『存在と時間』を読む Part.78

  第74節 歴史性の根本機構

 これまで歴史についてその存在論的な問題と実存論的な問題に分けて考えてきました。歴史の存在論的な問題とは、歴史とはどのような「存在であるか」を考察するものですが、実存論的な問題とは、歴史そのものは実存するものではないので、実は現存在の歴史性についての問題でした。つまり、現存在はいかに歴史的な存在として「実存するか」を問うのです。そこでこの節では、歴史の存在論的な問題が、実は実存論的な問題であることをあらわにすることを目指すことになります。
 現存在の本来的なありかたは、先駆的な決意性として規定されていました。第60節において「決意性」とは、「”もっとも固有な負い目ある存在へ向けて、沈黙のうちに、不安に耐えながらみずからを投企すること”」であると定義されていました。そしてこれが本来的な決意性となるのは、「先駆的な」決意性であることが確認されています。この先駆的な決意性とは、死への先駆において、現存在がみずからの存在可能に直面し、自分自分がそれである存在者を、みずからの被投性において全体として引き受けることであり、これは状況へ向かって決意することを意味します。
 しかし問題なのは、この「死への先駆」による決意が保証できるのは、こうした決断の全体性と本来性という形式的な側面だけであり、その決意の内容である実存のさまざまな可能性については、問うことができないということです。本来性はあらゆる現存在に開かれていますが、その際に個々の現存在が事実的に実存する存在可能の1つ1つをここで考察することはできません。この「内容」を保証することができるのは、現存在が世界のうちに投げ込まれている被投性の実際の状況だけです。というのも、先駆することはそうした内容についての思索ではなく、事実的な〈そこに現に〉に立ち帰ることを意味するからです。

Soll etwa die Übernahme der Geworfenheit des Selbst in seine Welt einen Horizont erschließen, dem die Existenz ihre faktischen Möglichkeiten entreißt? Wurde nicht überdies gesagt, das Dasein komme nie hinter seine Geworfenheit zurück? (p.383)
そうだとすると、みずからの世界のうちに自己が投げ込まれていることを引き受けることで、ある地平が開示され、実存はそこからみずからの事実的な可能性を奪いとってくるのではないだろうか。さらに現存在はみずからの被投性の〈背後にさかのぼる〉ことはできないことが指摘されていたのではないだろうか。

 被投性の実際の状況こそが、現存在の実存の事実性を示すものであり、決意の内容を示す「ある地平」なのかどうか、現存在はみずからの本来的な実存の可能性を、被投性から汲み取るのかどうかをここで決めてしまう前に、まず被投性という気遣いの根本的な規定性について、さらに考察を深める必要があるでしょう。
 この実際の状況とは、「今」現在の状況であるよりも、これまでの歴史のすべての重荷を背負った現在の状況です。これをハイデガーは「遺産」という語で表現しています。

Die Entschlossenheit, in der das Dasein auf sich selbst zurückkommt, erschließt die jeweiligen faktischen Möglichkeiten eigentlichen Existierens aus dem Erbe, das sie als geworfene übernimmt. (p.383)
現存在は決意性によってみずからのもとに立ち帰ってくるが、現存在は決意性において、被投的な決意性として、ある”遺産を受け継いで”いるのであり、決意性はこの遺産のうちから、本来的な実存のそのつどの事実的な可能性を開示するのである。

 この過去からの「遺産」こそが、現存在が実存する際に直面しなければならないそのつどの事実的な可能性です。というのも、現存在はただたんに今そこに生きているのではなく、世界のうちで、世界を作りだしてきた過去の伝統のもとで生きざるをえないからです。世界内存在としての現存在は、日常性のうちではこれまでの過去の遺産を受け継いだ世界のうちで生きながら、こうした世界に依存し、他者たちとともに実存し、さしあたりたいていは、自己を世人のうちに喪失しているからです。そして現存在は、世人のもたらした解釈に抵抗しながら、受け継がれたさまざまな可能性を「みずから伝承する(>Sichüberliefern<)」ことで、みずから選んだ可能性を決断においてふたたびつかみ取るしかないのです。

