『存在と時間』を読む Part.85
第81節 時間内部性と通俗的な時間概念の発生
すでにわたしたちの日常生活においては、時間が時計の秒針と分針の動きとその移動距離のうちに姿を示すことが確認されてきました。すると時間を定義しようとすると、次のようになります。
Sie ist das im gegenwärtigenden, zählenden Verfolg des wandernden Zeigers sich zeigende Gezählte, so zwar, daß sich das Gegenwärtigen in der ekstatischen Einheit mit dem nach dem Früher und Später horizontal offenen Behalten und Gewärtigen zeitigt. (p.421)
そうした”時間とは、移動する時計の針を現在化しつつ数えながら追跡するときにあらわになる〈数えられたもの〉のことであり、そのさいにこの現在化する働きは、〈以前に〉と〈後で〉に向かって地平的に開かれている保持と予期の脱自的な統一において時熟する”と定義することができるだろう。
時計の針を数えるのはこの今であり、これは現在化の契機です。この現在化の瞬間においては、「以前に」を保持することが同時に行われています。過ぎ去った一瞬はすでに「かつて」になっているのであり、今の一瞬の前に「以前の」過ぎ去った無数の瞬間が折り重なっています。ですから時計の針を数える今は、「以前に」という地平に開かれていることであり、これは「今はもうない」という地平に向かって開かれているということを意味します。
さらにこの現在化の瞬間においては、「後で」を予期していることが同時に行われています。わたしたちが時計をみるのは、たとえば約束の時間までにまだどのくらいの時間的な余裕があるかを調べるためです。これが意味するのは、今はと言いながら、「後で」の地平に開かれていること、すなわち「今はまだない」という地平に向かって開かれているということです。
このように現在化のうちで、つねに将来と既往の時間的な継起を脱自的に統一しながらあらわになるのが時間というものです。これが「”現在化する働きは、〈以前に〉と〈後で〉に向かって地平的に開かれている保持と予期の脱自的な統一において時熟する”」と表現されているのです。
ところでこの「数えられたもの」という概念は、すでにアリストテレスが示していたものです。アリストテレスが『自然学』で示した時間の定義は、「時間とは、〈以前に〉と〈後で〉の地平において出会う運動において数えられたものである」というものでした(原文はギリシャ語で書かれており、ハイデガーはドイツ語訳をつづけて載せています。>Das nämlich ist die Zeit, das Gezählte an der im Horizont des Früher und Später begegnenden Bewegung<.)。実存論的かつ存在論的な定義というものも、この「数えられたもの」というアリストテレスの定義を解釈し直したものなのです。
そしてアリストテレスの後に行われた時間についての考察は、時間をこのように「数えられたもの」であり、移動しつつある時計の針を現在化することと考えるものです。これらの考え方では、時間というものを移動する秒針などを眺めながら、「今はここに、今はここに」と「今」の瞬間を数えあげるものであり、このような時間をハイデガーは「今-時間」と呼びます。
Wir nennen die in solcher Weise im Uhrgebrauch >gesichtete< Weltzeit die Jetzt-Zeit. (p.421)
わたしたちは時計の使用においてこのようなありかたで「眼に入ってくる」世界時間を、”〈今-時間〉”と呼ぶことにしよう。
これまでも確認してきたように、この「今-時間」こそが、通俗的な時間概念の土台となる考え方なのです。
この「今-時間」を基礎とした通俗的な時間概念は、これまで展開されてきた存在論的な時間概念とどのように違うものなのでしょうか。「今-時間」の概念に依拠している通俗的な時間概念には5つほどの重要な特徴があります。通俗的な時間概念との違いについて考察するために、これまで列挙されてきた世界時間の4つの重要な特徴を「今-時間」の概念と比較してみることにしましょう。これによって通俗的な時間概念の第1の重要な特徴は、世界時間が平板化されていることにあることが明らかになります。
まず最初の「日付可能性」から考えてみましょう。日付可能性は、「今は」と語るときに、今は「~するとき」であると認識することでした。日づく可能性はの〈今〉はその本質からして「~すべき今」なのです。しかし秒針の動きをただ眺めるだけの「今-時間」においては、このような「~すべき今」という現存在の配慮的な気遣いの要素はまったく無視されています。
第2の「伸び広がり」については、この「今-時間」が今のこの一瞬だけに注目することにおいて、時間の「伸び広がり」を無視するものであることは明らかでしょう。通俗的な時間概念にとって時間は、不断に眼前的に存在する〈今〉の連続として現れてくるのです。
