『存在と時間』を読む Part.1
ご存じ、ハイデガーの『存在と時間』は20世紀最大の哲学書と言われるだけあって、これまで日本でも多くの訳本が出版されており、比較的簡単に手に取ることができる書物です。一般的に難解だというイメージがありますが、訳本も解説書もわかりやすいものがでていますし、読むことのハードルも下がっているように思います。
しかし、原文を読んでみる機会はなかなかないのではないでしょうか。ドイツ語だし、文章量も多く、読み通すのはちょっと大変...。さすがにそれは遠慮しようかな、という方もいらっしゃると思います。とはいえ、その内容を理解する際には、どうしても和訳ではわかりづらいようなニュアンスがあったりしますから、やはり原文を読むことで、より一層内容が理解できるようになるのも事実でしょう。
このnoteでは、『存在と時間』の内容を理解するために、必要に応じてその原本である「Sein und Zeit」を対訳しつつ、内容をつかんでいきたいと思います。全体の流れを重視して、主要な概念の内容がつかめるような文章をいくつか紹介し、それを訳しながら読解をすすめていくことで、『存在と時間』を日本語でも読んだことがない方にも向けて、その内容をご紹介できればと思っています。
原本として使用するのは、Max Niemeyer社から出版されている「Sein und Zeit」の第19版(投稿時点ではAmazonで手に入ります)で、原文を訳す際に使用する訳語については、光文社古典新訳文庫に入っている中山元訳の『存在と時間』を参照します。たとえば、>Vorhandenheit< という語は「事物存在性」とも訳されますが、ここでは中山訳にしたがって「眼前存在性」と訳すことにします。また、こちらの中山訳の『存在と時間』には詳細な解決も付録されており、このnoteにおいても適宜そちらを参考にさせていただきたいと思います。
対訳するときには、次のような形で、原文のすぐ下にその訳文をつけるようにします。
原文はすべて、上記の書籍からの引用で、文の終わりにページ数を明記します。
それでは、さっそく『存在と時間』の目次をみてみましょう。
上記は全体のおよそ半分までの目次で、基本的には、この目次の順番の通りに書いていこうと思っています。今回の投稿では、序から序論の第1章の第2節までで本書が何を述べているのかをみていきます。以下、本文の内容に入っていきます。
序
『存在と時間』は、タイトルのついていない1ページ限りの文章から始まります。ハイデガーはまずここで、本書の目的を提示しています。
ここではまだ、ハイデガーが具体的に何を言おうとしているのかはわかりませんが、とりあえず論文の意図は「存在の意味への問いを仕上げること」と明記され、そのためのさしあたりの目標は、「すべての存在了解一般が可能になる地平として、"時間"を解釈することにある」ことだと述べられています。
対訳の形を説明した際に例として載せた対訳文は、この序におけるものでした。ハイデガーは序の冒頭で、プラトンの『ソフィステス』を引用しながら、私たちが普段口にする「存在する(~ある)」ということが、一体何を語っているのか、何を意味しているのかを私たちは知らないでいることを読者に投げかけます。私たちにとって「ある」ということは、私たちが関わることができるどんなものにも当てはまるようです。たとえばそれは、「Aさんがあそこにいる」とか「太陽が出ている」とか「ペンが机の上にある」など、普段何気なく使っている言葉の中に垣間見ることができ、私たちはそうした言葉を理解しながら使いこなしているようにみえるでしょう。このことは、私たちがそれだけ「ある」ということに親密であることを表しているように思います。しかしそれは同時に、「存在する」ということが私たちにとってそれだけ浸透していて根源的であるからこそ、その意味がつかみづらいことを示しているようです。「存在」ということを言われても、どうもイメージがしにくいのは、そのような形で馴染んでいる親密さのせいでもあるでしょう。そもそも私たちは通常、この「ある」ということに対しては、それが当たり前すぎて、疑問にも思いませんから、それがどのような意味なのかという答えを出す以前に、それを問うことの準備すらできていないとハイデガーは言います。だからこそ、存在問題に答えることの前に、「存在の意味への問いを新たに設定する必要があ」り、さらにその前に、適切な問題設定をするための準備が必要だと考えます。
