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津村記久子「まともな家の子供はいない」

 ダイソーで買った200円の書見台が結構役に立っている。タブレット立てに使っている別の物は、挟む部分が狭いので本に跡がつく。こちらは構造が違うので本に優しい作りになっている。文庫本だとちょっと安定しなさそうだが、単行本にはぴったりだ。

 空いた手で筋トレでもと思っていたが、すぐにやらなくなった。あえて両手には何もさせずに、全神経を文章だけに注ぐと、没入感が格段に上がった。本の中に入り込むように読める。

 電子書籍の場合、読みやすいようにフォントを大きくしている分、ページめくりが多くなるため、常にタッチペンや指を構えている。完全両手フリー読書の機会は案外あまりなかったようだ。

 手をフリーにする、というのは、思考をしやすくする効能がある。何かに触れていると、集中力がそちらに割かれる。通勤時も私は手がフリーになるよう、肩掛けカバンやリュックサックしか使用しなかった。手を開けて思考をしやすくすることで、いろんな着想が、歩いている間に浮かんできた。雨の日に傘を持つと思考力は半減した。

 没入した結果、恐ろしいくらいの臨場感で津村記久子作品が迫ってきた。

 少年少女たちから見た大人の世界の事情、どこの家族も決してまともなものはない。「家族って、いつまでもどうしたらいいかわからないんだよねえ」と登場人物がぼやく。昔なら少年少女の視点で読んだ物語も、今では、彼らに残酷に描写される大人の側に今の自分はいる。自分の子供達が今の私を描写するとしたら、と恐ろしいことを考える。主人公セキコの父親は作中無職であるから余計に身に沁みる。


 昨日あんなこっぱずかしいことを言われておいて、よく話しかけてくるものだと、顔を拭きながら思う。しかし、あんなことを言われてもなんとも思わない人だから、働かない夫と子供にわかる所でセックスができるのか、と思い直し、なるほどと膝を打った。ナガヨシの家に向かいながら、そうか、あんなことが平気な人だから、あの父親とも一緒に居られるんだ、そうかそうか、と母親に関する謎がどんどん解けていくような気がして、少しだけ頭の中の霧が晴れたような気がした。考えてみると単純なことだ。何を自分は悩んでいたのか。

 自分はそんな男の精子だったのか、と思い至ると、ハンドルを握る力が抜けて気絶しそうになる。そんな精子だった自分が悪いのか。自転車を停車して、タオルで汗を拭う。あんな両親だとわかっていたら、わたしだって生まれてこなかった。どうして精子は、着床する子宮を選べないのか、そもそも、湧き出る陰嚢を選べないのか。生まれたらそれでいいのか? 着床できたらそれでいいのか? その後の災難はどうでもいいのか? 浅ましい。本能なんて。


 そこまで書くのか、という勢いでどんどん書かれる。「こういう考えは思うだけで口には出さないだろう」というような台詞を、口に出して、家族を驚愕させる場面がいくつかある。俯いて黙っていても何の解決にもなりはしない。その時々の感情は、その時々に表現しなければ、誰にも伝わりはしない。自分自身にさえも。あるnoterさんの記事を思い出した。


 単行本発行年が2011年であるから、その時点で私は大人であったわけだ。少年の頃にこの作品に出会い、大人になった今再読、という形を取れていたら、更に深く楽しめただろう。初読の時点で既に、あちこち刺さりすぎて苦しくなるほどだったから。

 そばはすするが、紅白を観るわけでも、鐘を撞きに行くわけでもない。我が家を「まともな家族」とは思っていないが、他の家族も大なり小なりまともではない部分があるだろう。「まとも」への抵抗はもう止めている。



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