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【散文】 寺とラテとコーチングマインド


寺カフェに来た。

寺の中にあるカフェで、少し不思議な場所だ。

ラテを頼んだ。

あっちのひとはアメリカーノだ。

マシンが見えなくてもメニューの並びをみると、どんなスペックのエスプレッソマシンがあるかなんとなくわかる。

オーダーとお支払いは入り口で、番号札を渡され席につく。
書院には写経のときにつかう独特の高さの椅子とテーブルが並べられていて、庭をながめることができる。

縁側にも席があり法事でつかう座布団が並ぶ。

庭はおもに緑で、反射がまぶしい。セミが元気すぎる。
ひとり客とふたり客が6:4くらい。
男女比は半々くらい。男性が多いのが意外だ。
ほとんどのひとが冷たいドリンクを飲んでいる。

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ラテがきた。

夏にホットラテのオーダーが入るとうれしいのはバリスタあるあるだと思う。
ラテアートはホットしかできない。
スチーミングや注ぎが若干下手になる季節には貴重だからだ。



しかし寺ラテはかんぺきだった。

まず温度だ。

たぶん57-58度くらいだ。

おいしいラテは、ひとくちめから飲みごろだ。

熱ちっ!とならない、でもぬるいとは感じさせない、スッと飲めて、最後まで冷めずに飲み切ることができる温度が理想だ。
(ちいさいサイズなら57度くらいが適温だと思う)

牛乳の甘味がでる温度はタンパク質の性質で決まっているため、動かせない。
熱すぎると甘味が飛んで、相対的にコーヒー感が強くなり苦味が際立ってしまう。
甘味を失わないために温度を調整する。どうしたらどうなるか、知っているほどお客さんに合わせることができる。

ドリップコーヒーなら

ぬるいとしても75度超えがほとんどだと思う。
ドリップ育ちの日本人にはラテはぬるいと感じられることもあるが、味を考えた適温なのだ。


次にフォームだ。
寺ラテはフォームの厚さがかんぺきだった。
ひとくちめで、泡の部分と、その下のさらっとした液体の部分が両方ちゃんと入ってくる。

生ビールを飲むときに泡が厚すぎて、ひとくちめでビールがぜんぜん飲めないことがあるが、あれをコーヒーでたとえるとカプチーノになる。

ラテは泡の厚さが1センチ程度でないといけない。

オセアニアのカフェではラテはグラスに入って出てくる。ふつうのデュラレックスのグラスだが、ひとはいささかの敬意をもってラテグラスと呼ぶ。
ガラスだから泡の厚さがよく見える。

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逆にカプチーノは2センチくらい泡がないといけない。
泡を "食べる" 飲みものだからだ。甘いココアパウダーさえふられている。
そのくらい泡は食べものだ。

ちなみにこの泡の部分のみをデミタスカップにすくいいれ、ココアパウダーをふってマシュマロをひとつのせてあげるのが、ベビチーノだ。世界中のこどもが憧れるアレだ。


寺ラテの泡のレベルは高かった。なめらかだ。スチーミングが上手いのだ。こうなるとカプチーノも飲んでみたくなってくる。

寺だからってなめてはいけない。

湯呑みに入った寺ラテの堂々たる佇まい。寺だけに。

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寺でカフェ、までは珍しくないと思う。

しかしここまでしっかりラテを出されるとは思わない。
そもそもマシンがあると思わなかった。ドリップやフレンチプレスや、家庭でも定番の抽出方法と予想していた。


ラテアートはチューリップと呼ばれる何回かに分けて注ぐ柄だった。


手でピック(棒)を持って絵を描くデザインカプチーノとは違い、ラテアートはフリーポアと呼ばれる《注ぎの技術のみでつくるもの》だ。

チューリップは見た目ほど難しくはない。

一度で注ぎ切るリーフやレイヤーハートなど幾層にも重なった茶と白のしましま(レイヤー)のあるアートのほうが難しい。

ラテアートの大会ではカップバランスといって左右対称さがみられる。そして茶と白のコントラストも大事だ。味ではなくラテアートのみを評価する。


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しかし寺ラテはかんぺきだった。

ベジタリアンの料理は肉も魚も食べる人でも、それを食べたいと思わせるおもしろさやおいしさがないとダメなように、


寺ラテも、寺というラベルを剥がしてただのラテになったときの実力がないといけない。

ものすごくおいしさだけを求めているわけではないが

いくらおしゃれでも味がおいしいと思えない飲食屋には再び行く気にはなれない。

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寺カフェは距離感もよかった。

接客という言葉は似合わない距離感だ。

坊主たちがハッピを着て給仕にあたっている。

住職に至っては袈裟を着てドリンクを運んでくれる。

これは……あれに似ている。

パリのビストロの長いサロンをびしっと巻いた初老のギャルソンだ。
今初めて会ったのに、このひとに任せておけば大丈夫と思わせる安心感だ。


住職のほかに背の高い若い坊主、すこし背の低い若い坊主、新人らしき坊主と年配の女性がいた。皆、丁寧さがちょうどいいというか、ふだんの居住まいの効果なのか、雑なひとがいない。