ところで、ハイデガーによれば私たちは存在の意味を根源的には理解していないということですが、それでも実際には、それを曖昧にではあれ、なんらかの仕方では理解しているようです。というのも、先ほど指摘したように、確かに私たちは普段「Aさんがあそこにいるよ」などと語ることができるし、それが意味するところを理解することができるからです。こうした事実は、私たちが暗黙的になんらかの仕方で、すでに存在を理解しているということを示しています。このような、私たちが存在について曖昧に了解している内容を、ハイデガーは存在了解と呼びます。
ハイデガーは、このような「すべての存在了解一般が可能になる地平として、"時間"を解釈すること」を目指すと言います。ここでいう地平とは、存在を理解することを可能にするための土台となるもの、と言い換えることもできるでしょう。物事を理解するためには、それを理解するための背景が必要になります。たとえば、掛け算は数学という背景において理解することが可能です。ところが、すべての存在了解一般が可能になるための、ということは、私たちにとって、私たちが関わることが出来るすべてについての理解を可能にするような、そのような背景、ということを示しています。この土台、すなわち地平を、ハイデガーは時間として解釈すると予告しているのでした。
序では、この論考が、どうしてこのような目標を目指すのか、そのために必要な探究はどのようなものか、この目標を実現するためのどのような道筋をたどろうとしているのか、という序論への導入が最後に提起されています。序論ではまず、存在の問いを提起することがどうして哲学的に必然的なものであるのか、そしてこの問いが他の問いよりも優位にあるのはなぜなのかが考察されます。次に必要な探究の課題や方法論が示され、最後に本書の全体の構想と構成が示されることになります。
『存在と時間』は、当初は上下巻で刊行される予定でしたが、ハイデガーが下巻の執筆を断念した結果として、世に出たのは上巻だけということになりました。ですから、私たちが読むことができるのは構想されていた全体のいわば半分といったところでしょう。しかし序論では、論考全体の構想が概略的に示されているため、そこから書かれなかった下巻の内容もうかがい知ることができます。本書の刊行と同年の講義『現象学の根本問題』では、書かれなかった下巻での考察を行っているので、『存在と時間』の構想の全体を補完するような形で読んでみるのも面白いかと思います。
序論 存在の意味への問いの提示
第1章 存在への問いの必然性、構造、優位
第1節 存在への問いを明示的に反復することの必然性
ここから、存在の意味についての本格的な考察が始められます。
ハイデガーは、古代ギリシアの哲学者たち、とりわけプラトンとアリストテレスにおいては、存在を問う営みが行われていたことを指摘しています。しかしそれ以降というもの、存在そのものを主題として探究する問いは沈黙してしまい、さらにそれだけでなく、この問いにはある「教説(ドグマ)」が形成されることになりました。このドグマは次のように主張します。
そしてこの主張は、存在の意味を次のように解釈します。
ドグマはこのように、かつての哲学者たちを駆り立てた存在することに対する驚きを些末なものとみなし、その探究の営みの主題であった存在の意味を「太陽のように明らかで自明であること」であるとしてしまいました。しかしハイデガーは、このドグマには、存在について問うことを無用なものとと考える3つの先入観が潜んでいると言います。
第1の先入観は、存在は「最も普遍的で、最も空虚な概念である」というものです。この先入観はまず、存在を類のようなものとすることから生じます。私たちは類と種の概念を使うことによって、私たちが出会うことができるすべてのものごとを定義することができます。たとえば人間について、人間は生物であり、その中でも動物であり、さらにその中でも理性を持っている動物であるといったように定義することができます。ここで生物という概念は、動物の他にも植物を含みますから、動物の概念を内部に含んでいるより広い概念だといえます。このように、種差はさらに上位の概念によって包括されますが、その最も広い概念、種差を構成する最上位の概念を、実体、量、性質、能動、受動、時間、場所などの10のカテゴリーとしたのが、アリストテレスでした。この観点からみると、最も普遍的なものは最高類であるこれらのカテゴリーだということになりますが、ハイデガーもアリストテレスも、存在にはカテゴリーを適用することが出来ないと主張しています。というのも、存在にはそれに固有の特殊な性格が備わっているからです。
性質や場所を示す熟語は最上位のものですから、たがいに独立したものであって、これらをまとめて分類するさらに上位の概念がないからこそ、カテゴリーとしての座を占めていました。「事象に関わる最上位の類の概念の多様性」というのは、そのようなカテゴリーが10あるということを言っています。対して、存在という概念にはさまざまな意味があり、その概念の統一性は、ただ「類比」によってしか考えることができないと、アリストテレスは指摘します。つまり、存在はカテゴリーのような類ではないということです。