第3の「公共性」については、「今-時間」では時間の公共的な性格は重視されず、時計を眺める現存在のまなざしの方向と「今」の一瞬だけが重視されることが指摘できるでしょう。この「今」は断片的なものであり、時計をみる現存在のうちで〈今〉の流れとして知覚されるだけのものです。時計は公共的な時間性を確立するための手段ですが、「今-時間」の現存在はこうした公共性にそれほど注目しません。
第4の「世界性」については、有意義性が重要な判断基準になります。世界時間はそもそも配慮的に気遣われた時間であって、あらゆる「今」は、何かをなすべきとき、あるいはなすべきでないときとして把握されています。しかし「今-時間」においては、そのような手元的な存在者の道具連関や適材適所性などはまったく無視されています。
このように4つの特徴のどれをみても、存在論的な世界時間の時間概念と通俗的な「今-時間」の時間概念は明確に異なっており、とくに顕著なのが第1の「日付可能性」と第4の「世界性」における違いです。
In der vulgären Auslegung der Zeit als Jetztfolge fehlt sowohl die Datierbarkeit als auch die Bedeutsamkeit. Die Charakteristik der Zeit als pures Nacheinander läßt beide Strukuturen nicht >zum Vorschein kommen<. Die vulgäre Zeitauslegung verdeckt sie. Die ekstatisch-horizontale Verfassung der Zeitlichkeit, in der Datierbarkeit und Bedeutsamkeit des Jetzt gründen, wird durch diese Verdeckung nivelliert. (p.422)
時間を〈今〉連続とみなす通俗的な時間の解釈では、日付可能性も有意義性も、どちらも”欠け落ちて”いる。時間が純粋な継起として性格づけられているので、どちらの構造も「現れること」が”ない”のである。通俗的な時間の解釈は、これらを”隠蔽する”のである。〈今〉のこうした日時の確認可能性と有意義性は、時間性の脱自的かつ地平的な機構を根拠とするのであるが、この機構はすでに述べた隠蔽のために”平板化される”。
通俗的な時間概念ではこれら2つの特徴を「”隠蔽する”」のであり、この隠蔽がもたらす結果として、「今-時間」によって「時間性の脱自的かつ地平的な機構」が「”平板化される”」ことになります。このように「今-時間」に基づいた時間の見方の第1の重要な特徴は、世界時間を隠蔽し、平板化することにあります。
通俗的な時間概念の第2の特徴は、時間をあたかも眼前的な存在者として考えようとする傾向です。時間を秒針の運動とそれの移動した距離で考えようとするところにすでに、時間を眼前的な存在者として考えようとする傾向が顕著なのです。現存在の存在の地平である時間が、あたかも現存在が自由に使うことのできる手元的な存在者であるか、あるいは誰もが眼の前に眺めることができることによって客観的な性格をおびた眼前的な存在者であるかのようにみなされているのです。
通俗的な時間概念の第3の特徴は、時間というものが配慮的に気遣いをする現存在に時熟してくる将来、既往、現在という脱自的な構造をもつことが無視されて、まったく等質な「今」という一瞬が、未来も過去も現在も構成するかのように思われていることです。時間を今の継起として考え、過去と未来もこの現在の「今」で考えようとするのです。この今は次々と過ぎ去り、これらの過ぎ去った今が集積して過去を形成します。そしてこの今は次々と到来するのであり、これらの次々と到来するそれらの「今」が、未来の限界を定めるのです。
過去と未来は、このような断片的な「今」の瞬間からしか理解されず、しかも等質な今の瞬間の集積と到来として考えられています。
In jedem Jetzt ist das Jetzt Jetzt, mithin ständig als Selbiges anwesend, mag auch in jedem Jetzt je ein anderes ankommend verschwinden. (p.423)
”どの”〈今〉においても〈今〉は〈今〉であり、それぞれの〈今〉において到来し、消滅していくものはそのつど別の〈今〉ではあるが、それでも〈今〉はたえず”同一のものとして”現存している。
ハイデガーは古代においてこの第3の特徴を明確に示した哲学者として、プラトンの名前を挙げています。プラトンは対話篇『ティマイオス』において、「今」がたえず新たなものに変わりながら、しかもつねに「同じ」今であることに注目して、時間を「永遠性の模像」と名づけました。「今」は交替するものでありながらも、すべての「今」は同時に同じ「今」として不断に現存するという時間のありかたに、プラトンは永遠性をみたのです。
通俗的な時間概念の第4の特徴は、今がこのように等質なものであるだけではなく、恒常的なものと考えられていることです。今の連続は決して中断されることがなく、隙間もないものであり、しかもこれをどこまで分割していっても、相変わらず同じ「今」です。今はこのように恒常性を、分解することのできない眼前的な存在者という地平から眺めようとしているのです。
