『存在と時間』を読む Part.84

  第80節 配慮的に気遣われた時間と時間内部性

 現存在は世界内存在として、世人の公共的な時間に合わせて生きざるをえないのであり、これが「世界時間」の根底にある状況です。この時間の公共性が、世界時間の第3の特徴となっています。
 ここで注意しなければならないのは、このように時間が公共的なものとなることで、公共的な時間を測定するために使われる時計が、現存在の生活にとって必須なものとなり、それとともに、時間は誰にでも眼の前にみいだされるものとならざるをえないということです。
 時計の登場は、複数の人々のあいだで共通の時間を計測し、定める必要性から生まれたものです。ハイデガーは、時計を使った時間計算は偶然に登場したものではなく、気遣いとしての現存在の根本機構のうちに、実存論的かつ存在論的に必然的なものとして登場したと考えています。時間の数量化して示す必要があったのは、時間を計算にいれる現存在の時間性のためにほかならないのです。
 このような公共的な時間において現存在は、共同現存在だけではなく、道具や眼前存在者とも出会います。現存在が時間の内部で出会うこれらの存在者は、「時間内部的な存在者」と呼ぶことができます。公共的な時間の本質を解明するためには、これらの存在者の「時間内部性」を解釈することが必要になるでしょう。そのためにハイデガーは、時間を計測する装置である時計について調べることからはじめます。

 人類史において最初に登場した時計は日時計ですが、ハイデガーは最初の時計が日時計であったことには重要な意味があると考えています。それは現存在と太陽の関係が原初的なものだからです。そもそも現存在にとって「日付可能性」の根拠となるのは、地球に生きる人間たちを照らす太陽が朝になって昇り、人々に日光を降り注ぐことによってです。この光とともに、現存在には、目配りする配慮的な気遣いによって「見る」ことの可能性が与えられます。というのも、目配り(>Umsicht<)は「見ること(>Sicht<)」で世界内部的な存在者と交渉するからであり、そのためにはある明るさが必要だからです。

 古代からというもの現存在は、日の出から日の入りまでの時間を分割して、「そのとき」を測定してきましたが、1日をこのように時間的に分ける作業も、時間に日付を与えるもの、すなわち動く太陽を顧慮して行われてきました。すでに第22節では、太陽が空間的な方角を決定するために重要な役割をはたしていることが説明されていました。太陽は現存在の生活の空間の配置に影響するだけではなく、日時計によって現存在の生活の時間の分割と過ごし方にも影響します。たとえば、洗濯物を干す時間は太陽が昇るときがふさわしいでしょうし、本を読むなら日中が目に良いでしょう。世界内存在としての現存在は、太陽の運行を計算にいれて、自分に時間を与えているのです。
 このことに時計が発明される必然性がありました。すべての現存在がいつでも、同じように行うことのできる時間の告知が必要とされたのです。誰もが公共的な日付によって、自分の時間を告知することができ、誰もがそれを計算にいれることができるようにするためです。すべての人が使うことのできる共通の時刻表示と尺度が存在しなければ、わたしたちは定刻どおりに電車に乗ることも、誰かと待ち合わせることもできないでしょう。
 このような共通の尺度を示す時計が可能となり、必然となった根拠は、世界内存在として他者と共同相互存在する現存在の時間性にあります。

Als Bedingung der Möglickeit der faktischen Notwendigkeit der Uhr bedingt die Zeitlichkeit zugleich deren Entdeckbarkeit; denn nur das gewärtigend-behaltende Gegenwärtigen des mit der Entdecktheit des innerweltlich Seienden begegnenden Sonnenlaufes ermöglicht und fordert zugleich als sich auslegendes die Datierung aus dem öffentlich umweltlich Zuhandenen. (p.413)
時間性は時計の事実的な必然性が可能となるための条件であり、それによって、時計の露呈が可能になるための条件にもなる。というのは、世界内部的な存在者が露呈されるとともに、現存在は太陽の運行に出会っているのだが、太陽の運行を〈予期しながら保持しつつ現在化する〉行為によってのみ、この現在化をみずから解釈しつつ、公共的で環境世界的な手元的な存在者を利用しながら、日付を打つことが可能になり、またそれが求められるようになるからである。

