『存在と時間』を読む Part.86

  第82節 時間性、現存在、世界時間の実存論的かつ存在論的な連関を、時間と精神の関係についてのヘーゲルの見解と対比する試み

 ハイデガーはヘーゲルの時間概念が、通俗的な時間了解のもっとも根底的な定式化であることを指摘します。ヘーゲルは歴史がその本質からして精神の歴史であり、「時間のなかで」経過していくことに注目して、歴史の発展は時間のなかに落ち込むと語っていたのです。そこでハイデガーが問題とするのは、次の2つです。

Die Zeit muß den Geist gleichsam aufnehmen können. Und dieser wiederum muß der Zeit und ihrem Wesen verwandt sein. Daher gilt es ein Doppeltes zu erörtern: 1. wie umgrenzt Hegel das Wesen der Zeit? 2. was gehört zum Wesen des Geistes, das ihm ermöglicht, >in die Zeit zu fallen<? (p.428)
時間はいわば精神を受け入れることができなければならない。そして精神は時間およびその本質と親縁性のあるものでなければならない。そこでここでは第1に、ヘーゲルは時間の本質をどのようなものとして画定しているか、第2に精神が「時間のなかに落ち込む」ことができるためには、精神の本質にどのようなものが属しているのでなければならないか、という2つのことを解明する必要がある。

 第1の問いを考察するのが(a)項「ヘーゲルの時間概念」であり、第2の問いを考察するのが(b)「時間と精神の関係についてのヘーゲルの解釈」です。


  (a)ヘーゲルの時間概念

 ハイデガーは、ヘーゲルの時間論がアリストテレスの『自然学』で示された時間論に忠実なものであることを指摘します。ヘーゲルとアリストテレスの時間論の類似性については最後に要約されることになりますが、ここではまず、ヘーゲルの空間の概念から否定性の運動によって、いかにして時間の概念が生まれるかを紹介しています。ヘーゲルの否定性の弁証法による空間と時間論は、抽象的で分かりにくく、ハイデガーもこの弁証法については立ち入った解説をしていません。以下ではなるべく分かりやすく書くことを試みてみます(なお、以下でハイデガーの引用以外でヘーゲルの引用をする場合には、岐阜大学「翻訳 : G.W.F.ヘーゲル『ハイデルベルク・エンチクロペディー 自然哲学』(1)」の訳文を使用させていただくことにします)。
 ヘーゲルは『エンチュクロペディー』の第2篇「自然哲学」の第1部「力学」を「空間と時間」という項目から始めています。カントと同じようにヘーゲルもまず「空間」から考察を始め、次に時間を考察し、それから空間と時間の関係を考察しています。
 ここでもまずヘーゲルの空間論から考えてみましょう。ヘーゲルの空間論は、カントの空間論を基礎としています。カントは空間と時間を感性的な直観の形式と考えましたが、これは空間というものは実在するものではなく、人間が対象を直観するために必要な形式であるということです。ヘーゲルはこれに同意しながら、それに基づいて空間について次のように指摘します。

Der Raum ist die vermittlungslose Gleichgültigkeit des Außersichseins der Natur. Das will sagen: der Raum ist die abstrakte Vielheit der in ihm unterscheidbaren Punkte. (p.429)
ヘーゲルは、空間は〈自然の自己外存在の無媒介な無差別性である〉と語っている。その意味は、空間とは、その内部で区別されうるさまざまな点の抽象的な数多性であるということである。

 ヘーゲルは、空間は直観の形式であるということに注目し、空間を「自然の自己外存在の無媒介な無差別性」として定義します。「自己外存在」とは、1つの部分が他の部分と無関係に独立して存在することであり、そのもののうちにみずからを他のものと区別する特徴をもたないありかたのことです。これには点があげられます。点は点そのものとしては他の点と何らの区別ももっていませんが、空間のなかではこうした等質な点は多数存在することができます。すると等質なこれらの点は空間のなかで連続的であると言えます。それぞれの点は、他の点と独立して無差別に存在しているため、それらの点が集められた空間は連続的な性格をもつと言えます。こうした無差別な点がそのうちで可能になる抽象的なもの、それが空間なのであり、したがって空間は無差別「性」ということになります。
 ここでヘーゲルに特有の弁証法が開始されます。このような特徴をそなえた空間は「その内部で区別されうるさまざまな点の抽象的な数多性である」と規定できます。ただしこれらの点をすべて総計しても、空間が成立するわけではありません。点がいかに空間を区別しようとも、空間そのものとしては無差別なままです。

