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    第1節から第8節までの投稿です。

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『存在と時間』を読む Part.1

 ご存じ、ハイデガーの『存在と時間』は20世紀最大の哲学書と言われるだけあって、これまで日本でも多くの訳本が出版されており、比較的簡単に手に取ることができる書物です。一般的に難解だというイメージがありますが、訳本も解説書もわかりやすいものがでていますし、読むことのハードルも下がっているように思います。  しかし、原文を読んでみる機会はなかなかないのではないでしょうか。ドイツ語だし、文章量も多く、読み通すのはちょっと大変...。さすがにそれは遠慮しようかな、という方もいらっし

    • 『存在と時間』を読む Part.88(終)

        第83節 現存在の実存論的かつ時間的な分析論と、存在一般の意味への基礎存在論的な問い  ハイデガーはこの節の冒頭で、これまでの考察の課題について次のように総括します。 Die Aufgabe der bisherigen Betrachtungen war, das ursprüngliche Ganze des faktischen Daseins hinsichtlich der Möglichkeiten des eigentlichen und uneigen

      • 『存在と時間』を読む Part.87

          (b)時間と精神の関係についてのヘーゲルの解釈  (a)項において、ヘーゲルは弁証法的な時間概念に依拠することで、「時間と精神の関連を確立することができた」ことが指摘されていました。ヘーゲルは精神が時間との関係のうちで成立することの証明を試みるのであり、この(b)項では、このように精神が「時間のなかに落ち込む」ことができるためには、精神の本質にどのようなものが属しているのでなければならないかを解明することにあります。 Wie ist der Geist selbst

        • 『存在と時間』を読む Part.86

            第82節 時間性、現存在、世界時間の実存論的かつ存在論的な連関を、時間と精神の関係についてのヘーゲルの見解と対比する試み  ハイデガーはヘーゲルの時間概念が、通俗的な時間了解のもっとも根底的な定式化であることを指摘します。ヘーゲルは歴史がその本質からして精神の歴史であり、「時間のなかで」経過していくことに注目して、歴史の発展は時間のなかに落ち込むと語っていたのです。そこでハイデガーが問題とするのは、次の2つです。 Die Zeit muß den Geist glei

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        記事

          『存在と時間』を読む Part.85

            第81節 時間内部性と通俗的な時間概念の発生  すでにわたしたちの日常生活においては、時間が時計の秒針と分針の動きとその移動距離のうちに姿を示すことが確認されてきました。すると時間を定義しようとすると、次のようになります。 Sie ist das im gegenwärtigenden, zählenden Verfolg des wandernden Zeigers sich zeigende Gezählte, so zwar, daß sich das Gege

          『存在と時間』を読む Part.85

          『存在と時間』を読む Part.84

            第80節 配慮的に気遣われた時間と時間内部性  現存在は世界内存在として、世人の公共的な時間に合わせて生きざるをえないのであり、これが「世界時間」の根底にある状況です。この時間の公共性が、世界時間の第3の特徴となっています。  ここで注意しなければならないのは、このように時間が公共的なものとなることで、公共的な時間を測定するために使われる時計が、現存在の生活にとって必須なものとなり、それとともに、時間は誰にでも眼の前にみいだされるものとならざるをえないということです。

          『存在と時間』を読む Part.84

          『存在と時間』を読む Part.83

            第79節 現存在の時間性と時間についての配慮的な気遣い  これまで本書において詳細に検討されてきたように、現存在は他の存在者とは明確に異なる存在のしかたをしています。現存在は、みずからの存在においてこの存在そのものが問われるような、実存する存在者であると同時に、世界内存在として、世界のうちで配慮的に気遣う存在者です。また現存在は、手元的な存在者に配慮的な気遣いを行い、共同現存在に顧慮的な気遣いを行う存在者です。さらに現存在は、そのような存在者として世界のうちに被投され、

          『存在と時間』を読む Part.83

          『存在と時間』を読む Part.82

           第6章 時間性と、通俗的な時間概念の起源としての時間内部性   第78節 これまでの現存在の時間的な分析の欠陥  この節では、これまでの通俗的な時間概念とその分析の方法論の欠点を明らかにすることによって、第6章全体の構成を説明することを目的としています。そのためにこうした欠点については、そのありかを指摘するだけで、立ち入った考察は、第79節以下の分析に委ねられます。  まず検討されるのは「時間内部性」という概念です。これまでの現存在の歴史性の実存論的な分析論では、歴史