通俗的な時間概念の第5の特徴は、それが無際限なものと考えられていることです。もしも時間を今という刹那の連続的な系列であると考えると、すべての今は同質で、同じ資格をそなえたものですから、この「今」と過ぎ去ったばかりの「今」は、同じものであるはずです。このことから、この「今」は、そして過ぎ去ったばかりの「今」は、それ以前にすでに過ぎ去った「今」とまったく同質で、同じものだと考えなければならなくなります。するとこの「今」連続は、わたしたちが生まれる前が存在していたはずであり、それは無際限に過去に遡れるものであるに違いありません。
これはこれから訪れる「今」についてもまったく同じように主張できるでしょう。次の瞬間の「今」は、遠い未来の「今」とまったく同じものであり、この連鎖は未来に向かって際限なくつづくものであるに違いありません。こうした今連続だけに依拠しようとすると、この連続そのものにはいかなる始点も終点もないと言わざるをえなくなるのです。
これらの通俗的な時間概念のすべての特徴をそなえた「今-時間」の概念によって、世界時間の構造が隠蔽され、眼前的な今の断片にまで貶められてしまうことになるのです。
このように通俗的な時間概念では、時間性の真の意味は隠蔽され、世界時間は「今-時間」へと平板化されていますが、その根本的な原因は、現存在の自己喪失のうちにあります。日常性のうちに頽落した現存在は、さしあたりたいていは、みずから配慮的に気遣っているもののうちに自己を喪失しています。この頽落のありかたはすでに第35節から第38節において詳細に分析されてきましたが、頽落が現存在の実存にとってもっとも重要な意味をもっているのは、現存在が死への先駆にあって、自己に固有の存在可能の選択を決意する先駆的な決意性から逃走するという状況においてです。通俗的な時間概念は、現存在がこの重要な先駆的な決意性から逃走するように誘うことによって、現存在が決断を下すことを妨げているのです。
通俗的な時間概念が現存在をこのような形で誘惑するために大きな役割をはたしているのが、「今-時間」の概念の第5の特徴である「無際限な時間」という考え方です。こうした誘惑の道筋は3つあると考えられます。第1の道筋は、この考え方が現存在にとって自己忘却と自己の死からの逃走を唆すものとなることです。もしも時間が際限なく流れつづけるのであれば、現存在は自己の死という「終わり」から目を背けるようになるでしょう。そもそも現存在は自分自身の死からはつねに目を背けていたいと願うのであり、自己の死について忘却していようと望んでいるものです。そしてそのことが通俗的な時間論の概念を魅力的なものとしています。
Die uneigentliche Zeitlichkeit des verfallend-alltäglichen Daseins muß als solches Wegsehen von der Endlichkeit die eigentliche Zukünftigkeit und damit die Zeitlichkeit überhaupt verkennen. Und wenn gar das vulgäre Daseinsverständnis vom Man geleitet wird, dann kann sich die selbstvergessene >Vorstellung< von der >Unendlichkeit< der öffentlichen Zeit allererst verfestigen. (p.424)
頽落的で日常的な現存在に属する非本来的な時間性は、このように〈終わりのあることから目を背けること〉であるから、それは本来的な将来性を、さらには時間一般を見誤らざるをえないのである。ましてや、世人が通俗的な現存在了解を指導するようになると、公共的な時間の「無限性」という自己忘却的な「表象」が、ますます強まってしまうだろう。
第2の道筋は、現存在は頽落した日常性においてつねに世人の言葉に耳を傾けているために、死への先駆が妨げられることにあります。世人は現存在に「終わりまではまだ時間がある」と語りかけることで、先駆的な決意性の実現を妨害するのです。
Das Man stirbt nie, weil es nicht sterben kann, sondern der Tod je meiner ist und eigentlich nur in der vorlaufenden Entschlossenheit existenziell verstanden wird. Das Man, das nie stirbt und das Sein zum Ende mißversteht, gibt gleichwohl der Flucht vor dem Tode eine charakteristische Auslegung. Bis zum Ende >hat es immer noch Zeit<. (p.424)
世人は決して死ぬことがない。なぜならば、死はそのつど〈わたしのもの〉であって、本来的には先駆的な決意性においてしか、実存的に理解されないものだから、世人は死ぬことが”でき”ないのである。世人は決して死ぬことがないものとして、〈終わりに臨む存在〉を誤解しつづけるが、それにもかかわらず世人は、死からの逃走に、特徴的な解釈を与えるのである。すなわち、終わりまでは「まだ時間がある」と解釈するのである。
