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私の家の話。~父との愛憎の結末~

採れたての落花生をゆでて食べた。
芋焼酎の湯割りをのんだ。
コスモスの生花を買った。
どれもはじめて。

まだまだ知らんことばっかり。


今月初め、父親が食事を摂れなくなったと特別養護老人ホームから連絡があり、姉とふたりで最期は胃ろうを選択しない、と決めた。

父は早くに認知症の症状が出たのを自覚して、自宅を処分し、自ら行政に掛け合って適切な施設に入所した。
たぶん最年少で入り、終盤はその施設で最古参としてたくさんの先輩や後輩を見送ってきたと思う。
自分は身寄りがないといって施設に入っており、通帳の管理から借金の整理、よく分からない買い物、ネズミ講への支払いの遮断などをすべてスタッフが親族に代わってこなしてくれていた。
すばらしくよく尽くしてもらった。

私はもう永遠の別れで構わないと思い、離れてからはたまにしか連絡をしなかった。
ずっと前、四人家族で暮らしたときはDVモラハラサイコパス野郎だった。
そのときの悔しさや取り返しのつかない悲しみは簡単には消えなかった。
もう思い出さなくてよいのに私は反芻していた。

父とネコと最後に暮らした話し。コチラです↓↓↓

次に施設から連絡を受けたのは20日後、「酸素濃度が下がってきた」ということだった。
こどもたちのどうしても外せない行事が明日ですべて終わる、という日だった。
仕方ないのでその行事をやり終えて、予め詰めていた荷物を引っ提げてこどもと新幹線に飛び乗った。
現地に着く3時間前に、先に着いた姉から「脈が落ちてきた」と言われた。
日本て広いから(笑)国内移動でもめっちゃ時間かかるのね。
乗り物のなかで急ぐことはできないから、仕方なく美味しい駅弁を食べながらデザートまで味わい、小岩井コーヒーを飲んで、死ぬときは死ぬし、私に会いたきゃ待つでしょ、などと思った。

けっきょく父は持ち直し、私を待っていた。
目を覚ますことはなく、苦しそうに口を開けて息をしていた。
点滴など打たず、わずかばかりの酸素を鼻からスース―と足していた。
病院だと過剰に点滴をやりすぎて、最後亡骸の背中からぼたぼたと水が溢れるのでまずタオルを当てる、なんて葬儀屋の話を聞いたばかりだったので、「枯れるように死ぬ」に向かっている父を見て安心した。
しかしながら、全部自前の歯がしっかり生えていて、肌の艶もよく、撫でると反応がある父には、ほんとうに死ぬのかなと思わされた。

手を握って話しかけた。
こういうとき、お父さんありがとう、なんて言わない。
ごくふつうに話しかけた。私の赤ちゃん(認知症になってから赤ん坊の息子をものすごくうれしそうに抱いていた)を連れてきたよ、これが赤ちゃんの手だよ、とこどもの手を持たせた。こどもは中学生と小学生になっていた。
私の手に触れたときと、こどもたちが触ったときに明らかに違う反応を示した。こどもの手は温かく湿っていて柔らかいのでわかるのだろう。
肩を撫でてやるとくすぐったそうに首を何度も傾けた。

その日は明らかに、私たちと時をすごすために張り切っているように見えた。目は閉じていたが。
とてもすぐ逝くように見えなかったから宿へ入って眠った。

のんびり朝食をいただいて再び父の顔を見に行くと、土気色みたいに暗い色をしていて、もう昨夜のような反応をいっさい示さなかった。撫でても知らんぷりだった。
そして、いっそう大きな口を開けて苦しそうに息をしていた。
ベテランのナースが見に来て、「もうそろそろやね」と言った。
こんどは足をマッサージした。姉は父の好きだった温泉の湯で顔をピカピカに拭いて喜んでいた。姉はナースなのだ。患者にも同じようにしてきたらしい。しかし誰も泣いてはいなかった。

私と娘は外で海を見ていた。
私たちは山に住んでいるから海はいつもは見られないのだった。
テトラポッドの間からキジトラネコが現れて、こちらに向かってしばらくシナを作っていた。なにかもらえると思ったのだろう。

なにももらえないと知り、走って逃げた。

しばらく海をぶらぶらして戻り、もう一度父の顔を見て、挨拶をして別れた。それが私と父の最後だった。

ちゃんと会って挨拶をし、手まで握って別れた。
もう思い残しはなかった。

美味しい昼ご飯を食べて、レンタカーでGoogle Mapsで見つけた高台に上った。
そこは検索で見ると、名称のあとに心霊スポットという文言が一番先に出てくるところであったがレビューがいいので行ってみた。
駐車場にクルマを停めて、皆が降りた瞬間に「呼吸が止まった」との連絡が入った。心霊スポットに来るからじゃないか~と皆で笑った。
町が一望できる場所で記念撮影した。心霊は写らなかった。

私は、ここの記事で父のことをいろいろ書いてきたが、顔をぶたれても父が好きだった。
母のこともきっとそうなのかもしれない。だが、まだ存命なので、母の嫌なところはまたいずれあげつらっていきたいと思う。

遺品として私が預かった父の古いアルバムには、飛行機に乗って世界中を旅行していた頃の眩しい父の姿があった。
どういう気持ちだったのか知る由もないが、四人家族でいたときにはあのような顔を見せなかった。
父なりに、家族を持つプレッシャーを日々感じていたのかもしれなし、仕事に邁進するあまり、家族に笑顔を向けることができなかったのかもしれない。
少なくとも、母から聞いていた父とはかけ離れた姿に見えて、私と姉はさまざまなことを考えた。

いっしょにいて、笑顔になれるのが一番よいのだと思う。
私はそういう家族をつくれているのだろうか。


覗いてくれたあなた、ありがとう。

不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。

また私の12ハウスに遊びにきてくださいね。






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