 ここでハイデガーは「善きもの」という言葉を使って次のように語ります。

Wenn alles >Gute< Erbschaft ist und der Charakter der >Güte< in der Ermöglichung eigentlicher Existenz liegt, dann konstituiert sich in der Entschlossenheit je das Überliefern eines Erbes. Je eigentlicher sich das Dasein entschließt, das heißt unzweideutig aus seiner eigensten, ausgezeichneten Möglichkeit im Vorlaufen in den Tod sich versteht, um so eindeutiger und unzufälliger ist das wählende Finden der Möglichkeit seiner Existenz. (p.383)
すべての「善きもの」というものは、このような相続した財産なのであり、その「善きこと」という性格が、本来的な実存を可能にすることによって生まれるのである。そうであれば、遺産の継承というものは、決意性のうちで構成されることになる。現存在が本来的に決意すればするほど、すなわち死への先駆において、みずからにもっとも固有の卓越した可能性に基づいて、曖昧さなしにみずからを理解すればするほど、それだけ曖昧さも偶然性もなく、みずからの実存の可能性を選択し、発見することになるだろう。

 ここで「善きもの」と「遺産」の概念が結びつけられているのは、ドイツ語の「善きもの(>Gute<)」という語の複数形が>Güter<であり、「財産(>Gut<)」の複数形>Güter<と同じであることによります。決意性とは、このようにして「善きもの」として受け継いできた「遺産」のうちから、自己に与えられた可能性を選択することであり、それは「みずからにもっとも固有の卓越した可能性に基づいて、曖昧さなしにみずからを理解」するということであると語られています。この自己理解が深まれば深まるほど、「それだけ曖昧さも偶然性もなく」なるでしょう。ハイデガーはこのような現存在が伝承しなければならない遺産のことを、「宿命」と呼びます。

Die ergriffene Endlichkeit der Existenz reißt aus der endlosen Mannigfaltigkeit der sich anbietenden nächsten Möglichkeiten des Behagens, Leichtnehmens, Sichdrückens zurück und bringt das Dasein in die Einfachheit seines Schicksals. Damit bezeichnen wir das in der eigentlichen Entschlossenheit liegende ursprüngliche Geschehen des Daseins, in dem es sich frei für den Tod ihm selbst in einer ererbten, aber gleichwohl gewählten Möglichkeit überliefert. (p.384)
先駆においてつかみ取られた実存の有限性は、快適さや軽々しさや逃避など、現存在にもっとも身近にある可能性の多様で、際限のないありかたから現存在を引き戻し、現存在をみずからの”宿命”の単純さに直面させる。ここで宿命という語は、本来的な決意性のうちにひそんでいる現存在の根源的な生起を意味している。この生起のうちで現存在は死に向かって自由でありながら、相続され、同時にみずから選択した可能性のうちにあって、みずからを自分自身へと”伝承する”のである。

 「宿命(>Schicksal<)」という言葉は、同じ語源をもつ「運命(>Geschick<)」とは区別しなければなりません。どちらの言葉も、送るとか派遣するなどを意味するドイツ語の動詞>schicken<を語源とするものであり、宿命という名詞は、この動詞に、「~されたもの」を意味する語尾>sal<をつけて作られた名詞であり、もともとは神からそれぞれの個人に「送られたもの」としての定めを意味します。ハイデガーはこの宿命という語について「本来的な決意性のうちにひそんでいる現存在の根源的な生起を意味している」と説明しています。
 これにたいして「運命」は、動詞>schicken<の過去分詞から作られた名詞であり、前綴りの>Ge<に集合や共同存在などの意味があることから、個人ではなく他者とともに分かち合う遺産のことを意味しています。それぞれの個人には、自分に定められた”宿命”がありますが、同時にそれぞれの個人は世界内存在としては、他者とともにある”運命”を背負うことになります。

Wenn aber das schicksalhafte Dasein als In-der-Welt-sein wesenhaft im Mitsein mit Anderen existiert, ist sein Geschehen ein Mitgeschehen und bestimmt als Geschick. Damit bezeichnen wir das Geschehen der Gemeinschaft, des Volkes. (p.384)
しかし宿命のうちにある現存在は、世界内存在であるかぎりで、その本質からして他者たちとの共同存在において実存しているのであり、現存在の生起は他者との共同の生起であり、”運命”という性格をおびるのである。この運命という語によってわたしたちは、共同体の生起を、民族の生起を指すのである。

 このように、個人にたいして定められた摂理が「宿命」であり、個人が他の人々とともに分かち合うめぐり合わせが「運命」だと言えるでしょう。ハイデガーの採用した用語では、宿命は個人が受け継ぐ遺産であり、運命は共同体が受け継ぐ遺産であると考えればよいでしょう。

 宿命についてハイデガーは、8つの重要な規定を示しています。第1は、現存在は「宿命的な存在」であるということです。現存在はその誕生において、すでにある「運」のうちにあります。どのような国のどのような家庭に生まれるかは、みずから選択することのできないものです。
 第2は、定義から明らかなように、宿命は個人の実存における先駆的な決意性の現れです。現存在は実存する存在者として、偶然の残酷さによって与えられた宿命をただ受け入れるだけでなく、その宿命のもとでみずからの生き方を選択する決意をもつことができます。先駆的な決意性のもとで決断したひとは、宿命に追い回されるのではなく、それを所有することができるのです。
 第3は、このように決断することで現存在はみずからの自由を誇示し、宿命を所有することができるのですが、この自由は両義的なものです。