Der Raum bleibt, unterschieden durch die unterscheidbaren Punkte, die selbst Raum sind, seinerseits unterschiedslos. Die Unterschiede sind selbst vom Charakter dessen, was sie unterscheiden. Der Punkt ist aber gleichwohl, sofern er überhaupt im Raum etwas unterscheidet, Negation des Raumes, jedoch so, daß er als diese Negation (Punkt ist ja Raum) selbst im Raum bleibt. (p.429)
空間は、区別されうるこれらの点によって区別されながら、それ自身としては無差別なままである。区別は、それが区別するものと同じ性格をそなえている。しかしそれにもかかわらず点は、空間のうちで何かを区別するものであるかぎり、空間の”否定”であるが、それでも点はこうした否定として、それ自身はなお空間のなかにとどまるのである。というのも点は実際に空間であるのだからである。

 ここで原文を確認してみますと、「区別する」として使われているドイツ語は>unterscheiden<で、「無差別な」のところは>unterschiedslos<となっており、これは>unterscheiden<に>los<という否定がついたものです。ですからここで「無差別」と訳されているものは、「区別されていないこと」という意味であり、「区別」と同じ土台の上で考えるのがよいでしょう。
 空間は無差別性であったのですが、空間のなかの点はその空間を区別するものなのであり、その意味で点は「空間の”否定”」である言わなければなりません。それにもかかわらず、点自身は空間的なありかたをしているのであるから「点はこうした否定として、それ自身はなお空間のなかにとどまる」ということになります。

Der Punkt hebt sich nicht als ein Anderes als der Raum aus diesem heraus. Der Raum ist das unterschiedlose Außereinander der Punktmannigfaltigkeit. Der Raum ist aber nicht etwa Punkt, sondern, wie Hegel sagt, >Punktualität<. (p.429)
点は空間の他者として、空間の外に排除されるわけではない。空間は点の多様性の無差別な相互外在である。しかし空間は点ではなく、ヘーゲルが語っているように、「点性」なのである。

 点は空間のうちに多数存在できますから、空間は「点の多様性の無差別な相互外在」であると言われます。ここで相互外在とは、空間のなかの複数の点が互いに関係しあうことなく独立して存在しているということであり、空間はそれらの点が存在するにあたっての土台となっています。それゆえに空間は点そのものではなく「点〈性〉」だとヘーゲルは指摘するのです。
 これを根拠として、ヘーゲルが空間を時間として考える次の命題が生まれます。

>Die Negativität, die sich als Punkt auf den Raum bezieht und in ihm ihre Bestimmungen als Linie und Fläche entwickelt, ist aber in der Sphäre des Außersichseins ebensowohl für sich und ihre Bestimmungen darin, aber zugleich als in der Sphäre des Außersichseins setzend, dabei als gleichgültig gegen das ruhige Nebeneinander erscheinend. So für sich gesetzt, ist sie die Zeit<. (p.429)
「否定性は、空間に点として関係し、空間のうちで線と面としてのみずからの規定性を展開する。しかしその否定性は、自己外存在の領域においては”対自的”なのである。その領域において否定性の規定である。否定性は同時に、その否定を自己外存在の領域で定立するのであり、したがって静止的で相互の併存に無差別なものとして現れている。この否定性が対自的に定立されると、それは時間である」。

