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森内俊雄「夢のはじまり」(再読本)

 実家に住んでいた頃、最寄りの図書館で「リサイクルブックフェア」というのを年二回ほど開催していた。図書館の除籍本と、一般市民が持ち寄った不要本を無料で貰える。一度に十冊だったか二十冊だったか。コロナ禍の現状では考えられないくらいの過密した館内で、じっくりとは本を選べなかった。二周すると体力がゼロに近付いた。お宝を手に入れられなければそれまで、と割り切って本を漁った。そういう機会に手に入れたものの結局読まなかった本は結構な数あり、実家を出る間際に大方処分した。

 森内俊雄の小説に初めて触れたきっかけの一冊。作者の自選短編集。福武文庫から1987年刊。「初作家・短編集・福武文庫」と、ゲット要素が三つ揃っていたので手に取ったのを覚えている。

 日常から幻想に、幻想からもまた日常に。情欲の果ての過ちから来る罪悪感。何かを拠り所にする男の虚しさ、といったモチーフが繰り返し出てくる。その後私は森内俊雄の小説を読み漁るようになる。絶版が多く、図書館でも古本屋でも見つからないものは、初めてネット通販を使って買ったのを覚えている。

 路端で転っている石ころに気が付いて、暫く眼が離せず、立ち停ってしまう日がある。或る頑なな考えが、ひとつのかたちをして、路で私を待っていたと思えて仕方がない時がある。
 そもそもかたちがあるものは、動物であれ、命なき物であれ、それなりの考え、思想を持っているものだ。石には石の考えがある。石が石であり得るのは、かたちをなさんとするものの強固な意志が働いていればこそである。それがやがて優しくゆるんで解ければ、彼は崩れて植物を培う土となり、泥となる。地の表に転っている限り、たとえ、万年と言わず千億年の眼で見れば、彼、石もまた風化をまぬがれず、人間を養う一塊の柔らかなパンのようなものに過ぎないのかもしれない。それにしても命短い人間には、石は石で、私には鬱屈の頑なさに見える。(『石よみがえる日』冒頭)


『石よみがえる日』を読みながら、息子の集めた小石のことを考える。それぞれ拾った場所で転がっていた時には、特別には見えなかった石が、我が家の子ども用マットの上に並べられた際には特別な輝きを与えられる。遊びの道具として、プラレールの脱線契機になったり、レーシングコースの下に潜り込んで障害物レースの土壌になったりする。
 路端だけではない。ネット上にも石は転がっている。無限に近い数のそれらに自分が触れ合い、輝いて見えるのはごく稀であり、確率的には奇跡に近い。限りなく全量に近いそれらは瞬く間に風化し、自分の知らない所にまで吹き飛ばされてしまう。自身の転がした石も、自分以外の者にとってはそうである。最初から、風化した後の砂を撒いているような感覚に陥る時さえある。

『雨祭』では、自宅の二階に、夫婦ともに知らない女の死体が現れる。どう始末しようかと相談する夫婦だが、夫は死体の女の裸を夜中に弄び、妻は女の腐乱を早める為に暖房を強くする。
 しかし腐りつつある死体が蘇る気配がある。


「何かしら」
 妻が嗄れた声を出した。
「生き返ったな」
「嘘よ」
 頬を叩きかえすような激しさで、妻が答えた。
「じゃ、行って確かめてみようよ」
 紺野はよろめきながら、立ち上った。廊下に出ると、そこに二階から降りてきた腐臭のぬらりとしたカーテンが垂れ下っている。階段を二人して上ってゆく。夫婦のベッドを置いた部屋は、二日続きの雨で窓が閉め切られ、暑いほどの湿気がこもっている。豆電球の乏しい光の下で、蠅が唄をうたいながら舞っている。ぱらぱらと豆撒きのように、蠅が顔に打ち当たる。案外に惨憺たる風景ではなかった。眼が溶けて流れ、泣いているだけの顔だ。
(『雨祭』より)


 買い集められないから図書館で借りて読んだ。返却しなければいけないから、気に入った文章は全て書き写した。そのような読書生活を十年以上続けていたから、多くを借りて多くを写した森内俊雄の文章に、自分は多くの影響を受けている。このようなリズムで、このような流れで、何かの作品に書いたような気もする。

 あの日、リサイクルブックフェアにて
・読んだことのない作家
・長編より短編集
・講談社文芸文庫や福武文庫など、好みのレーベルの本
 といった条件を満たしていたこの本を手に入れていなければ、今の自分の文章は違った形になっていたのかもしれない。森内俊雄は、芥川賞候補には五度なったが受賞はしなかった。その後も決してメジャー路線ではないが、長く書き続けている。


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