たとえば、「ソクラテスの髪は白である」という言明について考えてみると、ソクラテスの髪は主語にあたり、「白」という述語によって語られているのがわかります。このとき「白」という述語は、上位の概念としての「色」に包括されることができ、さらに「色」は性質のカテゴリーにおいて分類されることが可能でしょう。では、あとに残っている「ある」は何でしょうか。これは主語ともカテゴリーとしての述語とも異なっているようですし、特定の主語や述語に依存せずに使用することができます。ということは、この「ある(存在)」には、最上位の10あるカテゴリーが持つ普遍性とは異なる「普遍性」が認められることになるでしょう。加えて、私たちが何かを語る際には、「~ある(存在する)」ということが必然的に含まれているのが見て取れますから、存在は語りを可能にするためのある条件であることがわかります。そのような条件は、ひとが主語や述語を用いて語ることを可能にするための土台となるべきものであり、それゆえに存在は「超越概念」と呼ばれます。存在の「普遍性」が、「類にふさわしいすべての普遍性を"超えでている"」とはこのような意味で理解することができるでしょう。
「ある」ということは他にも「彼女は教養がある」とか「そこに石がある」だとか、「明日がある」というように語られますが、これらの「ある」に注目してみると、その意味が異なることがわかります。最初の言明における「ある」の意味は、自体的に語られるときの「ある」であり、主語に述語のカテゴリーをつけて語る場合です。この場合の「ある」は、真偽を問う命題の意味でもあることもできます。次の例は、彼女には教養という属性が付帯しているという意味における付帯性の「ある」です。そして終わりの2つの例の場合は、主語が現実にあるのか可能性としてあるのかについての「ある」です。アリストテレスは、「ある」についてはこのように多義的に語られますが、同時にその異なりを統一する視点が存在すると考えます。というのも、このような「ある」の様々な意味は、「存在」という1つのものとの関係において語られるからです。
たとえば、私たちが「健康的」と語る多くの物事は、1つの「健康」との関係においてそのように言われます。あるものは健康を保つことができるものであるゆえに健康的であり、あるものはそれが健康をもたらすものであるがゆえに健康的と言われますし、あるものは健康のしるしであるがゆえに健康的です。このような事態が「類比による統一」と呼ばれるものです。存在においての場合は、「ある1つのものとの関係において語られる」の「ある1つのもの」こそが存在であり、さまざまな述語はこの存在との関係の類比によって統一されています。
以上のように、存在は私たちが関係することができるすべてのものの前提となる普遍的な超越概念であり、アリストテレスが、すべての事物を統一する視点である存在についての学、すなわち存在論こそを、「第1の学」として定めた理由はまさにここにあるのでした。しかし、アリストテレスが発見した「カテゴリーは多様であるのに、存在は統一性を備えている」という問題は、その後の哲学者に十分に引き継がれることはなく、存在を根本的に解明するための問題設定が立てられることもありませんでした。ヘーゲルに至って存在は「最も普遍的で、最も空虚な概念である」とみなされることになり、存在は私たちにとって最も身近であるにもかかわらず、同時に最も暗がりに包まれたままにされてきたのでした。
第2の先入観は、存在という概念は「誰もがこの概念を絶えず使っているし、そのつどこの概念で意味することをすでに理解しているのである」から、「定義を必要としない」ということです。第1の先入観で考察されたように、存在を類と種差によって定義することができないという意味では、それは全く正当なことです。しかし、これが意味するところは、存在は、私たちが出会うさまざまな事物のように、類と種差で定義されるようなものではないということだけであって、それらとは次元が異なる概念であることが示されているに過ぎません。だから、あらゆる概念を超えている存在の概念を、一般的な概念によって定義しようとすることこそが、方法論的な誤謬であると言わざるを得ないということになります。であれば、存在について定義するためにはそれに固有の仕方が必要になるのであって、単に類と種差によっては定義不可能であるとするのではなく、定義するための異なるアプローチの方法を模索することこそが求められるべきでしょう。