 これは難解で奇妙な文章に思えますが、ヘーゲルが言いたいことを紐解いていきましょう。すでに空間の内部に含まれる点は、空間そのものを否定すると語られていましたが、これは弁証法でいう第1の否定です。ところでこれらの点は、どれも排他的な「点」として、その他の点を否定することで自己を保存します。これはある点はその他の点では「ない」ということでみずからを区別するということです。どの点も、他の点を否定することで自己であるのですが、この否定はそれ自体で空間的なものです。他なる点を否定する点が、空間のなかでは集まって連続性を形成し、それが空間を作りだします。点のこれらの否定はそれ自体で空間的なものなのであり、空間においてはどの点も等質な点として区別されていないことになります。そのことによって、点は点としての自己を否定することになります。点の否定が点そのものを否定する、それが第2の否定、否定の否定です。
 この2つの否定によって、点は自己を止揚して「線」になります。この線は点が自己を空間へと関係させることによって展開したものです。点の点性は否定性であり、その否定性が点の否定性そのものによってふたたび否定されることによって止揚されます。そこに点の他在としての線が形成されるのです。
 この線は点を否定するものですが、線もまた空間を否定し、それでも空間的な線自身を否定することになります。線は点と同様に空間そのものを否定し、さらにみずからの空間的なありかたを否定して自己を止揚し、「面」になります。「点」がその点としての性格によって自己を止揚し「線」になり、線もまた線としての性格によって自己を否定して止揚され「面」となるのです。
 ここで『エンチュクロペディー』の第256節(上記に載せた邦訳の6ページ目)をみてみますと、次のように書かれています。

面は、一方で、線や点に対立している規定態であり、したがって、面一般であるが、しかし、他方、面は、空間の止揚された否定であり、したがって、今や否定的契機を自分に即して持つ空間の総体性の回復である。これが、包囲している表面であり、この表面は、個々の全体空間を分離する。

 線が止揚されて生じた面は、「包囲している表面」すなわち「物体を包み込む表面」となり、これが「個々の全体空間を分離する」すなわち「1つの全体としてまとまった個別的な空間を分離させる」ようになります。このようにして「今や否定的契機を自分に即して持つ空間の総体性の回復」がなされることになります。点が自己を否定し線になり、線もまた自己を否定して面となり、これが空間を作りだすのです。こうした否定性の運動において否定をさらに否定するときに、空間が思考され、その存在において把握されるのです。

Das ist nur möglich im Denken als der durch Thesis und Antithesis hindurchgegangenen und sie aufhebenden Synthesis. Gedacht und somit in seinem Sein erfaßt wird der Raum erst dann, wenn die Negationen nicht einfach in ihrer Gleichgültigkeit bestehen bleiben, sondern aufgehoben, das heißt selbst negiert werden. In der Negation der Negation (das heißt der Punktualität) setzt sich der Punkt für sich und tritt damit aus der Gleichgültigkeit des Bestehens heraus. (p.430)
空間をその存在において把握できるようになるのは、思考のなかで、定立と反対定立を経て、これらを止揚する総合定立が行われてからのことである。さまざまな否定が単純にその無差別なままで存立するのではなく、それらの否定を止揚し、すなわちこれらの否定をさらに否定するときに、初めて空間が”思考され”、その存在において把握されるのである。こうした否定の否定、すなわち点性の否定において、点はみずからを”対自的に”定立し、こうした存立の無差別性から脱出するのである。

 この弁証法によって、最初はたんにさまざまな区別の無差別な存立のままで思い描かれていた空間は、定立(テーゼ)、反対定立(アンチテーゼ)を経て総合定立(ジュンテーゼ)に止揚されることで、より高次の把握、すなわちその存在において把握することができるようになります。
 ここで「対自的」と言われていますが、ヘーゲルにおいて対自とは、自己自身に関係し、他のものからみずからを区別するありかたを意味します。点は空間の否定、すなわち点性の否定であり、みずからをも否定します。このみずからを否定する点は、それによって「無差別性から脱出する」のです。