 人類の歴史の初期の段階では、このような太陽の見掛けの移動に基づいた日時計が利用されました。人類は「太陽の運行を〈予期しながら保持しつつ現在化する〉行為によって」、みずからに時間を与えていたのです。やがてはこの自然の時計に基づいて、太陽が雲に隠れているときや、日没の後になっても時刻を表示することのできる水時計といった人工の時計が登場しました。しかしこうした人工の時計も現代にいたるまで、太陽の運行に依拠した自然の時間に合わせて製作し、使用されるべきものだったのは明らかでしょう。
 このようにして、時間計算と時計の使用法の発達の概要を、実存論的かつ存在論的な意味に基づいて記述するための準備ができたのです。

 世界時間の第4の特徴は、こうした公共的な時間の世界性にあります。この「世界性」は、ハイデガーが定義した括弧つきの「世界」と括弧なしの世界の概念に対応して、2つの意味で理解することができます(世界と「世界」の区別については、Part.13参照)。
 第1の括弧つきの「世界」時間としては、すべての現存在が使うことのできる公共的な時間があげられます。グローバルなものとなる以前の世界では、地方ごとにさまざまに異なる時間が使われていました。同じイングランドでも、都市によって違う時刻表示の時計が使われていたことは有名でしょう。鉄道が運行を開始するとともに、国内の時計を統一する必要が痛感されるようになったのであり、やがては「世界」全体での時計の統一が必要とされるようになりました。
 この「世界」は地球のすべての国のことです。1925年にグリニッジ時として標準化されてから、世界のすべての人々が共通して使う時間が規定されたのでした。この公共的な時間は世界のすべての国の人間が利用することのできる「世界時間」という性格をおびています。
 第2の括弧なしの世界時間は、現存在が世界内存在として日常生活を送ることによって規定されている時間です。この括弧なしの世界は、現存在が生きている世界内存在の世界の意味です。現存在は世界内存在として世界のうちで生きるのであり、そうした世界内存在としての現存在が利用する共通の尺度としての時間は、「~すべきとき」とか「~すべきでないとき」という性格をそなえているとハイデガーは言います。

Die im Besorgen ausgelegte Zeit ist je schon verstanden als Zeit zu ... Das jeweilige >jetzt da dies und dies< ist als solches je geeignet und ungeeignet. (p.414)
配慮的な気遣いにおいて解釈された時間は、すでに〈~すべき時間〉として理解されているのである。それぞれの「今」は「さまざまなことのための今」であるから、”そうしたもの”として、”適切な今”であったり、”不適切な今”であったりする。

 仕事をするのに適切な時間と不適切な時間があることからも明らかなように、手元的な存在者を道具として使いながら、他者への顧慮を欠かすことのできない現存在は、自分の仕事の都合と他者の都合に考え合わせながら、「適切な今」をつねに判断しています。たとえば、夜になったら近所迷惑にならないように、大工仕事を中断しようと判断しています。
 このように現存在は世界内存在として存在しているために、時間を適材適所性から考えられた有意義性の連関において理解しているのです。

Das gewärtigend-behaltende Gegenwärtigen des Besorgens versteht Zeit in einem Bezug auf ein Wozu, das seinerseits letztlich in einem Worumwillen des Seinkönnens des Daseins festgemacht ist. Die veröffentlichte Zeit offenbart mit diesem Um-zu-Bezug die Struktur, als welche wir früher die Bedeutsamkeit kennenlernten. (p.414)
配慮的に気遣いつつある〈予期しながら保持する現在化〉は時間を、〈のための目的〉との関連において理解している。そしてこの〈のための目的〉は究極的には、現存在の存在可能の〈そのための目的〉と結びついているのである。公共的な時間はこのように、〈のため〉との関連において、わたしたちがすでに”有意義性”として確認しておいた”まさにその”構造をあらわに示しているのである。

