添えられる言葉の掛け方に対して、「パラフレーズ・リフレクト・サマライズ」という呼び方がなされているのです。
クライアントが自ら考え、そして気づく余地を残したうえで、カウンセラーは言い換え、反映し、要約を施します。
ロジャーズの実例からもわかるように、クライアントはカウンセリングのなかで何かを感じました。カウンセラーとのやりとりから、何かを自覚することができたのです。その何かはクライアント自身にこそ最も意味のある気づきなのであって、筆者がたとえば「無意識に営んでしまっていたこと」などという言葉にしても、クライアント当人が感じたこととはうまく重ねられることができないでしょう。
しかしながら、〝無意識に営んでしまっていたこと〟を自覚できたというのは、非常に大きなことです。そのことを単に他人から教えられるということではなく、ひとつの体験として気づきを得られたのですから。
体験として得られた気づき(自覚)は、ひとつの出来事としてそれ以前と以後とを分けます。この出来事が、カウンセリングのなかで起こることであり、〝自分が自分であること〟の変化なのです。
カウンセリングのなかでひとは変わる
ひとは変わることができるのか、否か、そうした問題に悩むとき、ひとは〝現状のマズさ〟を出発点にしています。このままではダメだと思っているからこそ、ひとは「変わりたい!」という想いを抱くのですから。
このままではダメだと思っているとき、そこには〝見ること〟と〝見られること〟とのあいだに自己関係の齟齬があり、自己の不一致があります。
筆者は当記事で、ひとの人格を説明するのに鏡のイメージを使いました。
鏡は、ありのままの自分を映しはしません。左右非対称なイメージを見せてくれるだけです。
とはいえ、わたしたちが自分自身のイメージを見るためには鏡が必要になります。鏡を覗くときには〝見られること〟を〝見ること〟よりも先に置かなければなりません。〝見られること〟を通さなければ、自分のイメージを〝見ること〟ができないのです。だからこそ、〈見る〉という自己イメージの獲得には齟齬または分裂してしまう余地があります。
鏡のイメージを踏まえれば、カウンセリングの意義は、クライアントにおける〝見ること〟と〝見られること〟との齟齬や分裂の調律、つまりは自己一致にあります。
クライアントに自己の一致が認められたとき、カウンセリングは、ひとが変わることができるということを明かしてくれるのです。
_了
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