Als der für sich gesetzte unterscheidet er sich von diesem und jenem, er ist nicht mehr dieser und noch nicht jener. Mit dem Sichsetzen für sich selbst setzt er das Nacheinander, darin er steht, die Sphäre des Außersichseins, die nunmehr die der negierten Negation ist. Die Aufhebung der Punktualität als Gleichgültigkeit bedeutet ein Nichtmehrliegenbleiben in der >paralysierten Ruhe< des Raumes. (p.430)
対自的に定立されると、点はみずからをほかのさまざまな点から区別し、”もはや”この点でもなく、”まだ”あの点でも”ない”ものになる。こうした点はみずからを対自的に定立するとともに、相互継起を定立して、そのうちに存在するようになる。これもやはり自己外存在の領域であるが、今では否定された否定の領域になっている。無差別性としての点性が止揚されたということは、もはや空間として「麻痺した静止」のうちにはとどまっていないことを意味している。

 点、線、面において、自己を止揚する否定性の運動が実現されることで、空間が成立します。しかし空間においてこのような運動性としての否定性が働くことによって、「無差別性としての点性が止揚されたということは、もはや空間として〈麻痺した静止〉のうちにはとどまっていない」ということになります。ヘーゲルによると、このような点性としての否定を否定すること」が時間なのです。このようにして空間のなかの点の否定的な働きによって空間が成立し、この否定的な運動が「対自的に定立されると、それは時間である」ということになります。
 というのも、対自的な点は「今」という性格をもつからです。

Soll diese Erörterung überhaupt einen ausweisbaren Sinn haben, dann kann nichts anderes gemeint sein als: das Sichfürsichsetzen jedes Punktes ist ein Jetzt-hier, Jetzt-hier und so fort. Jeder Punkt >ist< für sich gesetzt Jetzt-Punkt. >In der Zeit hat der Punkt also Wirklichkeit.< (p.430)
もしもこの解明に、証明することのできるような意味があるとすれば、それは次のことを意味しているのでなければならない。すなわちそれぞれの点がみずからを対自的に定立するということは、〈今はここに〉、〈今はここに〉などと言うことである。どの点も、対自的に定立されるならば、〈今時点〉として「存在する」。「このようにして、点は時間において現実性をもつ」ことになる。

 点がみずからを他の点から区別するとき、みずからを「今ここ」と規定することで、「”もはや”この点でもなく、”まだ”あの点でも”ない”ものになる」のです。否定によって点が対自的に定立されるなら、ここにある点は「今」によって他の点から区別されることになります。

Wodurch der Punkt je als dieser da sich für sich setzen kann, ist je ein Jetzt. Die Bedingung der Möglichkeit des Sich-für-Sich-setzens des Punktes ist das Jetzt. Diese Möglichkeitsbedingung macht das Sein des Punktes aus, und das Sein ist zugleich die Gedachtheit. Weil sonach das reine Denken der Punktualität, das heißt des Raumes, je das Jetzt und das Außersichsein der Jetzt >denkt<, >ist< der Raum die Zeit. (p.430)
点がそのつど、ここにある点として対自的に定立することができるのは、そのつどの〈今〉”によって”なのである。点が〈対自的に自己を定立すること〉のできる”可能性”の条件が〈今〉である。このような可能性の条件が、点の”存在”を作りだす。そしてその存在とはすなわち、思考されていることである。このように、点性、すなわち空間の純粋な思考が、いつも〈今〉を、そして多くの〈今〉の自己外存在を「思考する」ので、空間が”時間”「である」ということになるのである。

 ここで点がみずからを対自的に定立するということは、点がみずから行うことではなく、空間についての人間の思考によって初めて可能になることです。この「空間の純粋な思考」によって、あたかも空間から時間が自動的に発生するかのような外見が生まれるのですが、それはどういうことでしょうか。ヘーゲルにおいてこの時間そのものはどのように規定されているのか、調べてみる必要があります。

 ヘーゲルによると自己外存在としての空間は、点、線、面という否定性の運動によって否定的に統一されますが、この否定性の運動が遂行されると、「ここ」という点が、空間の無差別性を否定しながら、「今」という時間を措定することになります。「このように、点性、すなわち空間の純粋な思考が、いつも〈今〉を、そして多くの〈今〉の自己外存在を〈思考する〉ので、空間が”時間”〈である〉ということになる」というわけです。この否定的な統一としての時間には、どのような特徴があるのでしょうか。