第3の先入観は、存在の概念は「太陽のように明らかで自明であること」ということです。こちらについても第1の先入観で指摘されたとおり、私たちが何かを語るときは、特にヨーロッパの言語では、英語の >is< やドイツ語の >sein< といったような「存在」を意味する言葉が使われます。これは、私たちが存在にそれだけ馴染んでいるということ、存在を曖昧な仕方ではあれ、理解しているということを示しています。存在の概念が「自明である」とみなされる背景としては、それが誰にとっても開かれていて、誰もがそれを理解しつつ使用しているという事実があります。しかし、この誰にでも了解される平均的な理解しやすさは、実は理解しにくさの裏返しに過ぎません。結局のところ、誰もが曖昧に理解している「存在」には、ある謎がアプリオリにひそんでいるということです。
かつてはそれについての学が「第1の学」とまで言われた、哲学の根本概念である「存在」が、このような曖昧な自明性に依拠しているのは極めていかがわしいことでしょう。だからこそ、「存在」の意味への問いが再び哲学の根源的な課題として据えられ、探究される必要があると、ハイデガーは主張するのでした。
この3つ先入観、すなわち、存在の概念の普遍性、定義不可能性、自明性について考察することで、存在への問いにはその答えが欠けているだけでなく、そもそもこの問いそのものが適切に設定されて来なかったことが判明します。しかし、適切な形で存在への意味への問いが設定されるべきであるならば、それはどのようにして達成できるのでしょうか。第2節以下では、こうした問題設定について考察されることになります。
第2節 存在への問いの形式的な構造
ハイデガーは、適切な問題設定を行うために、問うことに備わる3つの性格を指摘します。曖昧な問いの仕方ではなく、明示的な問いを行うには、問うことの形式的な枠組みを十分に検討する必要があるからです。
問うという営みは「~について」問うことであるから、問いには問われていることが関わっています。また、「~について」の問いには「~に」問い掛けることが含まれています。ですから、問うことには、問い掛けられているものがあることになります。さらに、哲学の探究における問いにおいては、「問われていること」を規定して、概念的に把握することが行われるべきでしょう。すると、「問われていること」には、その問いが本来目指すべき目標が設定されているはずです。すなわち、問うことには、問い質されていることが存在していることがわかります。
具体例を挙げてみましょう。ひとが「ある星の動き」について理論的に把握するために問題を提起するとします。このとき「問われていること」(~について)は「その星の動き」です。また、「問い掛けられているもの」(~に)は「その星」です。そして「問い質されていること」は「その星の動きの法則性」となるでしょう。本書における存在問題の場合、この問いの3つの性格には次のようにあてはまることになります。
「問われていること」 → 存在
「問い掛けられているもの」 → 存在者自身
「問い質されているもの」 → 存在の意味
ここで、存在、存在者、存在の意味と、存在問題に関わる3つの概念が登場してきました。実は先入観の考察の際に、これらの概念はすでに登場していたのですが、問いの設定についての考察の前に、まずはこれらの概念をしっかり把握しておくべきでしょう。
存在とは存在者をそのものとして規定するものであり、存在者の「土台となるところ(woraufhin)」のもののことだと述べられています。この woraufhin というドイツ語には、「何に基づいて」や「何の目的で」といった意味があります。ここでは存在とは、存在者が何に基づいて規定されるかの、そのような土台のことであると言われているのがわかります。この >woraufhin< という語については、後の考察で一層詳しく取り上げられることになり、そこで存在についてもさらに掘り下げられることになります。
対して存在者とは、私たちが関係し、出会っている様々なもののことです。本にペン、パソコンや絵画、りんご、頬にあたる風、太陽、月の満ち欠け、星の運行、家族、恋人、そして私自身も該当します。上記の文章では、こうした存在者は存在から理解されていると述べられています。たとえば、私がいま使用しているパソコンは、noteに文章を入力するという目的に基づいて、私にとって理解されています。同様に他の場面では、動画を視聴したり、メールを送ったりするという目的のために理解されることもあるでしょう。太陽のような自然のものにしても、おおよその時間を測るためだったり、洗濯物を干すためだったり、その光を浴びるためだったり、はたまた天文学の対象としてだったりと、ある土台に基づいて理解されているのがわかります。存在者が存在に規定されるというのは、このような事態を指しています。
