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【意味の向こう側とは】 闇は光の母シリーズ『ぼく』刊行記念 - 谷川俊太郎さん×合田里美さん×筒井大介さん トークイベント

ぼくは生きていて、することがない

久しぶりの谷川さんイベントでした。

「ぼく」という絵本は、子どもの自死、というテーマを扱っています。だからこそ、その制作過程は繊細で、自分の中に深く潜り込む体験だった、と谷川さんはおっしゃいます。

冒頭から「ぼくは死んだ」と書いているのに、この子が生きているつもりでずっと書いていたから、指摘されるまで(ぼくが)死んでいることに気づかなかった

こう言葉を続けた谷川さんから滲み出す少しの困惑が、印象的でした。

「生きていたくない」と「死にたい」は違うのです。特に若ければ若いほど顕著であるように思います。歳を取るに従って、「死にたい」理由はわらわらと出てくるけれど、小さい頃は、「もう生きていたくない」と思う場面の方が多い。

それは、突き詰めていくと、大人は人生という暇を持て余していること本来は意味のない人生に、意味を求めすぎていることに繋がります。

でも、意味があることなんて、実はそんなには無いんです。

私は、職業柄、色々なコトバの裏の意味を探ろうとするし、目の前に立ち現れる現象や事象、風景や光景をどう言語化するか、を考えます。その時、きっとそこには意味があると無意識的にも意識的にも考えて、その「意味の姿」を捉えようとしている。捉えて、「コトバ」という枠にはめようとしている。

その行為は、気をつけないとエゴになるのです。本来無限であるものを有限にしようとしていることに他ならないわけですから。

意味がないものを、ちゃんと信じられていない

だから、現代を生きる人間は、自分の中のふんわりとした想いをなんとか伝えようとして、必要以上に並べ立てる言葉に過度に依存しています。私も含めて。

そういえば、佐藤初女さんも仰っていた。「今の人は、おしゃべりが多すぎるのよ」と。

さんまさんではないけれど、「生きてるだけで丸儲け」みたいなところから始められたらいいのに。

生きていることに「意味」はない。でも、「意味」の向こうにあるのが存在

「じぶん」という存在を信じられていないことは、「己」の脆弱さに繋がってくる。「己」が脆弱だから、何がしか意味を求めてしまう。本来、そこには意味なんてないのに。

頭でっかちになりがちな私には、往復ビンタで目を覚まさせられたような1時間半でした。

絵本も、とても良いのです。色々な余白があって、言葉と絵が呼応していて

中でも、作中に登場する谷川さんの詩に、息が止まりそうになりました。

参加できて良かった。

20日まではアーカイブが残るそうです。


明日も良い日に。その明日に、どうか生きている「ぼく」がいますように。






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