>Die Zeit, als die negative Einheit des Außersichseins ist gleichfalls ein schlechthin Abstraktes, Ideelles. - Sie ist das Sein, das, indem es ist, nicht ist, und indem es nicht ist, ist: das angeschaute Werden; das heißt daß die zwar schlechthin momentanen, unmittelbar sich aufhebenden Unterschiede als äußerliche, jedoch sich selbst äußerliche, bestimmt sind<. (p.430)
「時間は、自己外存在の否定的な統一として、同時に端的な抽象的なもの、観念的なものである。――時間は存在であるが、それは存在することにおいて存在しない存在、そして存在しないことにおいて存在する存在、すなわち直観された生成である。ということは、端的に刹那的で、直接にみずからを止揚する区別が、外的なものとして規定されていながら、それと同時に、自分自身にとって外的な区別として規定されているということである」。

 第1の特徴は、時間も自然の自己外存在として空間と同じように、「端的な抽象的なもの、観念的なもの」であることです。これは空間の否定的な運動によって成立したものとして「直観された生成」ですから、まだ外面性と抽象性のうちにあります。
 第2の特徴は、時間は対自的な否定性であることです。空間における点に相当するものが「今」であり、この「今」は前の「今」とも後の「今」とも関係がなく、独立して存在します。そして「今」は点と同じように、他の「今」を否定することで自己を主張します。この時間の無差別性は、空間の無差別性の特徴と共通しますが、ここで時間と空間の違いが現れます。というのは、時間的な「今」は空間的な点とは異なり、同時に存在することができません。「今」はただちに「今」であることを否定され、止揚されて「まだない〈今〉」、「もはやない〈今〉」ということになるのです。「端的に刹那的で、直接にみずからを止揚する区別が、外的なものとして規定されていながら、それと同時に、自分自身にとって外的な区別として規定されている」というのは、否定によって区別された「今」がさらに一瞬で否定され止揚されながら、それでもこの「今」は自己外存在としてみずからのうちに他の「今」から区別するものをもっていないので、みずからにとってもやはり外的なものとなっているということです。
 第3の特徴は、このように時間が抽象的で対自的な否定性であるために、空間と同じように、時間は連続的であることです。ただし連続性が可逆的な空間とは違って、この連続性は一方向です。時間は一方向にしか流れません。これは空間の点と時間の「今」の違いによるものです。

 ハイデガーは、第3の特徴としてあげた「今」の特殊な性格に注目し、さらに考察を深めています。時間の「今」は空間の「点」と同じように、弁証法的な運動を展開します。時間は連続的なものですが、排他的な個別性としての「今」は、時間の連続性を否定するものでありながら、その否定の運動によって、時間の連続性を確立するのです。
 ヘーゲルにとってこの「今」という点的な時間は、今この瞬間という形で確証され、絶対に確実なものですが、そのことが確証された瞬間にもはや存在しないものになります。現在の今はすでに過去の今になっているのです。そしてこの今の瞬間には、未来の今はまだ存在しませんが、次の瞬間にはまだ存在しないはずの未来の今が真の現在の今に生成しています。これが、「時間は存在であるが、それは存在することにおいて存在しない存在、そして存在しないことにおいて存在する存在、すなわち直観された生成である」ということです。

Die Zeit enthüllt sich für diese Auslegung als das <angeschaute Werden<. Dieses bedeutet nach Hegel Übergehen vom Sein zum Nichts, bzw. vom Nichts zum Sein. Werden ist sowohl Entstehen als Vergehen. Das Sein >geht über<, bzw. das Nichtsein. Was besagt das hinsichtlich der Zeit? Das Sein der Zeit ist das Jetzt; sofern aber jedes Jetzt >jetzt< auch schon nicht-mehr-, bzw. je jetzt zuvor noch-nicht-ist, kann es auch als Nichtsein gefaßt werden. (p.430)
この解釈によると時間は「生成された直観」としてあらわになる。ヘーゲルによるとこの生成は、存在が無になること、あるいは無が存在になることである。生成は発生することであると同時に消滅することである。存在は『移行する」、あるいは非存在が「移行する」。これは時間については何を意味するのだろうか。時間の存在は〈今〉である。しかしどの〈今〉も、”今は”すでにもはや存在”しない”ものであり、あるいは今しがたまで〈まだ存在して”いな”かった〉ものであるから、今は非存在として捉えられる。