そして存在の意味は、存在とは概念的に異なるものとして理解されなければなりません。「存在を問う」と言ったときと、「存在の意味を問う」と言ったときでは、これらを区別して考える必要があります。たとえば、「人間とは何か」と問うならば、そのときは「人間の本質」について問うていることになります。その場合、「人間は言葉を持つ動物である」だとか、「人間はポリスを形成する動物である」といった具合に、ある特定の観点から定義して答えることができるはずです。これに対して「人間の意味は何か」と問う際には、その本質についての問いよりも、もっと広い内容で問われていることがわかります。このような問いには、たとえば「人間は何のために存在するのか」という仕方で答えるように、存在の意味が問われたなら、その存在のもつ目的や価値についての答えも要求されていることになるでしょう。そしてこのように意味について答える前には、当然、すでに本質についての回答が出されている必要がありますから、本書での考察においても、存在の意味について問う前に、まずはその本質についての探究が始められることになります。
しかし、ここで違和感を感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか。この存在問題の形式的な構造は、先に挙げた星の動きについての例と見比べてみると、どうも不自然に思えます。星の問いにおいては、
「問われていること」 → その星の動き
「問い掛けられているもの」 → その星
「問い質されていること」 → その星の動きの法則性
でした。ここでは、問いの主題は星の動きであり、問いの対象はその星であり、問いの内実は星の動きの法則性となっています。言い換えれば、この問い方は、星を対象として、その動きについて、天文学的あるいは物理学的な地平において解釈する、ということになるでしょう。このような問いの構造は、一般的に自然であるように感じられます。ウグイスの鳴き声について探究するなら、問い掛けるべき対象はウグイスであるというのは、問いの提起の仕方としては適切でしょう。このように、問いが存在者を主題とするものである際には、その問いは存在者(星の動き、ウグイスの鳴き声)について存在者(星、ウグイス)を対象として問う、という構造を備えており、それがごく自然なことであるということが見て取れます。
ところが、本書の問いの構造において問いが主題とするものは、存在者ではなく存在です。先に指摘した通り、存在とは「存在者を存在者として規定するもののこと」ですから、存在者は明確に異なる概念です。であれば当然、存在問題は存在者についての問いの次元とは異なる、特殊な構造を備えることになるでしょう。
存在者は様々な仕方で語られます。
パソコンは、noteに投稿するためだったり、動画をみるためだったり、あるときにはその本来の用途から外れて武器として投擲するためだったりと、道具的な存在において語ることが出来るし、パソコンを組み立てることが好きなひとにとっては、製作すべき作品のような存在において語られもするでしょう。また、物理学的なまなざしからは、その用途のためではなく、物質として長さや重さ、密度などから規定されることにもなるし、パソコンコレクターによっては、展示すべきコレクションとしてみられることにもなるでしょう。けれども、このように存在者を様々な仕方で語ることができるための土台となるところ、すなわち存在については、それ自体が語られるためのさらなる土台のようなものが明らかになっているわけではありません。
星の動きを主題とする問いでは、すでに天文学的なまなざしという理解のための土台、すなわち「存在者を規定するもの(存在)」が前提されていたからこそ、私たちはその問いを自然なものであるとみなすことができました。ところが、存在それ自体はあらゆる存在者を規定するという、存在者を超えた概念(超越概念)です。そのため、存在を問うことにおいては存在者を問う場合のように問うための地平が確保されていませんから、何が問われているのかさえ実は不明瞭だということになります。こうした存在と存在者の違いは、「存在論的な差異」と呼ばれることになりますが、これは2つの概念の次元が異なることを示した用語であると理解することができるでしょう。
それでは、存在を問うことは不可能なのかというと、もちろんそうではありません。漠然と問うのではなく理論的に問うことは、探し求めているものの方から、あらかじめ導かれている必要があります。星の動きについて問うときには、すでに星について何らかの了解がなされていなければ、その問いを問うことはできないでしょう。もし、問いの対象について本当に何も理解していないならば、私たちはそれを問うことすらできません。しかし、私たちはすでに、存在を問うにあたって、このような導きとなるものを持っています。それが存在了解です。