 すでに第18節において、すべての手元存在者は、〈何のために〉という適材適所性から考えられた有用性の連鎖のうちに存在すること、そして世界における適材適所性の全体は、その究極の目的である〈そのための目的〉を目指していることが確認されていました。そして有意義性こそが、世界の世界性を構成するものであることが指摘されていました。
 現存在は世界において行動する際に、この連鎖の頂点を目指しています。だからこそ現存在は時間を、〈のための目的〉との関連において理解しているのであり、そして「この〈のための目的〉は究極的には、現存在の存在可能の〈そのための目的〉と結びついている」ことが結論できるのです。このようにして、時間測定のためには、世界時間の公共化が必要とされるようになりましたが、この時間の測定こそが、現存在の時間性に基づくものであることが明確にされるようになってきたのです。
 これらの世界時間の主要な特徴から、世界内存在としての現存在の配慮的な気遣いの時間の構造が総括的に提示されます。世界時間についてはこれまで、「日付可能性」「伸び広がり」「公共性」「世界性」の4つの特徴が挙げられてきましたが、ここでこれらの特徴が現存在の気遣いの時間的な構造であることが明示されます。

Wie die wesentlichen Bezüge der Weltstruktur, zum Beispiel das >um-zu<, auf dem Grunde der ekstatisch-horizontalen Verfassung der Zeitlichkeit mit der öffentlichen Zeit, zum Beispiel dem >dann-wann<, zusammenhängen, muß sich im folgenden zeigen. Jedenfalls läßt sich jetzt erst die besorgte Zeit struktural vollständig charakterisieren: sie ist datierbar, gespannt, öffentlich und gehört als so strukturierte zur Welt selbst. (p.414)
世界構造の本質的な関連、たとえば”〈のため〉”が、時間性の脱自的で地平的な機構に基づいて、公共的な時間、たとえば「~ならばそのときには」と、どのように関連しているかは、以下の叙述で明らかにされよう。いずれにしてもわたしたちは、配慮的な気遣いの時間について、ここで初めて構造的に完全な形で特徴づけることができるようになったのである。すなわちこの時間は、日付を打つことができ、時間の間隔があけられており、公共的なものであり、このように構造化された世界そのものに属しているのである。