 引用を続けます。

Zeit ist das >angeschaute< Werden, das heißt der Übergang, der nicht gedacht wird, sondern in der Jetztfolge sich schlicht darbietet. Wenn das Wesen der Zeit als >angeschautes Werden< bestimmt wird, dann offenbart sich damit: die Zeit wird primär aus dem Jetzt verstanden und zwar so, wie es für das pure Anschauen vorfindlich ist. (p.431)
時間は”「直観された」”生成であるということは、時間は移行であるが、この移行は考えられただけのものではなく、〈今〉連続において端的に現れてくるものであるということである。時間の本質が「直観された生成」として規定されていることにおいて明らかになるのは、時間が第1義的には〈今〉に基づいて理解されていること、しかも純粋な直観の眼の前に現れてくるような〈今〉に基づいて理解されているということである。

 ハイデガーは、ヘーゲルが時間は生成であると主張することについて「どの〈今〉も、”今は”すでにもはや存在”しない”ものであり、あるいは今しがたまで〈まだ存在して”いな”かった〉ものであるから、今は非存在として捉えられる」と表現します。このように時間の本質が「直観された生成」であるということは、時間が「純粋な直観の眼の前に現れてくるような〈今〉に基づいて理解されているということ」です。この点からもヘーゲルの時間論が、通俗的な時間了解の方向のうちで動いていることは明らかでしょう。ヘーゲルの「今」に基づいた時間概念によって、時間はその根本的な構造が隠蔽され、平板化されていて、眼前的に存在するものとして直観できるものであることが前提にされているのです。

 ただしすでに確認したように、ヘーゲルは時間を点性の否定から規定したのであり、この否定性の運動によって、空間から時間を取り出し、そしてまた時間から空間を取り出しました。というのも、否定的な運動として時間が点を線に止揚し、線を面に止揚するからです。このようにして空間が時間へと移行しますが、その時間は空間へと崩壊するのであり、この運動によって、それまで無規定だった空間の1つの「点」が時間的に規定されて「場所」へと移行します。それまでは排他的な空間の1つの点にすぎなかったものが、時間によって措定されることで、具体的な場所になるのであり、ここでもヘーゲルの弁証法の運動が貫かれていることがみてとれます。

 (a)項のまとめに入りましょう。この項の目的は、ヘーゲルが時間の本質をどのようなものとして画定しているかを解明することでしたが、これまでの分析からは次のように指摘することができそうです。

Der angemessenste Ausdruck der Hegelschen Zeitauffassung liegt daher in der Bestimmung der Zeit als Negation der Negation (das heißt der Punktualität). Hier ist die Jetztfolge im extremsten Sinne formalisiert und unüberbietbar nivelliert. Einzig von diesem formal-dialektischen Begriff der Zeit aus vermag Hegel einen Zusammenhang zwischen Zeit und Geist herzustellen. (p.432)
そこで、ヘーゲルの時間観をもっとも適切に示す表現は、時間を”否定の否定”、すなわち点性の否定として規定したことである。この規定において、〈今〉系列はもっとも極端な意味で形式化され、これ以上ないほどに平板化されている。そしてヘーゲルはもっぱらこうした形式的で弁証法的な時間概念から出発することで、時間と精神の関連を確立することができたのである。

 次の(b)項では、この時間と精神の関連について考察することになります。


 (a)項は以上になります。今回は抽象的な考察が中心であったので、なかなかイメージがつきづらいものであったのではないかと思います。加えてヘーゲルの空間と時間についての説明は、私の理解が及んでいないこともあって不適切なものになっている可能性があります。この解説に問題があるという場合には、ぜひコメントして教えていただければ幸いです。
 それでは、次回もよろしくお願いします。

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