見出し画像

小島信夫「抱擁家族」(再読本)

初めて読んだ時の状況はよく覚えているのに、内容のほとんどが記憶にない。主人公の妻がアメリカ人と情事を交わしたことがきっかけで家庭が綻びていく……という導入部はなんとなく記憶にあったが、その後の展開は何気なく淡々と書かれているように見えて、その実全ての人が狂っているようにも見えてくる。

本書ともう一冊、多分牧野信一「父を売る子・心象風景」だったと思う。どちらかが読みかけであった。父方の祖父が亡くなった際に病院で読み終えた。二十年ぐらい前のことだ。
「いつ亡くなってもおかしくありません」という状況の日に、私と父が病院に泊まり込んだ。待ち合い室のようなところで眠ったり、父と交代で祖父の傍らに座り、微かに生きている祖父の隣で読んだりした。朝方に亡くなった祖父の身体と、少しの間二人きりとなった。まだ冷たくなる前の祖父の体に触れると、心臓が動いてなくとも、まだ生きているように思えた。

物書き業をしている主人公の三輪俊介の家には、家族以外の人も入り込む。家政婦のみちよ、米兵のジョージ。妻の時子とジョージの肉体関係をきっかけにして家庭に不協和音が響き始め、後に時子は乳がんにもなり、亡くなってしまう。時子の亡くなった後は息子の友人や俊介の知り合いやらを家に引き入れて、時子のいなくなった空白を埋めようとするが、そんなことではどうにもならない。そもそもの始めの方から、俊介はずっと狂っている。妻の浮気が原因ともいえない。とぼけたような語り口でありながら、外界を見る目つきは最初から異様なものがある。

まだ時子の病気が判明する前、妻の浮気を責め立てて喧嘩をした日のこと。

 俊介は病人が朝を待つように朝を待っていた。
 なぜこういう時に、関心もないのに庭を眺めるのだろう。途方にくれているとき、助けを求めるように、なぜ庭を眺めるのだろう。ヒマラヤ杉、さるすべり、梅の木、さつき、橡、柿などがあった。さるすべりは紅い花をつけていた。
 自分にはなぜか分らぬが所有物に対する情熱が欠けている。そうとすれば時子に「私はあんたのものなんかじゃない」といわせたのは、所有者の情熱を示したことがないくせに、という意味なのだろうか。

読んでいる最中、何度も自分はどうしてこの小説を読んでいるのだろう、という気になった。別に他の本に手を伸ばしても構わないのだ。初めて読んだ時の特殊な状況により、自分にとって特別な本となってはいるが、内容もそうであるのかは疑わしく感じ始めた。晩年の「残光」などに惹かれて読み始めた小島信夫で、むしろ若い頃の作品はそんなに響かなかった気がする、と。最初に読んだ時と話の筋が違うような気すらした。

読み進めるうちに俊介の狂人度合いは増していく。

「私は妻に死なれた男です」
 と歩きながら、すれちがう女たちに呼びかけるように視線をなげかけるうちに、子供を家においてきた母親の時子のような視線にかわっている。
 プラットフォームで、彼は、家にいたときの方が、ずっと自由だったと思った。

家の庭の手入れを俊介が考える場面がある。
それは妻の入院中に通ったデパートで働いている女を、喫茶店に誘って口説くようにしている場面である。

 家の庭の手入れを、近いうちにしなければならない、庭の木は家を建てたとき、動かしたままになっている。枝と枝とが重なりあって、ひょろ長くなったり、枯れたりするかもしれない。それから池の水がそのうちに凍りはじめるだろう。二、三日放っておくと氷は十センチの厚さになる。そうすると、金魚が死ぬし、まわりのコンクリートにもっと大きなひびが入る。すると水が土台にしみこんで、家がくずれるようなことになる。土どめをしないと、冬のうちにいてついてボロボロになった土が落ちる。傾斜にたった家はずり落ちてきて、下の家をつぶさぬとも限らぬ。

妻が死んだと言って、顔見知りに過ぎない自分を呼び出した中年男を、デパートで働く女性はどう見ているのだろう。もちろん二人がくっつくようなことはなく、別れていく。その後も俊介は再婚相手を求めてお見合いをするのだが、当然ろくな結果にはならない。
現代なら俊介の行動には何からの病理名を付けることも可能だろう。文庫本にあたり書かれた著者からの言葉にこういうものがあった。

 いずれにしても、文学作品は、たとえ前に読んだことがあっても、いま読んでみなければ、何もいうことは出来ないようなところがあります。新らしい時代に入ってきたので、それが書かれた時代から自由になり、その作品をとりまいていた雑音から自由になって、私たちは急に目のさめるように思うとしたら、それはたぶん値打ちのある作品ということになる。そういう作品はその発表当時から、そのまま私たちの前にあり、私たちの眼はその活字の上を走っていたのです。その時なりに理解していたのかもしれないが、自分がいい当てる言葉が見つからなかったというようなことなのかもしれません。こうしたことは、作者本人もそれなりに気づかないこともあるので、この意味で、一般に文学作品は生き物で、たえず動いていて、私たちが読むときに生物の本領を発揮して動きはじめ、変化しはじめるのかもしれません。

書かれた小説の読み取り方も、時代によって、読んだ回数によって、変わってくる。
いつの間にか周囲の環境も変わっている。子どもも育っている。学校から帰ってきた娘がすぐに友達の家に遊びに行くと言って出ていった。少し前にはなかったことだ。コロナのせいでもあったし、不登校のためでもあった。
祖父の死から随分が経つ。私だけがあの頃に逆戻りしているようだ。




この記事が参加している募集

#読書感想文

189,330件

入院費用にあてさせていただきます。