つまり、存在の問いにおいて探し求められているものは、まったく把握されていないものではありますが、まったく未知のものではないということになります。私たちはいずれ、存在を概念的に確定した後で、このような存在了解に立ち戻り、それがどうして平均的で漠然としたものなのかを考察することになるでしょう。しかしそれまでは、私たちはむしろこうした存在了解を導きとすることで、存在の問いを構成する必要があります。
存在について問うための地平が明らかになっていない以上、私たちは唯一の手がかりともいえる存在了解に注目せざるを得ません。ここで、存在の意味を問うための最も重要な方法論が提起されます。
ハイデガーは、存在の問いを適切に設定するためには、問いを問い掛ける相手を周到に考察しておくことが肝心だと考えています。先に「問い掛けられているもの」は存在者自身だと指摘されていましたが、それはどのような存在者のことを言っているのでしょうか。たしかに、存在とは、存在者の存在なのですから、存在への問いで問い掛けられているものが存在者自身であることは明らかです。これは星の動きについて問う場合には、その星自身が問い掛けられるものとなるのと同じです。しかし、すべての存在者のなかで、存在問題において問い掛けられるべき存在者がどの存在者であるのかは、それほど明確ではありません。
ハイデガーは、存在について問う場合には、「範例となる存在者」を正しく選択し、この存在者に接近する正しい方法を構築する必要があると述べています。この「範例となる存在者」とは誰でしょうか。存在の問いは、存在了解を導きとして問いを構成する以上、問い掛けられるべき範例的な存在者とは、必然的に存在了解を持つ存在者であり、そして存在了解を持つがゆえに存在を問うことが可能な存在者であるべきでしょう。ということは、「問い掛けられているもの」として設定されるべき存在者とは「私たち自身」であることになります。
ここでは、存在の問いを問うということは、私たち(人間)自身の存在様態(存在のありよう)であると言われています。つまり、そもそも私たちが存在の問いを提起できるのは、問うという営みの可能性を持っている私たちの「存在」によってである、と主張されていることになります。そして、問うということをみずからの存在の可能性の1つとして備えているこの存在者(私たち)を、ハイデガーは「現存在(Dasein)」という術語で呼びます。現存在こそが、存在の問いを仕上げることにおいて「範例となる存在者」です。そしてこの現存在が、他の存在者に対してどのような意味で優位を持つのだろうかという問いへの答えには、現存在はその存在において、存在を問うことの可能性を持っている存在者であるということが、必然的に関わってくることでしょう。
私たち人間を指す語として、「現存在」という語が選ばれた理由については、後に説明されることになります。この語はこれ以降「人間」という語の代わりに使用されることになりますので、ここではまず、そのような意味を持つ語であるということを覚えておきましょう。
これまでの考察によって、存在を開示する作業は、現存在に出発点を求めるべきだということが判明しました。したがって、存在の意味への問いを適切に設定するためには、「この問いを問い掛けている存在者」(現存在)について、その存在をあらかじめ見通しの良いものにしておく必要があるでしょう。
しかし、このような方法で問いを構成しようとすることには、論理的に何かおかしなところがあるのではないでしょうか。というのは、このような方法では、問うことができる存在者として、まず現存在についてその「存在」を規定する必要があるのに、この存在者の規定に基づいて、「存在」への問いを初めて設定しようとしていることになるからです。
つまり、存在への問いを提示するために、現存在という存在者に対して問い掛けるということは、すでに"存在している"存在者に、その"存在について"問うということであり、これは明らかな循環論法に陥っているのではないか、と言われることがあり得るということです。もしそうだとするなら、このように問おうとすることには、方法論的な誤謬がひそんでいると言わざるを得なくなってしまいます。