第3の道筋は、世人は、現存在にこのように「まだ時間がある」と語り掛けながら、現存在が残された時間を日常の生活のうちに食いつぶすように誘惑することにあります。
Hier bekundet sich ein Zeit-haben im Sinne des Verlierenkönnens: >jetzt erst noch das, dann das, und nur noch das und dann ...<. Hier wird nicht etwa die Endlichkeit der Zeit verstanden, sondern umgekehrt, das Besorgen geht darauf aus, von der Zeit, die noch kommt und >weitergeht<, möglichst viel zu erraffen. (p.425)
ここで告げられている〈まだ時間がある〉ということは、〈失ってもよい時間がある〉という意味であり、「今のところはまだこれを、次にあれを、そしてさらにあれも、それからそのときには~」ということである。これでは時間の有限性すら理解しているとは言えない。その反対に、この配慮的な気遣いは、これから到来して、「さらに先に進んでいく」時間のうちから、できるだけ多くのものを掴みとろうと構えているのである。
残された時間は、あたかも「失ってもよい時間」であるかのように、「今のところはまだこれを、次にあれを、そしてさらにあれも、それからそのときには~」などと、現存在の自己喪失を深めるように誘惑するのです。
このようにして現存在は、「そのつど〈わたしのもの〉」である死の瞬間から目を背け、自分に固有の時間を忘却し、やがては通俗的な時間しか知らないようになってしまいます。この通俗的な時間概念は、無限につづく時間の中で、たった1人の現存在の死に何の意味があろうかと囁きかけ、自己の死の瞬間と死の意味を忘却させるのです。
このように世人は、「今-時間」という通俗的な時間概念によって、現存在に自分に固有の「終わり」を忘却させ、先駆的な決意性を選び取ることを妨げようとしますが、この誘惑は蹉跌せざるをえないとハイデガーは指摘します。ただし、この根拠についての説明の説得力は、あまりないかもしれません。というのも、現存在が頽落して世人の言葉に耳を傾けているのであれば、そしてみずからも世人の1人となっているのであれば、ハイデガーの挙げたような理由によってこの頽落から目覚めるのは至難のことに思えるからです。
ハイデガーはほぼ3つの理由を挙げています。第1は、どの現存在にとっても自分の死は避けがたく訪れるからです。現存在がどれほど自己の死を忘却しようとも、かならず死は訪れるのであり、現存在はやがてはそれに直面せざるをえません。「今-時間」がただ過ぎ去っていく限りのないもののようにみえるとしても、自分の死の確実性という事実は、現存在に死に直面せざるをえなくさせるのです。
第2は、このような死の不可避性のために、現存在は通俗的な時間概念を否定するようなまなざしをもたざるをえなくなるからです。通俗的な時間概念は、時間を「今」という瞬間でしか理解しませんが、この日常的な時間概念は、「ときは過ぎ去る」ということを特に強調しているとハイデガーは言います。たしかに「今-時間」には過ぎ去る〈今〉が含まれていますが、同時に到来する〈今〉も含まれているはずです。それにもかかわらず、わたしたちは普段「時間は生じる」というよりも「時間は過ぎ去る」というように、到来する〈今〉よりも、過ぎ去る〈今〉にばかり注目しているように思えます。
Warum sagen wir: die Zeit vergeht und nicht ebenso betont: sie entsteht? Im Hinblick auf die reine Jetztfolge kann doch beides mit dem gleichen Recht gesagt werden. In der Rede vom Vergehen der Zeit versteht am Ende das Dasein mehr von der Zeit, als es wahrhaben möchte, das heißt die Zeitlichkeit, in der sich die Weltzeit zeitigt, ist bei aller Verdeckung nicht völlig verschlossen. (p.425)
わたしたちは「ときは”過ぎ去る”」と言うが、なぜそれと”同じように”〈ときが生まれる〉ことを強調しないのだろうか。純粋な〈今〉連続を考えてみれば、どちらも同じ権利をもって語られるべきなのだ。ときが”過ぎ去る”と語るときには、現存在は結局のところ、自分で考えているよりも、時間について多くのことを理解している。すなわち世界時間がそのなかで時熟するその”時間性”は、さまざまな隠蔽が行われているにもかかわらず、”完全には閉ざされていない”のである。