 以下ではこの概括に基づいて、現存在が時計を使うということの意味がさらに展開されることになります。

 人間が作りだした最初の時計が日時計であったことはすでに指摘されてきました。現存在の1日がほぼ昼間と夜という太陽光の存在によって規定されているかぎり、現存在にとって時刻を決定するための重要な手掛かりが太陽であることは間違いありません。たしかに現在では、わたしたちは日時計を使う必要はありませんが、それには2つの重要な理由があります。
 第1に、電気やガスを使う照明装置が発明され、夜中も昼間と同じような明るさで活動できるようになっています。昼夜逆転生活ができるのは、こうした照明のおかげでしょう。
 第2に、太陽について自然の了解が深まり、こうした了解に基づいて、日時計に代わる時計が生まれることで、日没の後にも時刻を知ることができるようになっています。
 それでもこうした人工の時計も、日時計に準拠したものであり、どちらも世界時間の4つの特徴を兼ね備えているのです。世界時間の4つの特徴のそれぞれに対応した時計の4つの特徴を確認してみましょう。
 第1の「日付可能性」ということは、時計の本来の目的そのものです。自分の時計を見れば、すぐに時間を読み取ることができ、時計はその瞬間の時刻を明示することを役割とする道具です。
 第2の「伸び広がり」ということも、時計を見るという行為のうちに含まれています。時計を見るというのは、「今」の時刻を知るということですが、それだけではなく、ある特定の時刻までの余裕を調べるということでもあります。夕方の5時にとても大切な約束があるとします。その日は夕方になるとわたしたちは頻繁に時計を見ることになるでしょう。約束の場所に10分前に到着しているためには、どの時刻の電車に乗らなければならないとか、その電車に乗るためには15分前にここを出発しなければならないとか、時間の余裕について考えるのです。
 このように、わたしたちは時計を使っていま何時であるかを確かめるときには、「今」は何々の時間だから、「~する時刻」だとか、まだ時間があるなどと、自分にどれだけの時間的な余裕があるかを語っています。ですから時計を見るということは、自分の残された時間的な「伸び広がり」を確認し、それを活用しようとすることです。時計にはわたしたちに時の「伸び広がり」を考えさせる道具であるという特徴があるのです。
 第3の「公共性」ということも、時計の重要な役割です。公共的な時間計算を可能にするのは時計であり、これによって集団で行動したり、待ち合わせをしたりすることができるようになります。
 第4の「世界性」については、すでに「伸び広がり」のところで指摘したことからも明らかです。「今は何々の時間だから、~する時刻だ」と語るということは、世界の有意義性のもとで、現存在であるわたしたちが定めた目的を遂行するために必要な時刻を計り、それに合わせて行動するということであり、現存在が世界内存在として、適材適所性を考慮した有意義性のもとで生きていることを示すものです。
 これはいずれ検討する世界時間の超越性にかかわる問題でもあります。世界は個々の現存在から超越した地位をもち、世界時間のもまた個々の現存在の時間から超越した地位をもちます。

Im Besorgen wird jedem Ding >seine Zeit< zugesprochen. Es >hat< sie und kann sie wie jedes innerweltliche Seiende nur >haben<, weil es überhaupt >in der Zeit< ist. Die Zeit, >worinnen< innerweltliches Seiendes begegnet, kennen wir als die Weltzeit. Diese hat auf dem Grunde der ekstatisch-horizontalen Verfassung der Zeitlichkeit, der sie zugehört, dieselbe Transzendenz wie die Welt. (p.419)
配慮的な気遣いでは、すべてのものに「それにふさわしい時間」が割り当てられる。あらゆるものがおのおのの時間を「もつ」ことができ、すべての世界内部的な存在者も同じようにこうした時間を「もつ」ことができるのは、それらがそもそも「時間のなかで」存在していることに基づいている。このように世界内部的な存在者に「そのなかで」出会う時間は、世界時間であることはすでに確認しておいたとおりである。この世界時間は、それが属する時間性の脱自的で地平的な機構に基づいて、世界と”同じ”超越をそなえている。

 その意味では、時計はわたしたちが「世界」のうちで生きる存在を象徴する道具なのです。
 これらの4つの特徴をまとめてハイデガーは次のように述べています。

Was sich schon bei der elementarsten Zeitrechnung zeigte, wird hier deutlicher: das auf die Uhr sehende Sichrichten nach der Zeit ist wesenhaft ein Jetzt-sagen. Es ist so >selbstverständlich<, daß wir es gar nicht beachten und noch weniger ausdrücklich darum wissen, daß hierbei das Jetzt je schon in seinem vollen strukturalen Bestande der Datierbarkeit, Gespanntheit, Öffentlichkeit und Weltlichkeit verstanden und ausgelegt ist. (p.416)
時計を見ながら自分を”時間に合わせる”ということは、その本質からして”〈今はと言うこと〉”である。これはごく基本的な時間計算で示されたことであるが、それがここでさらに明確になったのである。これはあまりに「自明な」ことであるので、わたしたちはそれをまったく気に掛けない。ここで〈今はと言うこと〉が、日付可能性、〈時間の間隔〉、公共性、世界性という〈今は〉の完全な構造的な内実において理解され、”解釈され”ていることを、わたしたちは明示的には意識していないのである。