Wenn das Dasein vorlaufend den Tod in sich mächtig werden läßt, versteht es sich, frei für ihn, in der eigenen Übermacht seiner endlichen Freiheit, um in dieser, die je nur >ist< im Gewählthaben der Wahl, die Ohnmacht der Überlassenheit an es selbst zu übernehmen und für die Zufälle der erschlossenen Situation hellsichtig zu werden. (p.384)
現存在が死に向かって先駆し、みずからのうちで死を力強いものにするとき、現存在は死にたいして開かれて自由になり、その有限な自由のうちに示されたみずからの”偉大な力”のうちで、自己を理解する。この有限な自由は、選ぶべきことをみずから選びとっていることのうちに、そのつど「存在する」だけのものであり、この有限な自由のうちで現存在は、みずからに委ねられていることの”無力”を引き受け、開示された状況のさまざまな偶然についての洞察をもてるようになる。

 まず現存在は先駆的な決意性によって「死にたいして開かれて自由に」なることができ、この自由を行使する力を発揮することで、自己を理解します。ただし現存在の選択可能な存在可能がかぎられたものであるために、この自由もまた「有限な自由」にすぎません。この「有限な自由は、選ぶべきことをみずから選びとっていることのうちに、そのつど〈存在する〉だけのもの」であり、現存在はこの自由のうちで、世界における自分の被投性と「無力さ」という「不自由」を引き受けざるをえなくなります。逆にそれを引き受けることによって、現存在は自己について、「開示された状況のさまざまな偶然について」洞察できるようになるでしょう。
 第4に、この宿命の力は現存在の先駆的な決意性のもとで初めて発揮されます。このことをハイデガーは、先駆的な決意性の定義をそのまま反復しながら、次のように表現します。

Schicksal als die ohnmächtige, den Widrigkeiten sich bereitstellende Übermacht des verschwiegenen, angstbereiten Sichentwerfens auf das eigene Schuldigsein verlangt als ontologische Bedingung seiner Möglichkeit die Seinsverfassung der Sorge, das heißt die Zeitlichkeit. (p.385)
宿命は無力ではあるが、逆境を覚悟している〈偉大な力〉であって、その偉大な力は〈固有な負い目ある存在へ向けて、沈黙のうちに、不安に耐えながらみずからを投企すること〉から生まれる。この宿命が可能になるための存在論的な条件として必要とされるのが、気遣いという存在機構であり、すなわち時間性なのである。

 現存在がこのように先駆的な決意性をもつことができるために必要とされるのは、「気遣いという存在機構であり、すなわち時間性」です。
 第5は、現存在が先駆的な決意性のもとに決断を下すことができるのは、現存在が時間的な存在だからであり、宿命もまた現存在の時間性と密接な関係があるということです。

Nur Seiendes, das wesenhaft in seinem Sein zukünftig ist, so daß es frei für seinen Tod an ihm zerschellend auf sein faktisches Da sich zurückwerfen lassen kann, das heißt nur Seiendes, das als zukünftiges gleichursprünglich gewesend ist, kann, sich selbst die ererbte Möglichkeit überliefernd, die eigene Geworfenheit übernehmen und augenblicklich sein für >seine Zeit<. Nur eigentliche Zeitlichkeit, die zugleich endlich ist, macht so etwas wie Schicksal, das heißt eigentliche Geschichtlichkeit möglich. (p.385)
”その本質からしてみずからの存在において〈将来的〉であり、したがってみずからの死に向かって開かれて自由でありながら、死に直面して打ち砕かれ、みずからの事実的な〈そこに現に〉へと投げ返されることのできる存在者だけが、すなわち将来的なものとして等根源的に〈既往しつつ〉存在している存在者だけが、相続された可能性をみずから自身に伝承しながら、みずからに固有の被投性を引き受けて、「自分の時代」にたいして〈瞬視的に〉存在することができる。本来的な時間性が同時に有限であることによってのみ、宿命というものが可能になるのであり、そのようにして本来的な歴史性が可能になるのである”。