現存在がいかに頽落し、「ときは過ぎ去る」のはたしかだとしても、自分の死という時が訪れることもしっかりと知っているはずです。死は現存在にとっては避けがたいものですから、世人の言葉とはうらはらに、「世界時間がそのなかで時熟するその”時間性”は、さまざまな隠蔽が行われているにもかかわらず、”完全には閉ざされていない”」と言えるでしょう。日常生活において過ぎ去る時間が特に強調されてるのは、現存在が根底では、死によって規定された時間の有限性について知っているからなのです。
第3は、時間は「今」から「過去」へと流れるとしても、「今」から「未来」へと逆流することはできないのであり、これがこうした「今-時間」を破綻させているからです。この「今-時間」の概念では、過去も未来も同じ「今」ですから、現在の「今」から過去の「今」へと時が流れるのであって、現在の「今」から未来の「今」へと流れることができないことは、原理的には説明できません。時間が未来へ逆流できないことは、根源的な時間性の脱自的な構造によって規定されているのであり、公共的な時間もまたこの根源的な時間性から由来するものなのです。
この根源的な時間性の時熟は、第1義的には将来的であり、脱自的にはみずからの終わりに向かって進むのであって、通俗的な時間概念のように、「今-時間」の継起とは考えていません。それでも通俗的な時間概念もまた、時間が逆流できないことを認めますが、それは「今-時間」が時間性から派生したものだからです。
このように、脱自的な時間性は、根源的な時間概念として時間了解の地平を構築するものであり、「今-時間」はそこから派生したものにすぎません。そのためこの根源的な時間概念に依拠することによって初めて、世界時間がどうして、どのようにして現存在の時間性に属しているのかが理解できるようになるでしょう。
このように脱自的な時間概念こそが根源的なものであり、「今-時間」はそれから派生したものです。ここで、脱自的な時間性の現在、将来、既往という時間的な契機と、「今-時間」の現在、未来、過去という時間概念の違いを改めて確認しておきましょう。
まず「現在」の時間的な契機から考えましょう。これまでも指摘されてきたように、脱自的かつ地平的な時間性は、第1義的に将来から時熟するのであり、現在の時間は、将来から既往を経由する形で時熟します。これはすでに「瞬視」という脱自態として説明されてきました。これにたいして通俗的な時間概念は、時間の根本現象は純粋な「今」であると考えるのであり、この「今」がそのままで現在として理解されるのです。
次に「将来」の時間的な契機は、こうした脱自的な時間構造からみると、現存在が死への先駆によって直面する自分の終わりの瞬間によって規定されています。しかし通俗的な時間概念の「未来」は、まだ到来していない、これから到来してくる純粋な「今」という意味しかもちません。
最後に「既往」の時間的な契機は、現存在の被投性に基づいて、将来から脱自的に現在に時熟するために不可欠な時間的な契機です。これにたいして通俗的な「今-時間」の概念では、過去は現在の「今」と同質の過ぎ去った純粋な「今」という意味しかそなえていないのです。
なおハイデガーは、このように通俗的な時間論の不十分なところを指摘し、それが根源的な時間性の概念から派生したものであることを指摘しながらも、そして古代ギリシアに始まって、存在論的な見地が登場する以前の哲学の歴史における時間論の不十分さを指摘しながらも、哲学の歴史においても時間をたんに「運動の数」として把握するのではない考え方が登場していたことを認めています。すなわち、時間は「心」や「精神」と卓越した関連性をもつことを、伝統的な時間論は認めているのです。
たとえばアリストテレスは、「霊魂が存在しないかぎり、時間は存在しえない」(『自然学』第4巻第14章より、ハイデガーはギリシア語で引用しています。以下邦訳は中山訳)と語り、アウグスティヌスは「時間が精神そのものの〈広がり〉でないとすれば、それは驚くべきことだろう」(『告白』第11巻第26章より、ハイデガーはラテン語で引用)と書いていました。このようにしてみると、哲学の歴史において時間が人間という存在者と特別な関係にあることがすでに予感されていたのです。そこで次の第82節では、時間と精神の結びつきを確立しようとしたヘーゲルの時間論が検討されることになります。
Hegels ausdrückliche Begründung des Zusammenhangs zwischen Zeit und Geist ist geeignet, die vorstehende Interpretation des Daseins als Zeitlichkeit und die Aufweisung des Ursprungs der Weltzeit aus ihr indirekt zu verdeutlichen. (p.427)
時間と精神の関連についてヘーゲルが明示的に示した基礎づけは、これまで示してきた現存在を時間性として解釈する試みと、それに基づいた世界時間の起源の提示を、間接的にさらに明確に示すという目的では、最適なものであろう。
今回は以上になります。次回もまた、よろしくお願いします。
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