 このように時計を使うということは「今はと言うこと」であり、そこに時間と時計のこれらの4つの特徴が集約されていることが分かります。それだけではなく、そこに現存在の時間性そのものが露呈されているのです。時計を見て今の時刻を確認しながら、わたしたちは数時間後に予定されている大切な待ち合わせに「今」、この時刻にあってもそなえています。そしてその待ち合わせが大切である意味を、未来の予期と過去の経験から判断しているのです。
 時計を見るのは「今」ですが、そこにはすでに将来を予期し、過去の記憶を保持している現存在の時間性が時熟しているのです。

Das Jetzt-sagen aber ist die redende Artikulation eines Gegenwärtigens, das in der Einheit mit einem behaltenden Gewärtigen sich zeitigt. (p.416)
しかしこの〈今はと言うこと〉は、保持的な予期との統一において時熟する”現在化”を、語りながら分節することである。

 しかしここで重要な問題が登場します。ハイデガーはこのような時計を見ながら時刻を気に掛ける現存在の時間性を指摘すると同時に、そこに時間性についての1つの歪曲が含まれていると考えるからです。というのも、腕時計という装置を見るときに、わたしたちは秒を刻む秒針や分を示す分針を見るのですが、この行為のうちに、時間というものを「今」を示す秒針や分針という「測定尺度」の動きとみなすという考えが、忍び込むからです。
 このような測定尺度が成立するためには、3つの重要な条件があります。まず測定尺度というものは、つねに変化せず、恒常的なものでなければなりません。尺度が変化しては、他人と約束することはできず、自分の行動を計画することができません。
 第2に、尺度はすべての人において共通のものでなければなりません。わたしとあなたで秒針の動きの速度が違ったのでは、2人は異なる時間の尺度をもち、異なる動きをする時計をもっていることになります。これでは待ち合わせの約束をすることなどは不可能でしょう。
 第3に、この測定尺度は眼の前で見ることができるものでなければなりません。わたしが「今はと言うこと」ができるためには、時計を眼の前において、「今」のこの瞬間を確認することができなければなりません。たとえば、約束の時間に2人が集まって、映画が始まるまでの時間を時計で確認しようとするなら、その人と一緒に時計を眺めて、「今」この瞬間に何時何分であることを確認するでしょう。眼の前で時計を眺めて、2人で「今」を確認できるということは、時計という尺度はいつでも、誰にとっても、その恒常性において、眼前的に存在しなければならないということを意味しています。日時を確認するということは、眼前的な存在者の「卓越した現在化」なのです。

Messende Datierung der besorgten Zeit legt diese im gegenwärtigenden Hinblick auf Vorhandenes aus, das als Maßstab und als Gemessenes nur in einem ausgezeichneten Gegenwärtigen zugänglich wird. (p.417)
配慮的に気遣われた時間を”測定しながら”日時を確認するということは、眼前的な存在者を現在化しつつそれに注目しながら、時間を解釈することである。その眼前的な存在者は尺度として、測定されるものとして、ある卓越した現在化だけによって接近することができるものである。