しかし、ハイデガーは3つの論拠から、この異論を排除します。第1の論拠は、原理について探究しようとする際には、そこに循環がひそんでいることは必然的であり、これを否定することはできないというものです。たとえば幾何学において、線や点のように最も原理的なものは、定義するのではなく前提にするのでなければなりません。三角形とは、「同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの直線で囲む図形」であると答えるためには、そこには線が何であるか、点が何であるかが前提されています。しかし、それらが概念的に明らかになっていないからといって三角形について語ることができないとするならば、それは不毛な議論となるでしょう。これは点や線それ自体について探究するときも同様で、こうした原理的なものについて考察するときには、そのものが何らかの形で前提になっていなければいけません。ハイデガーは、こうした異論は形式的な異論であって、事柄を了解するためにはまったく役に立たず、むしろ探究を妨げるだけのものであると主張します。
第2の論拠は、存在論における循環は、推論の場合の循環とはまったく異なるものであるということです。推論というのは、既にわかっている事柄から、まだわかっていない事柄を演繹して論じることをいいます。たとえば、「人は必ず死ぬ」という前提と「ソクラテスは人である」という前提が認められるなら、「ソクラテスは必ず死ぬ」という結論が導き出されます。このように、既知の事柄を前提として、結論を出していく方法が推論になりますが、この際に重要なのは、前提が正しいものであることです。前提がまずしっかりと踏まえられていなければ、結論が正しいものにならないからです。そして、推論における循環とは、「ある根本命題を証明されないままに定めておいて、そこからさまざまな命題を演繹しながら導いてくる」誤謬のことを指します。つまり、この例でいうと、「人は必ず死ぬ」ことや「ソクラテスは人である」ことがはっきりと確認されないままで前提にされ、逆にそのような前提のもとに出された「ソクラテスは必ず死ぬ」という結論から、「やっぱり人は必ず死ぬんだ」とか、「ソクラテスは人だったんだ」ということを導き出すやり方が、循環論法の誤謬と言われていることになります。
それに対して存在論における循環とは、「平均的な存在了解」によって生じるものであり、その目的はこの曖昧な存在概念を分析し明らかにすることにあります。ということはつまり、こうした平均的な存在了解に基づいて、存在について何らかの理論を構築しようとしているわけではありませんので、この循環は推論において禁じられている循環論法の誤謬ではないということになります。この営みが目指すものは、演繹の方法によって根拠づけることではなく、根拠を明らかにしながら、隠されているものを暴くことです。この循環については、後に「解釈学的な循環」についての議論でさらに詳細に掘り下げられることになり、存在の意味への問いの問題設定においては、こうした循環がむしろ"積極的な"現象であると表明されるようになります。
第3の論拠は、存在問題では、問われていることである「存在」が、問うという営みのうちに本質的にかかわっているということです。ハイデガーは次のように言います。
先に提示されたように、問うことは、範例的な存在者としての現存在の存在様態でした。この営みが可能となるためには、その存在者が"すでに"存在していて、みずからの存在について問うことができる必要があります。これが、現存在における存在を問うという営みに本質的にかかわる「先行的なありかた」であり、「存在問題のきわめて固有な意味」を示すものとなっています。ですから、存在問題における存在の前提されたありかた、すなわち存在の先行性を指して、そのことでこの問いが循環論法の誤謬を犯しているとするのは、まったくの誤解であると言わざるを得ないことになるでしょう。
以上、3つの論拠を確認してきましたが、存在への問いが循環論ではないのは、この問いが「問い掛けられるもの」である現存在について、その平均的な存在了解において詳細に分析されることによって仕上げられるものであるから、と結論することができるでしょう。
これまでの考察から、問うということをみずからの存在の可能性の1つとして備えている現存在という存在者は、存在問題そのものと、ある特別な性格の結びつきを備えていることがわかりました。このことからはたしかに、存在への問いにおける現存在の優位のようなものが、かいまみえてはきます。しかし、存在問題においてこの現存在という存在者は、他の存在者に対してどのような意味で優位を持つのか、どのようにこの存在者は、存在問題において優先的に「問い掛けられているもの」という役割を果たすのかといったことについては、まだ結論付けられたわけではありません。それは、現存在の平均的な存在了解を出発点とするこの後の考察において、明らかにされることになります。
今回のnoteはここまでとさせていただきます。今回は、序から序論の第1章の第2節までをお届けしました。次回は序論の第1章の第3節から続けていこうと思っています。
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