 ここで「”相続された可能性をみずから自身に伝承しながら”」という表現には、2つの意味が重ねられていることに注意が必要でしょう。1つは「”みずからに固有の被投性を引き受けて”」、自己の誕生以来の個人の歴史を踏まえて決断を下すということであり、そこでは誕生から今の瞬間までの「伸び広がり」を踏まえることが示されています。もう1つは「”〈自分の時代〉にたいして〈瞬視的に〉存在する”」ということであり、これは決意する個人だけではなく、世代の一員としてそれまでの共同体の歴史を踏まえることが示されています。ここで個人の誕生以来の以来の伝承された歴史と、共同体の過去の遺産を伝承してきた歴史とが重ね合わせられるわけです。個人の宿命は共同体の運命によって規定されているのであり、その遺産を無視して恣意的な決断を下すことはできないのです。
 第6は、宿命をみずからに与えられたものとして受け入れるということは、過去において存在していた現存在のさまざまな可能性のうちに立ち戻るということです。これをハイデガーは「反復」と呼びます。決意性において現存在は実存的な存在可能に向かって自己を投企しますが、この存在可能は、伝承された遺産のうちから取り出されます。

Die auf sich zurückkommende, sich überliefernde Entschlossenheit wird dann zur Wiederholung einer überkommenen Existenzmöglichkeit. Die Wiederholung ist die ausdrückliche Überlieferung, das heißt der Rückgang in Möglichkeiten des dagewesenen Daseins. (p.385)
その場合には、みずからに立ち戻り、自己を伝承する決意性は、受け継がれてきた実存可能性をそのつど”反復する”ものとなる。この”反復とは、明示的に伝承すること”を意味する。すなわち、そこに現に既往していた現存在のさまざまな可能性のうちに戻ることである。

 こうした反復は、たんに過去において可能であったものを、現在において再び現実的なものにしようとすることではありません。上記の引用につづいてハイデガーは次のように指摘します。

Die eigentliche Wiederholung einer gewesenen Existenzmöglichkeit - daß das Dasein sich seinen Helden wählt - gründet existenzial in der vorlaufenden Entschlossenheit; denn in ihr wird allererst die Wahl gewählt, die für die kämpfende Nachfolge und Treue zum Wiederholbaren frei macht. (p.385)
かつて既往していた実存の可能性を本来的に反復するということは、現存在がみずからの〈英雄〉を選ぶということであり、これは実存論的には、先駆的な決意性に依拠したものである。というのは先駆的な決意性のうちでまず選ばれるのが、反復可能なものに向けて戦いながら従い、忠実であることに向かって開かれて自由にする選択だからである。

 これはどういうことでしょうか。上記の引用にしたがって考えてみるなら、「みずからの〈英雄〉を選ぶということ」は、「反復可能なものに向けて戦いながら従い、忠実であることに向かって開かれて自由にする選択」のことです。この場合、「英雄」とは歴史上の偉人として語られる英雄たちのことではなく、先駆的な決意性における勇敢なありかたを意味します。しかし解説書によっては、過去に存在していたある特定の現存在の選択を模倣するという意味で、こうした特定の現存在を自分の「英雄」として思い描くことができると解釈する場合もあります。ここでは結論は出さずに、次の規定を確認してみましょう。
 第7は、宿命はこのように現存在にとって時間的な意味をもつものであると同時に、現存在の既往における遺産を伝承するものであるため、現存在の歴史性と密接に結びついたものであるということです。すでに述べたような反復が可能となるのは、現存在が歴史的な存在者だからです。

Das eigentliche Sein zum Tode, das heißt die Endlichkeit der Zeitlichkeit, ist der verborgene Grund der Geschichtlichkeit des Daseins. Das Dasein wird nicht erst geschichtlich in der Wiederholung, sondern weil es als zeitliches geschichtlich ist, kann es sich wiederholend in seiner Geschichte übernehmen. Hierzu bedarf es noch keiner Historie. (p.386)
”本来的な〈死に臨む存在〉、すなわち時間性の有限性こそが、現存在の歴史性の秘められた根拠である”。現存在は反復において初めて歴史的になるのではない。現存在は時間的なものとして歴史的であるからこそ、みずからの歴史において反復しながら自己を引き受けることができる。そのためには現存在はいまだ、いかなる歴史学も必要としないのである。

 第8は、宿命において重要な時間的な契機は将来ですが、現存在の歴史性との結びつきのために、宿命においては既往の要素もまた重要な意味をそなえているということです。というのも、現存在は先駆的な決意性において宿命をみずから伝承し、選択するのですから、反復にあたっても将来の時間的な契機が重要な意味をもつことになるからです。先に指摘されたように、みずからの〈英雄〉を選択するということは、将来に向けて決意するためであり、選択において重要なのは将来です。