ドリンクを出すときの手つきだったり、道を譲るときの動きだったり。自然な親切はほんとうにそれをしたいと思っていないとなかなかできないものだ。

お客は写真を撮りたい若い人から、子連れ、抹茶をたのしむ老夫婦までいろんなひとがいたが、どのひとにも親切だ。

仏教を礎とするせいなのか、もともとちゃんとしたひとたちなのかはわからないけど、心地いいと感じさせるお店は、だいたい空間とひとが合っていてズレがない。


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寺をカフェとして まちにひらくというのはいいアイディアだと思う。


もしかしたら、2代目(?)の倅のアイディアなのかもしれない。

しかしアイディアだけではここまでいい空間はつくれない。

父親である住職に寺カフェをやりたいと申し出たときの倅を勝手に想像する。


---------↓妄想のゾーン↓----------------

「親父、いまは寺も寺だけじゃダメな時代なんだよ」


「なんだタカシ、急に。」


「檀家さんだって減ってるし、法要をやらないひとも増えてるだろ。寺を継ぐのはいいけど、将来性がないとおれはいやなんだ」


「そうか。まあお前がそう言うなら一度好きにやってみなさい。どうせ普段は使っていないスペースだし、椅子もテーブルもどうせあるものだしなあ」


「そうだよ。庭だってせっかくひとを入れて手入れしてるんだし、この戸から見える景色とかインスタの正方形に合ってるしぜったい映えるって」


「映え…流行り言葉はよしなさい」


「抹茶とか空間に合ったもの出して、甘いものは買ったものだっていいわけだしさ。」


「そうだな、せっかくだからゆっくりしてもらえるように食べるものは少しあるといいかもしれないな」


「友達にカフェやってるやつがいるからいろいろ聞いてみるよ。寺だから雰囲気が京都っぽくなるしうまくいけば外国人とかにバズるかも」


「バズ…流行り言葉はよしなさい」


-----------------妄想おわり-----------------

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家業にせがれのアイディアが活きるかどうかは、親の受容力が鍵な気がする。

この場合の住職の態度はすばらしい。(妄想だけど)

上司・部下間、あるいは親子間のコミュニケーションで悩むひとは多いが、これはこのまま見習っていいやりとりだと思う。


《自分より、技術や能力で劣る、あるいは ”優れていて欲しくない
(と自分が潜在的に感じている)相手”に、思いがけずいいアイディアを出されたとき 》

実は、問われているのは、アイディアの善し悪しでなく、それを打ち明けられたほうの器なのだと思う。

ジャッジしているつもりで、されている。
コミュニケーションの実力を。

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住職は息子であるタカシを一度も否定しない。

ではなにをやっているかといえば

話をちゃんときく。遮らずに、奪わずにきく。
そしていったん認める、ということだけをしている。

カフェをやりたいタカシのアイディアをいったん受け入れて、使えるものをいっしょに探し(机と椅子、空間)

可能か不可能かまだわからない時点で「どうしたらできるか」をいっしょに考えようという姿勢をみせる。
(甘いもの、食べもののくだり)

タカシが意見を素直に言える環境は、これまでの関係性の賜物ではある。

でも住職のこの受容力と寄り添う姿勢があるから、あたらしいものがうまれる。

タカシはエスプレッソマシン の扱いを友達に習いにいけるし、
見てくれるひとが増えれば庭師だって張り切る。



本堂はそんな場所じゃないとか
畳が汚れるとか
不特定多数のひとが日常的に出入りするのは、とか

タカシを「寺をわかっていない息子」とみなせばいくらでも否定できる材料はあるが、住職はそれをしない。もっと言えば、しないことを選んでいる。

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もし住職がタカシのアイディアを否定したり、聞く耳を持たなければ、

「寺なのに(すごい)」と思わせるほどかんぺきなラテは提供されないまま、今日も書院は《世の中にあるたくさんの発揮されないリソース》として存在していただろう。

コーチングマインドは

ものすごくかんたんに言うと、こういう、相手が何を出そうとしているのかを万全の姿勢で受け止める用意というか、相手を信じて委ねることができる心もちのことだとおもう。

自負があるほど、手も口も出したくなる。
そこ(感情)までは皆同じだとして、そのあとの行動は選べる。

コーチングの考えかたには、普段の生活にすぐに取り入れられる、活かせる要素がたくさんある。

コーチングのセッションとして成立させるにはもっともっと別のいろいろがあるとしても、

普通のやりとりや会話、ちょっとした相談なら

ちゃんと聞いて、認めようとする姿勢があればだいたい変なことにならないとおもう。

話すのが得意かどうか、うまく言えるかどうかは関係がなくて、心もちのほうがよほど生々しく作用する。

どう話すかも大事だけど、どう聴くのかにも、もう少しスポットが当たっていい。


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カフェラテについて書き始めたのに、コーチングマインドに着地しました。
ひとの思考ってこんなふうにバラバラで、括れないものなんだなってわかりました。

妄想を読んでいただきありがとうございます。笑


フリーのバリスタ/COOK/コーチとして活動中です。
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だいたいこの記事の前半部分で書いたようなことを考えながら普段はカフェやコーヒー屋をめぐってます。笑
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