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津村記久子「これからお祈りにいきます」

息子がリピートで歌う「おばけなんてないさ」に合わせて、読むものも意識して超自然的なものを扱う本を選んでみた。ちなみに私のそういったものに対する姿勢は、娘との会話に現れている

「パパ、おばけが本当に出てきたらどうする?」
「あ、ども、こんばんは、かな」
「怖くないの?」
「怖いおばけだったら怖いだろうけど、そうでなかったら怖くないんじゃない?」

犬の相手と同じ感覚だ。

「サイガサマのウィッカーマン」「バイアブランカの地層と少女」の二編が収められている。本のタイトルが短編の題名ではない、珍しいパターンだ。
「ウィッカーマン」とは、ドルイド教でで使われた、木の枝で作られた巨人のことだ。その中に動物や犯罪者を閉じ込めて、儀式の際に焼き殺したという。
「サイガサマのウィッカーマン」の舞台である雑賀町で作られるウィッカーマンには、様々な物で作られた人体の一部の模型が収められる。「サイガサマ」という土着の神様への捧げものだ。


 シゲルの調べによると、サイガサマが実在するにしても、得意なものなどはおそらくない。仮に、何か神様として大きなことをやりたいと思っていたとしても、それだけの力を持っていないようなのだった。ただ、信心のある人の噂によると、サイガサマは、人間の体にとても興味があって、本気で何かを右から左へ動かす時は、願をかけた者の体の何かを取っていく。人間の体の一部から力を得て、その願いを叶えるという、ほとほと下等な神様なのだ。祈願する人は、どこを捧げるかは指定できないけれども、どこを取られたくないかは申し出られる。申請方法は、それを細工物の形にして、冬至の祭の日に捧げられる人形に編んだ籠の中に放り込むことである。だから、この町の小学生たちは、図工の授業の一環として人体の一部を作る。大抵は、心臓や脳だが、手の早い生徒は胃や眼球も作るし、野球が好きな者は肘を作るし、「思い出」などと言って、母親から習ったスクラップブッキングを披露するませた女子もいた。


神様ながらあまり出来ない子扱いされているサイガサマは、昔は願いを叶えた人間の心臓を持っていって死なせたりしたこともあって、このような儀式が始まった。実在するか疑わしいと言われながらも、その恩恵に実際にあずかる人は多く、その代わりに体の何かを失った人も多数いる。迷信のようでいて、実在する融通の効かない役人のようでもある。

そんな現実的非実在性土着信仰がリアルに生活に根ざす雑賀町を舞台にして、青春ドラマが描かれる。読んでいるうちにこのような風習は実際にあるように思えてくる。諸星大二郎の絵で漫画化されても違和感がない。

家に引きこもり、粘土細工で供え物のオブジェを作り続けるシゲルの弟、家庭への興味を無くして外でバンド活動やら女を作っている父親、パートに出ようという話をシゲルにしようとしてなかなか出来ない母親。そういった身近な家族と同列のようにサイガサマは描かれる。小学校時代に自由研究の対象としサイガサマを選び、調べてレポートを書き、表彰もされた経験のあるシゲルは、それでいながらサイガサマとは距離を置いている。町の伝統行事や家庭内ごたごたより、自分のことで精一杯なのだ。それなのにシゲルが関わる全てのことにサイガサマの影が被さってくる。

自分にはそのような体験がなく、土着的な神様など身近にいなくても、こういうことってあるよね、そうなんだシゲルの気持ちはよく分かる、と思えてくる。このような話は荒唐無稽などではない。ほんの一ミリ隣の世界線ではこのようなことは日常であるかもしれない。全てのフィクションは「あり得たかもしれない日常」を書いているとも言える。

もし自分が「これだけは持っていってもらっては困る人体の一部の模型」を作るとしたらどれにするか。指か、耳。
最終的に、耳。



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