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大江健三郎「河馬に噛まれる」(再読本)

 通常の読書とは別に、日々少しずつ、十代半ば~二十代半ばごろにどっぷり浸かった作家・作品を読み返している。これまでnoteに投稿した分でいえば、以下の記事がそれにあたる。今後は末尾に「(再読本)」とつけて、その他と区別してみる。

日野啓三「夢の島」(再読本)


チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」(再読本)


 実家暮らしの頃、私の部屋は古本屋の店内と変わらないほどの本密度であり、積もった埃で定期的に喉を痛めていた。結婚時に断捨離した結果、本棚二つとカラーボックス二つに本・漫画・画集などは収まったが、取捨選択して残した作品を読み直す機会はほとんどなかった。読書習慣再開の折に、読み直しから始めてみたが、長続きはせず、新規の本に手を出すようになった。読書ペースが安定してきた今、痩せた心に肉を被せていくように、過去に愛読した作品を読んでいる。

 大江健三郎の小説はほとんど読んでいるが、「河馬に噛まれる」は随分後の方になって読んだ。行きつけの図書館で「動物学」の棚に誤って置かれていたのだ。ひょっとしたら何年も。図書館で単行本を借りて読み、後に文春文庫版を古本屋で購入したことが、解説部分にだけ貼られた付箋から読み取れる。本文中には、私がするはずのない、シャーペンによる書き込みがあった。短編連作中最初の一編『河馬に噛まれる』に大量の傍線が引いてあるが、すぐに先細りになり、前任者は途中で読むのを止めたのかと思ったら、終盤突然手書き文字が復活する。古本の醍醐味であるが、今回読み直した私の貼った付箋部分とは一度も重ならなかった。人によって読書で感じ入るところはそれぞれ違うということだ。

 ウガンダで河馬に噛まれた経験のある日本人の新聞記事に触れたことから、作者をモデルとした「僕」は、浅間山荘事件に関わる一人の人物を思い出す。彼の母親とは学生時代、同級生ぐるみで付き合いがあり、恩義がありながらも返せずにいたという苦い思い出があった。偶然により、彼女の息子の獄中からの文通相手として、作家として大成している「僕」が選ばれ、「河馬の勇士」と呼ばれる彼とのやり取りが始まる。
 その過去を元にして、現在の「河馬の勇士」及び彼に関わる人達とのやり取りが、連作の主眼とはなっているが、そこに障害のある息子や、各書物からの引用、「僕」の故郷の思い出などが重なる。
 
 大江健三郎の長年の読者にとっては慣れた設定だが、何も知らずに触れてしまうと、どうして連作中の一編『四万年のタチアオイ』では女性だった、「僕」の妹のような存在「タカチャン」が、別の一編『死に先立つ不幸について』では、若い「僕」と性的放埒な生活を共にする「タケチャン」に変換されているのか、不思議に思うことだろう。改めて読み直してみると、大江健三郎の作品は初見の読者には敷居が高いと感じる。作品内に出てくる出来事だけでなく、作者が読み込んでいる作品や、作家の過去の小説などが、縦横無尽に張り巡らされる。時折爆弾みたいに大きな下ネタも挟んでくる。

 結婚前から使っていた、古い寝台を処分しようとしたら、よれよれのシーツに包まれた黒い人糞が出てくるシーン。新妻の知らない、独身時代の泥酔の生み出した産物を、新種の生物でも発見したかのように高いテンションで妻に説明する作家。

 ――思い出した、思い出した! ひどい酔っぱらい方の上に睡眠薬で足をとられて、およそトイレに行ける状態じゃないのでね、シーツの上に脱糞して、寝台の下に始末したつもりでいたわけだ。無闇に苦しんで糞をしたのを覚えているよ。偶然訪ねてきた友達に発見されて、最悪の状況で病院に運ばれたが、失禁はしていなかったと、医者に誉めてもらったけれど。二週間後に結婚をひかえて、苦しい糞をシーツにひねりだすほどの、ひどい酔っぱらい方をしたとはねえ。
 若かった僕が、脱糞の動かぬ証拠を妻の眼に曝して、恥かしさに逆上していたのでも、あるいはあっただろう。僕の陽気すぎるしゃべりように、妻は娘むすめした細いうなじをたれ、やはりふざけた勢いのまま覗きこむと、ウブ毛が麦の穂の色に光っている頬に涙がつたわっていた。……(『サンタクルスの「広島週間」』より)


 作中の作家イコール百パーセント大江健三郎というわけではない。私小説風に書いていることが全て事実ならば、事件への巻き込まれ回数が尋常ではないことになる。

 独身の頃に読んだ大江作品と、結婚し、生まれた子どもが、年齢を重ねるにつれ発達障害であると明らかになってから読み直したのとでは、感じ方が違っている。私がよくやる、子どもとの関わり・読書経験・引用、といった書き方は、意識していなかったが、大江作品をいくらか踏襲しているところもあったようだ。自分なりの作風、文体を手に入れたつもりであったのに。かつては影響を受けやすかった作家の本を読んでも、今では文章を書くとなれば容易にその影響下からは抜け出せている、そう思っていたのに。根本的な姿勢は、最も多く読んできた作家の手のひらで粘土のように丸めて作られていたものだった。

 私たちはみんな、自分の心の内側まで踏みこまれ、多かれ少なかれあなたのstoryをつうじて、その様子を公開されたのです。お母様がいわれた言葉として、書いていられますね。「あなたはヒカリさんの気持を考えて、小説を書いておられますのかな? このようなことは書かれたくないと、自分からはいえぬのじゃから、もしもヒカリさんが本を読むならば、不都合なことが沢山書かれておるのではなかろうか? 自分の子供のことならばなにを書いても許されると思うのなら、ヒカリさんのようなお子の場合、それはちがうのではないじゃろうか?」お母様の異議申し立てに、私も声をあわせます! 断固支持!!
(『生の連鎖に働く河馬』より)

 近頃、子どもたちのことを書くことに少し躊躇う時がある。メインの「書く対象」であるのに。将来子どもたちが私の書いた文章を読んでどう思うのか。
「都合のいい部分だけ抜き出しているじゃないか」とか
「自分の父親としての無能ぶりは書いていないじゃないか」とか言われやしないか。
 書くのに具合がいいエピソードだけを切り取って、常にほのぼの生活みたいに見せる、というやり方はフェアではないかもしれない。

 作中、作家の息子がヘッドフォンでお気に入りのクラシックを繰り返し聴く場面がある。
 うちでは、レッド・ツェッペリン「移民の歌」をリピート再生するのに合わせて身体を揺らし、適当な歌詞で歌う息子がいる。娘と揃えば掛け合いが始まる。
 いつの間にいろいろ重なっていたのだろう。自ずからなぞっていったわけではないのに。

 文春文庫版で読んだが、後に出た講談社文庫版では『「浅間山荘」のトリックスター』と『サンタクルスの「広島週間」』は収録されていない。


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