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【掌編小説】「喚起装置」

 本日は「写真さん」の出番である。
「写真さん」は私の中に数多いる作家的人格の一人である。
 何かを書こうとすると、どうしても自分の枠から大きく出られず、似たりよったりの発想から同じような作風の小説ばかりになってしまう。
 それを避けるために、「今日は好きな曲の歌詞からインスパイアされた話を」という日には「音楽さん」に任せる。「今日は詩的な話を」という場合には「ポエットさん」に、という具合に。
 それぞれの路線で執筆にある程度目処がついたら、脳内編集者と脳内校正者に渡すので、純粋にそれぞれ「音楽さん」「ポエットさん」の作品になるというわけでもない。

「音楽さん」好きな曲の歌詞から何か思いついて書く人。
「純文さん」純文学風の作品を書く人。
「エンタメさん」エンタメ方向へ向かっていく人。
「写真さん」写真からインスピレーションを得て書く人。
「続編さん」過去作の続編を書く人。

 しかしこうした脳内作家をいくら用意していたところで、最終的に彼らの仕事を奪い取っていくやつがいる。
「本能さん」と呼んでいる。
 本能的に創作活動をする輩で、放っておくと間違いなく暴走する。「音楽さん」「ポエットさん」がそれなりの下地を作っていたら「違う違う、ここはこうで、ドバーッと行って、余計な理由付けなんていらない。何故こうなったかというと、こうなったからです。それでいいから」と、理屈にならない理屈を振りかざしてくる。「エンタメさん」の最大の敵でもある。

「本能さん」任せにすると暴走するのに、「本能さん」を絡ませないと完成に近付かない、というのが悩みの種である。ちなみに「本能さん」は「その悩みの種をそのまま小説にしたらいいじゃない」などと言ってきやがる。いくら小説というのは何でもありで構わないとはいっても、読者どころか作者の存在を軽視していると思わざるを得ない。

 私(「写真さん」)は今回、一枚の写真からインスピレーションを得た。「喚起装置」というオブジェを撮影したスナップ写真だ。調べてみると、望月菊麿という方のアート作品で、同じタイトルのついた作品は多数ある模様だ。
 同タイトルの作品ばかりが展示された美術館、もしくはオブジェが無数に並ぶ公園などを思い浮かべる。そこを歩けば否応もなしに何かの物語が浮かんでくるような場所。現代美術の森とかそういう感じなのだろう。
「違う違う」とまた「本能さん」が口を出してくる。
「全人類にとって創作活動は日常生活の一部となっている。しかしアイデアは誰にも平等に毎日訪れるわけではない。何かが浮かぶきっかけとして、喚起装置と呼ばれるものが産み出された。それはアート作品に限らず、本格的に脳をいじる機械もあり、知恵の輪や立体パズルのような小さなおもちゃでもある。とにかく人の脳に刺激を与えるものの総称として、喚起装置はどの施設にも設置されている。同じ響きである、空調設備における換気装置と同じように。人体にとって換気が絶対に必要であるように、『喚起』もまた全人類に必要とされるようになった、という世界観で書けばいいだけじゃないか」

 図書館や駅に見られるようなオブジェを、全ての建物に義務付けられるような未来を思い浮かべる。今でもライオンズマンションの前を通れば、ライオンの像が設置されているのが目に入る。見慣れた景色の中にあるものからは、今更何も喚起はされないが、それらがあらゆる場所に設置されていれば、またある程度の期間をおいて次々と違うものに置き換わっていけば、話は違うかもしれない。

 季節ごとに景色が移ろうように、作品も入れ替わる。喚起装置職人達の仕事も尽きることはない。
 日々想うことも変わり、新しいアイデアで創作が行われる。
「本能さん」の言うことはいつも身勝手で実現可能なものはほとんどないが、結局他の人の意見を無視して無理やり通してしまう。

 私(「写真さん」)が今回、「喚起装置」の写真を見て思い浮かべた話はこうだ。

 芸術作品の集合体の中で、永遠に書くことのない小説のアイデアを考え続ける人物がいる。彼の頭の中には素晴らしいアイデアが無数に浮かんでいる。しかし決して書き出そうとはしない。書き出した瞬間に、「素晴らしいアイデア」は「素晴らしかったアイデア」と過去形に変わってしまうことを知っているからだ。彼は書かないことで完全な傑作をものにし続ける。彼を囲む芸術作品の集合体は、実は彼のような人物を内包して初めて完成する、という目的で最初から作られていた。鑑賞者は自分なりの「永遠に完成することのない傑作」に思いを馳せることを義務付けられる。

 閉じた話だ。書かない言い訳を長々しくしているだけのようにも見える。
 結局、「喚起装置」について考えたエッセイのようなものを書いている。
「違うんだよ」と「本能さん」が口を出してくる。
「君達(「音楽さん」「ポエットさん」「写真さん」他多数の作家的人格)の存在そのものが、私にとっての喚起装置なんだ」
 ああそういうことか、と合点がいく。
「でもあなたの比率が多い作品ほど、評価されないという傾向があるんですが」
「そこはお前らがどうにかしろ」無責任極まりない。
 
 小説は、本能のままに書き殴ればどうにかなる、というものではない。
 しかし本能のままに書き殴った部分もなければ、物足りないものになってしまう。
 明日はあまり出番のない「続編さん」に登場してもらおうか。
 どのみちあいつに乗っ取られてしまうのは目に見えている。
「これ続編じゃなくて、全く新しい物語として書いた方が面白くなるんじゃない?」とか言って。
 きっかけを与えなければ動き出さないずぼらな奴の癖に、動き出したら止まらない。
 喚起装置なのは我々だけではない。この世の全ての物、人、または、まだどこにもありはしないものが、彼の喚起装置になり得る。
「本能さん」のような輩を前にすれば、書き手の本体たる自分自身など、アウトプット用のタイピング機械としか思えなくなる。
「だからそのことを書けば」
「はいはい分かりました」


(了)

喚起元:毎度毎度の稲垣純也さんのスナップより。


入院費用にあてさせていただきます。