 このことが重要が意味をもつのは、現存在の時間の解釈において、存在論的にみて脱自的な時熟の構造にふさわしくない考え方が忍び込むからです。この「眼前的な存在者を現在化しつつそれに注目しながら、時間を解釈すること」は、時間をあたかも眼前的な存在者であるかのようにみなすことになりかねません。
 そしてこのように時間が眼前的な存在者とみなされるなら、現存在の時間性に重要な歪曲が生じることになります。それは秒針や分針の動きによって、毎秒毎分のように確認される眼前的な「今」が、時間の根源とみなされ、いつでも誰にとっても「今、今、今」という単調な形で時間に出会うことになると考えられがちなのです。こうした考え方では、時間の「伸び広がり」という性格を捉えることはできず、むしろそれを眼前的に存在する「今」の多様なありかたであるかのように考えてしまうのです。
 これが意味することは大きく、第1に、現存在にとって時間が公共的なものであればあるほど、時間にかかわる合意を他者と結ぶにあたって、その公共的な時間は、時計において普遍的に接することのできる時間とならざるをえません。時間は他者とのあいだで普遍的に合意することのできるものとして、等質で断片的な「今」を基礎としたものとならざるをえないのです。時間を脱自的に時熟するものではなく、眼前的に存在する自明性をそなえた「今」連続の時間とみなす通俗的な時間論は、このように現存在が腕時計などの人工の計時装置を使い慣れていることを基礎としているのです。
 第2に、時間と空間の違いはカントの哲学によって明確に規定され、その違いも認識されています。そしてカントもまた、個人的で私秘的な時間をイメージするには、空間のなかに直線を描くしかないと考えていました(カント『純粋理性批判』B156を参照)。カントですら、時間を眼前的なものによってイメージするしかないと考えたのです。そして世界時間がこのように時計を使って、秒針と分針の運動によって、「今」連続として理解されるということは、時間が秒針や分針の動く距離によって、すなわち空間的なものに基づいて理解されるということです。
 ただし、それは時間がこうした空間的な距離によって数値的に規定されるということではなく、時間が空間化されるということでもありません。

Die Datierung aus dem >räumlich< Vorhandenen ist so wenig eine Verräumlichung der Zeit, daß diese vermeintliche Verräumlichung nichts anderes bedeutet als Gegenwärtigen des in jedem Jetzt für jeden vorhandenen Seienden in seiner Anwesenheit. In der wesensnotwendig jetzt-sagenden Zeitmessung wird über der Gewinnung des Maßes das Gemessene als solches gleichsam vergessen, so daß außer Strecke und Zahl nichts zu finden ist. (p.418)
「空間的に」眼の前に存在するものによって日時を確定することは、時間を空間化することではない。このように空間化と思えるものこそが、あらゆる〈今〉において、あらゆるひとにとって眼前的に存在するものを、その現存するありかたに基づいて現在化することにほかならないのである。時間の測定は、本質的かつ必然的に、〈今はと言うこと〉であるが、この時間測定においては、尺度を獲得することに気を取られて、測定される当のものはいわば忘れられている。そこで線分と数しかみあたらないということになるのである。

 時計を見て時間を測定するとき、現存在は秒針や分針という「尺度を獲得することに気を取られて」、映画が何時から始まるかという「測定される当のもの」を忘れてしまいます。こうしてほんらい「伸び広がり」という性格をもっている時間は、時間を測定する尺度の眼前的なありかたに依拠した空間的なものに基づいて理解されるようになってしまうのです。その結果として、映画を見ることは時間にはかかわりのないものとなり、「線分と数しかみあたらないということになる」のです。ですから、時間は空間的な線分の長さや、空間的な事物の場所の変動に基づいて、数値的に規定されるのではありません。この空間化は「あらゆる〈今〉において、あらゆるひとにとって眼前的に存在するものを、その現存するありかたに基づいて現在化すること」なのであり、空間は時間性に基づくという第70節の内容に矛盾するものではないのです。
 このように、時計の使用というわたしたちにとってごく自明な事柄の背後にも、現存在の実存と存在にかかわる重要な問題が控えているのです。

