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異才テネシー・ウィリアムズの「さけび」

いつも思っていた。劇場ってひょっとすると、役者にとっての牢獄じゃないかって

新宿三丁目の地下劇場に入った瞬間、目に入るのは、菱形舞台の2辺につられた網のような紗幕と、その向こうに横たわるトラワレの巨大な顔。そこここに咲いているひまわり。そして、菱形の角の、客席のキワに立つ、一枚のドア。

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覚えてもいないくらいに続いた旅公演の、最果ての地、らしい。劇団員に逃げられ、マネージャーにも匙を投げられた2人の兄妹の成れの果て。兄は劇作家。妹は役者。

残された二人は、出来かけの舞台で、レパートリーにあった「二人だけの芝居」を上演する。

なんて好都合。

そりゃそうなの。だって、この二人は多分、旅公演になど出ていない。両親が死んだ家から一歩も出ていない。

その家の中で、彼らは永遠にこの芝居を何度も何度も繰り返している。しかも結末まで行かないままで。北村薫の時の三部作シリーズの「ターン」を、少し思い出す。

でも、後半に至ってその考えが変わった。違う、これを妄想しているのは彼だけだ。彼女もまた、彼の妄想の産物なのだ。この世界には彼しかいない。わずかに残された彼の「理性」が「クレア」なのだ。そして「クレア」が存在できるのは、この家の中だけなのだ。外に出てしまったら「社会」が彼を矯正しようとするだろう。精神病院に入れるだろう。治療されれば、妄想の産物でしかない「クレア」は「殺されて」しまうだろう。そして彼は独りぼっちになってしまうのだ。

だから、理性は彼に銃を向けたのだ。

ならば宗教は彼を救えるか?途中、クレアは牧師に連絡をする。本当に連絡できたかは定かではない。でも、どのみちワイリー牧師は彼(ら)を救えない。だってワイリーとフォックスは同義だもの。「狡猾」という意味の名前の二人は、どちらも彼らを見捨てるだけだ。ある者は経済的に。ある者は精神的に。まるで、テネシーの父や祖父のように。

資本主義にも宗教にも救いを求められないなら、あっという間に手のひらを返す市民や社会は彼らを救えるか?「市民共済」とやらは、名刺を残す以上のことをしてくれるのだろうか?

でも、逆にも読める気もする。

彼(ら)は出て行きたくない。だからパチンコでいじめるような「怖い社会」を作り上げた。出ていかなくても済むように。自分だけの世界に引っ込んでいられる言い訳が成立するように。

昔は名声も賞賛も浴びたらしい。その栄光の日々が遠い今、社会は冷たく彼をあしらう。その世界に出ていかなくてもすむように、彼は社会の「悪意」すらこしらえてしまったのかもしれない。

死刑宣告は、とうの昔に下りていた

この作品の初演は、わずか12回で打ち切りだったという。それは、テネシー・ウィリアムズにとって、死刑宣告と同義ではなかったか。

とうの昔に判決は下りていたのに、それを10年以上に渡り改稿を続ける行為は、フェリースと同じだ。

この芝居を彼は何度、一人の家で続けたのだろう。

ロボトミーの跡の残る、虚像の巨像の前で。

開かないドアの前で。

朴璐美さん、山路和弘さんの二人芝居。100分間、身じろぎすらできなかった。

ってかですね、わたしの席からは、ラストのラストの彼ら2人の表情が...

見えなかったのーーっ!!!!!!!!!!

ああああああ、もう一回見ようか見まいか、マジ悩む。でも、こんな濃厚なパンチドランカーみたいな芝居をラスト5秒のためにもう一度観れる体力があるのかも悩む。

そんなさけびをあげた即位礼正殿の儀の前夜なのでありました。

うぐぐぐぐうぐぐ

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