          『存在と時間』を読む Part.82

          『存在と時間』を読む Part.81

            第77節 歴史性の問題についてのこれまでの考察の提示と、ディルタイの研究およびヨルク伯の理念との関連  ハイデガーは、ディルタイの研究活動が伝統的な歴史学とは明確に異なる視点をそなえていたことを強調し、ディルタイの根本的な目標は、〈生〉を哲学的に了解することであり、そして〈生そのもの〉からのこのような理解に、解釈学的な土台を確保することだと指摘します。このディルタイの研究の目標をよく理解し、それをさらに深めたのがパウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯(ヨルク伯)でし

          『存在と時間』を読む Part.81

          『存在と時間』を読む Part.80

            第76節 現存在の歴史性に基づく歴史学の実存論的な起源  この節の課題は、現存在の歴史性に基づいて、一般に人類の「歴史」を考察する学問とされている歴史学という学問が、どのようにして現存在の存在機構から誕生してくるのかについて、存在論的な可能性を問うことにあります。現存在の歴史性ともっとも関連の深い学問である歴史学は、現存在の歴史性を前提条件としている学問であるだけに、歴史学の実存論的な起源について解明すれば、現存在の歴史性の性格と、それが時間性に根差していることをさらに

          『存在と時間』を読む Part.80

          『存在と時間』を読む Part.79

            第75節 現存在の歴史性と世界-歴史  この節の中心的なテーマは非本来的な歴史です。現存在が非本来的なありかたをしているとき、すなわち頽落しているときに、現存在の活きている歴史は当然ながら、非本来的なものとなります。すでに頽落は日常性に生きる現存在にとっては前提となるようなものであることが指摘されてきました。この頽落には2つの重要な側面があります。  1つは、現存在は配慮的に気遣う手元的な存在者に囲まれて生きているという側面です。現存在は自分の生活のためにさまざまな事物

          『存在と時間』を読む Part.79

          『存在と時間』を読む Part.78

            第74節 歴史性の根本機構  これまで歴史についてその存在論的な問題と実存論的な問題に分けて考えてきました。歴史の存在論的な問題とは、歴史とはどのような「存在であるか」を考察するものですが、実存論的な問題とは、歴史そのものは実存するものではないので、実は現存在の歴史性についての問題でした。つまり、現存在はいかに歴史的な存在として「実存するか」を問うのです。そこでこの節では、歴史の存在論的な問題が、実は実存論的な問題であることをあらわにすることを目指すことになります。  

          『存在と時間』を読む Part.78

          『存在と時間』を読む Part.77

          第73節 歴史の通俗的な了解と現存在の生起  そもそも歴史という語が、実際に人類の歴史において起きた出来事や、こうした出来事について考察する学問としての歴史学を指すこともあることは、すでに確認したとおりです。そしてこの節では、この第1の意味での歴史的な出来事についての考察が展開されます。  ハイデガーはこうした考察の手掛かりとして、通俗的な歴史の概念について、4つの語義から考察しようとします。歴史という言葉は多義的だからです。  歴史についての第1の通俗的な概念は、「過ぎ去

          『存在と時間』を読む Part.77

          『存在と時間』を読む Part.76

           第5章 時間性と歴史性   第72節 歴史の問題の実存論的かつ存在論的な提示  『存在と時間』の考察の目的は、存在一般の意味への問いに答える可能性をみいだすことだけにありました。この存在一般という言葉には、現存在の実存という存在様式だけでなく、道具の手元的な存在という存在様式と眼前的な存在者の存在様式も含められています。  存在論の観点からみると、古代のギリシア哲学の伝統では、人間を動物とは異なる特別な生き物とみなして、独自の存在のありかたを重視しました。一方では中世以

          『存在と時間』を読む Part.76

          『存在と時間』を読む Part.75

            第71節 現存在の日常性の時間的な意味  これまでの考察において、配慮的な気遣いの時間性が分析され、先駆的な決意性のもとで、本来的な時間性において生きる実存のありかたが考察されてきました。しかし現存在はつねに本来的な時間性のもとで生きているわけではありません。基礎存在論が考察したのは日常性における現存在であり、日常性においては現存在は多くの場合、頽落して生きています。わたしたちは世人の1人となって生きているのがつねであり、それが「日常」なのです。日常性とは、現存在がさし

          『存在と時間』を読む Part.75

          『存在と時間』を読む Part.74

            第70節 現存在にふさわしい空間性の時間性  時間性との関連では、当然ながら空間性も重要な意味をもちます。ハイデガーは世界内存在にとって空間は、道具連関の存在場所として登場することを指摘していました。「わたしたちは手元的に存在するものに、それぞれに固有の環境世界的な空間において出会うが、この出会いが存在者的に可能となるのは、現存在自身がこの世界内存在というありかたのために〈空間的〉であるからにほかならない」のでした(Part.21参照)。実存論的な観点からは、時間性は空

          『存在と時間』を読む Part.74