 時間を時計という眼前的な存在者によって理解しようとする態度によって、「今」連続の時間という通俗的な時間概念が発生します。そしてこの通俗的な時間概念には大きな根拠が存在するのであり、そのことはこうした時間概念が、古代ギリシアのアリストテレスによってすでに提起されていたことからも明らかです。この時間についての考え方はその根が深いのであり、この問題は第81節で改めて掘り下げられることになります。
 この節の最後の部分では、第81節での考察を導くために使われる2つの主要な特徴が提起されます。第1の特徴は、世界内部的な存在者の全般的な時間内部性と世界時間の超越性です。すでに世界時間の4つの特徴の第4の特徴として、「世界性」が指摘されていましたが、時間は個人的な私秘的なものではなく、公共的で世界的なものです。世界に存在する現存在も世界内部的な存在者も、共通の「世界時間」のなかで存在しています。
 すでに世界内部的な存在者は、同時に時間内部的な存在者という性格をそなえていることが指摘されていました。そして世界内部的な存在者が世界の「なかに」存在するのと同じように、時間内部的な存在者は時間は「なかに」存在すると語ることができるでしょう。
 そのため世界内部的な存在者に出会う現存在は、配慮的な気遣いによって、そうした存在者を時間内部的な存在者として理解することになります。このことが示しているのは、世界というものの存在が個々の現存在の存在を超越しているのと同じように、世界時間は個々の現存在の時間を超越しているということです。「世界時間は、それが属する時間性の脱自的で地平的な機構に基づいて、世界と”同じ”超越をそなえている」のです。そして現存在は日常的な配慮的な気遣いにおいて、自分の時間をみいだすのですが、それは時間のなかで出会う世界内部的な存在者においてです。そこで通俗的な時間概念の発生を解明するためには、時間内部性を出発点とする必要があるということになります。
 第2の特徴は、世界時間には独特な客観性と主観性がそなわっていることです。客観性を通常の意味で、すべての人が共通して眼前的に認識できるものとして考えるなら、世界時間は客観的ではありません。というのも、世界時間は眼前的に知覚できるものではなく、そもそも眼前的な存在者が「そのなかで」運動したり静止したりしている時間だからです。

Die Weltzeit ist >objektiver< als jedes mögliche Objekt, weil sie als Bedingung der Möglichkeit des innerweltlich Seienden mit der Erschlossenheit von Welt je schon ekstatisch-horizontal >objiciert< wird. (p.419)
”世界時間は、あらゆる可能な客観よりも「客観的」である。なぜなら世界時間は、世界内部的な存在者の可能性の条件であり、世界の開示性とともに、いつもすでに脱自的かつ地平的に「投企化」されているからである”。

 世界時間はこのように、眼前的な存在者の活動の地平として、こうした活動を可能にする条件であるという意味では、「”あらゆる可能な客観よりも〈客観的〉”」なのです。さらにこの世界時間は個々の存在者を超越したものとして、天体の運動によって現れるという意味でも「客観的な」ものだと言えるでしょう。
 また「主観的」なということが、ある主観のうちで眼前的に存在したり、出現したりすることと考えるなら、世界時間は主観的なものではないでしょう。

Die Weltzeit ist aber auch >subjektiver< als jedes mögliche Subjekt, weil sie im wohlverstandenen Sinne der Sorge als des Seins des faktisch existierenden Selbst dieses Sein erst mit möglich macht. (p.419)
”しかし世界時間はまた、あらゆる可能な主観よりも「主観的」である。なぜなら世界時間は、気遣いを事実的に実存する自己の存在として正しく理解するならば、こうした自己の存在を初めて可能にするものだからである”。

 しかし主観的であるということを、実存する現存在の気遣いを可能にする条件であると考えるなら、世界時間は「”あらゆる可能な主観よりも〈主観的〉”」だと言えるでしょう。このように世界時間は超越概念として、主客の可能性の条件なのです。
 結論として言えるのは、世界時間は時間性の時熟に属するものであるから、わたしたちは世界時間を主観主義的に消滅させたり、悪い意味で客観化して物化したりすることはできないということです。このような誤謬が発生する原因は、通俗的な時間概念にあるのであり、時間についての存在論的な解釈においては、こうした通俗的な時間概念がどのようにして根源的な時間から了解する可能性を塞いでしまっているのかを明らかにする必要があります。これが次節で考察される主要なテーマとなります。


 今回は以上になります。また次回よろしくお願いします。

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