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察しと思いやりは、気づきと配慮としたい

多様性について考えて
柔軟性が私には足りないのか?と疑問を抱き
柔軟性=察しと思いやりという
間違えた考えでいた

そもそも察しと思いやりが減ってるから
柔軟性にかけてると思い始めたのだ。


エヴァンゲリオンのミサトのセリフ
1995年アニメ作品より

「日本人の信条は察しと思いやりだからよ」

かれこれ30年近く前になる
もはやこの信条である人のほうが減ってきている

察しと思いやりは誰のため??と
考える。
30年前ならば、日本人だったら「人様」のためだったかもしれない
今はもう自分のための察しと思いやりになっている。もちろんそれでいいと思っている。
自分様である。

言葉を置き換えてみた

察しとは「気づき」であり
思いやりは「配慮」「関心」である

とたんに軽くなる
コレくらいの言葉が楽だな

思いやりは優しさとか
善意が含まれるように感じるから受け取らなければという気持ちになる
配慮ならば遠慮しやすい
関心も一方的な感じが良い

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検索をしていて面白い言葉をみつけた

しかしなぜ、みな良かれと思って「察し」と「思いやり」をしているのに、うまくいかないのだろうか?

それは、「察し」も「思いやり」もファンタシーになっているからだ。
「ファンタシー」とは、直訳すると幻想という意味になる。

いま私が学んでいるTransactional Analysisという心理学に出てくる言葉だ。

幻想!ファンタシー!妄想!思い込み!バイアス!

なるほど。
察しと思いやりは過度になると
変わっていくものなんだ

「察し」は、いま現実はこうなっているのだ、
という事に関するファンタシーだ。

「思いやり」は、自分がこういう行動をすれば相手がいい状態になる、
というファンタシーだ。

そして、多くの「察し」と「思いやり」は、現実離れしてしまっている。
だから、うまくいかないのだ。

こうあるべきとか
こうしてほしいという価値観
この価値観は中間感情でもあり怒りのきっかけになったりもする

察しと思いやりは優しさではなく
怒りの引き金にすらなってしまうのですね

多様性=柔軟性
柔軟性=察しと思いやりからの思考の記録でした

#多様性を考える


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