見出し画像

「悲しみの秘義」が心に染み入る

先日,「妹の四十九日」と題した文章を書いたところ,それを読んだ友人が本書「悲しみの秘義」を紹介してくれた.最近読んだ本の中でこれが一番自分の心に響いたと言って.すぐに購入して読んでみた.深く心に染み入った.死者と生きるということ,悲しむということ,読むことと書くことの意味など.

「もしあなたが今,このうえなく大切な何かを失って,暗闇のなかにいるとしたら,この本をおすすめしたい」と,巻末の解説に俵万智が書いている.その通りだと思えた.

本書「悲しみの秘義」に収められている文章は,2015年1月8日から6月25日にかけて,毎週,日本経済新聞夕刊に掲載されたものである.文庫化に際して,「死者の季節」が追加されている.

26の短い文章を読んで,何か大切なものを拾うことができたように思う.

悲しみの秘義
若松英輔,文藝春秋,2019

本書全体を通して,若松英輔氏が書いているのは,大切な人が亡くなるのは悲しいことだけれども,それはその人の存在がなくなるということではないということだ.むしろ,その人をもっと身近に感じることでもある.

逝った大切な人を思うとき,人は悲しみを感じる.だがそれはしばしば,単なる悲嘆では終わらない.悲しみは別離に伴う現象ではなく,亡き者の訪れを告げる出来事だと感じることはないだろうか.

悲しみの秘義

あなたに出会えてよかったと伝えることから始めてみる.相手は目の前にいなくてもよい.ただ,心のなかでそう語りかけるだけで,何かが変わり始めるのを感じるだろう.

悲しみの秘義

人はみな,例外なく,内なる詩人を蔵している.詩歌を作るかどうかは別に,誰もが詩情を宿している.そうでなければ真理や善,あるいは美しいものにふれたとしても何も感じることはなく,それを誰かに伝えたいと思うこともないだろう.

見えないことの確かさ

重大な発見があるのではないかと強く身構えるとき,その人の中で,ほとんど無意識的に「重大なもの」が設定されてしまう.そして,その想定から外れるものを見過ごす.

低くて濃密な場所

読むことは,書くことに勝るとも劣らない創造的な営みである.作品を書くのは書き手の役割だが,完成へと近付けるのは読者の役目である.

低くて濃密な場所

優れた詩を読む,それは沈黙のうちに書き手と言葉を交わすことでもある.
だが,詩は扉であって,真に向き合うべき相手は別にいる.それは自分だ.人は,さまざまなことに忙殺され,自らと向き合うのを忘れて日常を生きていることが少なくないからである.

眠れない夜の対話

人生の意味は,生きてみなくては分からない.素朴なことだが,私たちはしばしば,このことを忘れ,頭だけで考え,ときに絶望していないだろうか.

死について

本書には多くの引用がなされている.宮沢賢治,須賀敦子,神谷美恵子,リルケ,プラトン,小林秀雄,ユングらによる,死者や哀しみや孤独についての文章である.しかし,ひとつだけ,「声を出して,ゆっくり読んで頂きたい.一度ではなく二度,読んで頂きたい.」と書かれた文章がある.石牟礼道子が,水俣病で亡くなった坂本きよ子という女性の母親から聞いた言葉だという.

きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。

それがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に。私がちょっと留守をしとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面に這うとりましたですよ。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。曲った指で地面ににじりつけて、肘から血ぃ出して、

「おかしゃん、はなば」ちゅうて、花びらば指すとですもんね。花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。

何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に。

石牟礼道子,「花の文を─寄る辺なき魂の祈り」

若松英輔は書いている.「書かれた言葉はいつも,読まれることによってのみ,この世に生を受ける」と.この娘を想う母の言葉も,声に出して読まれることで,生を受ける.

大切な人を喪った者を最初に襲うのは悲しみではなく,孤独である.だが,逝きし者をめぐる孤独は,不在の経験ではない.それは,ふれ得ないことへの嘆きである.悲しいのは,愛するものが存在しないからではなくて,手が届かないところにいるからだ.
だが,遠いところにいるからこそ,その存在を強く感じる.姿が見えないから,一層近くにその人を強く認識することはある.この不思議な事象を喚起する働きを人は,永く,情愛と呼んできた.

孤独をつかむ

誰かを愛しむことは,いつも悲しみを育むことになる.なぜなら,そう思う相手を喪うことが,たえがたいほどの悲痛の経験になるからだ.

悲しい花

本書「悲しみの秘義」において,さらにその「あとがき」において,若松英輔は自分の想いを書くことの大切さと難しさを書いている.「人は,書くことで自分が何を想っているのかを発見するのではないか.書くとは,単に自らの想いを文字に移し替える行為であるよりも,書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことなのではないだろうか」と.その上で,「想いを書くのが難しいと感じられるなら,印象に残った言葉を書き写すだけでもよい」とも書いている.

心の琴線にふれた言葉を文字に刻むことも,人間に託された大切な役割なのである.

単行本あとがき

もし大切な人をうしなって苦悩している人がいたら,本書を手に取ってもらえたらなと思う.私に紹介してくれた友人に感謝している.

目次

1 悲しみの秘義
2 見えないことの確かさ
3 低くて濃密な場所
4 底知れぬ「無知」
5 眠れない夜の対話
6 彼方の世界へ届く歌
7 勇気とは何か
8 原民喜の小さな手帳
9 師について
10 覚悟の発見
11 別離ではない
12 語り得ない彫刻
13 この世にいること
14 花の供養に
15 信頼のまなざし
16 君ぞかなしき
17 模写などできない
18 孤独をつかむ
19 書けない履歴書
20 一対一
21 詩は魂の歌
22 悲しい花
23 彼女
24 色なき色
25 文学の経験
26 死者の季節

単行本あとがき
文庫あとがき
解説 俵万智

© 2022 Manabu KANO.

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?