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チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」中川五郎訳 ロバート・クラム画(再読本)

多分三度目。
日々少しずつ読む「あの頃に耽溺した作家・作品の読み返し」のうちの一冊。
この後深沢七郎「言わなければよかったのに日記」に行こうとしたが、重なりすぎる気がしてやめた。

五十年付き合ったタイプライターと別れを告げ、マッキントッシュを手に入れたブコウスキーの、晩年に近い頃の日記。日記といっても毎日書かれたものではない。散発的に書かれている分、「書こうという気持ちが強くなった時に書いた」感が強く溢れている。創作のこと。競馬のこと。作家のこと。熱心なファンや迷惑なファンや。

 ラジオからはマーラーが流れている。彼は大胆な賭けに出ながらも、いともやすやすと音を滑らせる。マーラーなしではいられない時がある。彼は延々とパワーを盛り上げていってうっとりとさせてくれる。ありがとう、マーラー、わたしはあなたに借りがある。そしてわたしには決して返せそうもない。

執筆時には齢七十を超えていたブコウスキーだが、マッキントッシュを手に入れてから執筆スピードは上がり、タイプライター時代は過去のものとして、新しい道具をありがたがっている。ヘンリー・ミラーが蘇ってくる探偵小説「パルプ」執筆期にもあたる。

老齢まで書き続けている、元は貧しい労働者だった飲んだくれ詩人・小説家、という、無頼派のイメージの強いブコウスキーだが、住んでいる家にはプールがあるし、毎日競馬に出かけているし、作品はハリウッドで映画化もされている。現状の似た境遇の作家を想像すると、ちょっと感覚が食い違う。

 わたしは恐らくこの二年間で、これまでの人生のどの時期よりも、より多く、よりいいものを書いている。五十年以上も書き続けて、ようやく真に書いているという状態まであと一歩というところに辿り着けたかのようだ。それにもかかわらず、この二か月というもの、わたしは疲れを感じ始めている。この疲れはだいたいが肉体的なものだが、精神的な疲れというものも少しはある。あとは衰退していくばかりということに違いない。考えるだけでぞっとしてしまうことは言うまでもない。理想を言えば、徐々に衰えていくのではなく、死の瞬間まで書き続けたい。

92年6月23日の日記より。亡くなるのは94年。

父方の祖父の日記を読んだことがある。
亡くなってから出てきたもので、痴呆症になる前、七十代ごろのものだった。
本の感想や祖母との性交記録などもあったが、年が進むに連れ、国への不平不満ばかりになって面白くなくなった。
読書家ではあったが文筆家というわけではなかった祖父にとって、日記は他者に読まれることを意識して書くものでもなかったのだろう。
ブコウスキーの日記は、彼の小説と大差ないともいえる。
死ぬまで書き続けた結果、彼の文章は生き続けている。



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