Wenn aber Schicksal die ursprüngliche Geschichtlichkeit des Daseins konstituiert, dann hat die Geschichte ihr wesentliches Gewicht weder im Vergangenen, noch im Heute und seinem >Zusammenhang< mit dem Vergangenen, sondern im eigentlichen Geschehen der Existenz, das aus der Zukunft des Daseins entspringt. (p.386)
しかし宿命は根源的に現存在の歴史性を構成するのであるから、歴史の本質的な重みは、過ぎ去ったもののうちにあるのでも、今日と過ぎ去ったものとの「連関」のうちにあるのでもなく、現存在の”将来”から生まれる実存の本来的な生起のうちにあるのである。

 ただし歴史的なものを反復する宿命において、既往の契機が重要なものとなることは避けられません。ハイデガーはその理由を次の2点から指摘しています。第1は、先駆的な決意性において現存在が決断を下すための背景となるのは、過去の歴史的なものだからです。

Die Geschichte hat als Seinsweise des Daseins ihre Wurzel so wesenhaft in der Zukunft, daß der Tod als die charakterisierte Möglichkeit des Daseins die vorlaufende Existenz auf ihre faktische Geworfenheit zurückwirft und so erst der Gewesenheit ihren eigentümlichen Vorrang im Geschichtlichen verleiht. (p.386)
歴史は現存在の存在のありかたとして、その本質からして将来に根差すものである。そのためにこそ、現存在の特徴的な可能性である〈死〉が、先駆的な実存をみずからの”事実的な”被投性に投げ返すのであり、それによって初めて歴史的なもののうちで”既往的なもの”のありかたに独特な優位を与えるのである。

 歴史的なものは、現存在の被投性を規定するものであり、現存在の存在可能もまたこうした被投的な歴史性に規定されているのです。第2に、現存在は選択するにあたって将来を目指しているのですが、その将来を目指す選択は、伝承と反復という既往的な要因によって規定されざるをえません。

Aus den in der Zukunft verwurzelten Phänomenen der Überlieferung und Wiederholung wurde deutlich, warum das Geschehen der eigentlichen Geschichte sein Gewicht in der Gewesenheit hat. (p.386)
将来のうちに根差している伝承と反復という2つの現象によって、本来的な歴史の生起が、その重みを既往のうちにもっている理由が明らかにされた。


 このように現存在は先駆的な決意性のもとで選択を行うのですが、その選択は現存在の被投性と既往の重みによって規定されています。このような歴史性をハイデガーは「本来的な歴史性」と呼びます。現存在は将来の自己におけるもっとも固有な存在可能の実現を目指して現在において選択をするのですが、その選択の範囲と内容は現存在の既往によって規定されています。それが現存在の本来の歴史性です。現存在はこの被投性と歴史性に基づいて、将来の自己の存在可能に向けて選択を下すのです。
 ところが被投性のうちにあって、日常生活において世人の1人になっている現存在は、現存在の非本来的な歴史性によって導かれているために、それがこうした選択を規定していることも考えられるでしょう。

Gehört die Geschichtlichkeit zum Sein des Daseins, dann muß auch das uneigentliche Existieren geschichtlich sein. Wenn die uneigentliche Geschichtlichkeit des Daseins die Fragerichtung nach einem >Zusammenhang des Lebens< bestimmte und den Zugang zur eigentlichen Geschichtlichkeit und zu dem ihr eigentümlichen >Zusammenhang< verlegte? Wie immer es damit bestellt sein mag, soll die Exposition des ontologischen Problems der Geschichte hinlänglich vollständig sein, dann können wir der Betrachtung der uneigentlichen Geschichtlichkeit des Daseins ohnehin nicht entraten. (p.387)
現存在の存在に歴史性が属しているのであるから、非本来的な実存もまた、歴史的なものでなければならない。もしも現存在の”非本来的な”歴史性が、「生の連関」への問いの方向を定めているのであり、それが本来的な歴史性への接近を拒み、それに固有の「連関」への道を塞いでいるとすればどうだろうか。それはそれとして、歴史の存在論的な問題を十分に完全な形で提示するためには、現存在の非本来的な歴史性の考察を省くことはできないのである。

 宿命としての生起が、誕生から死にいたるまで、現存在の「連関」の全体を構成するのはなぜなのでしょうか。この問題はまだ謎として残っています。そして「現存在の”非本来的な”歴史性が、〈生の連関〉への問いの方向を定めているのであり、それが本来的な歴史性への接近を拒み、それに固有の〈連関〉への道を塞いでいる」ことも十分に考えられます。次の節では、このような非本来的な歴史性について重点的に考察することになります。


 今回は以上になります。次回もまた、よろしくお願いします。

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