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オレンジ色に照らされて

今朝、私はムシャクシャした気持ちを抱えたまま家を出ました。

というのも、私が妻に朝の家事を押し付けてしまったことが原因で、軽い口喧嘩になってしまったのです。

普段であれば、そんなことで喧嘩になるようなことはないのですが、今朝は私も妻も時間に余裕がなくて、いつもよりも少しだけ心が狭くなってしまっていたのでした。

こういう日はだいたいにおいて、なにをやってもうまくいきません。

私は妻に黙って家を出ると、すぐ目の前にあるエレベーターのボタンを押しましたが、いつもならすぐに来てくれるはずのエレベーターも、今日はなかなかやって来てはくれませんでした。

6階建てのマンションのエレベーターなんて、すぐに来そうなものなのですが、何故か今日は6階に止まったまま、私が待つ4階へと移動してくる気配は微塵も感じられませんでした。

私はエレベーターに乗るのを諦めて、その脇にある階段を使って下まで降りることにしました。

階段の踊り場からはエレベーターの文字盤が見えるので、私は階を一つ下るごとにそれをチェックしていました。

3階を通り過ぎる時点では、まだエレベーターは6階に止まっていたのですが、2階を通り過ぎる時には既に動き始めていて、私がさっきまで待っていた4階に到着しようとしているところでした。

「なんだよ、あとちょっと待ってれば乗れたじゃん」

私はなんだかエレベーターに馬鹿にされたような気がして、家を出た時よりもさらにムシャクシャした気持ちになっていました。

マンションを出ると私は駅に向かいました。

梅雨入りを間近に控えた空は雲が多く、湿った空気が体にまとわりついてきます。

私はいつも妻に指摘されるくらい歩くのが遅いのですが、その日は時間に余裕がないうえに、イライラしていた事もあって、知らず知らずのうちに早足になってしまっていました。

ただ神様は意地悪なもので、急いでいる日やイライラしている日に限って信号を赤にしたがります。

案の定私は信号という信号に引っかかり、早く青になれと思えば思うほど、信号機はたっぷりと時間を使って赤信号を楽しんでいるように見えました。

なんとか駅まで辿り着くと、普段よりも早い時間帯の駅は想像以上に混雑していました。

私は定期券を使い改札を抜け、階段を上がりプラットフォームへ出ると、そこには電車を待つ人の群れができていました。

私は電車を降りた後、バスに乗り換えなければいけなかったので、スムーズに乗り換えができるように、降車駅の出口付近の車両の位置まで移動することにしました。

しかし体育会系の学生が背負う大きなリュックサックや、のけぞるようにしてベンチに座っている会社員風の男の長い足が、私をなかなか前へと進ませてはくれませんでした。

私はスマートフォンを片手に自分の世界に没入している人の群をかき分けて、ホームの真ん中あたりまで移動すると、すぐに次の電車がやってきました。

電車が停止し扉が開くと、中からは高圧洗浄のように人が吹き出してきて、それが収まると今度はバキューム掃除機のように人が吸い込まれていきました。私もその流れに飲み込まれるようにして電車に吸い込まれていきます。

電車の扉が閉まってしまうと、車内の空気はやけに薄く感じました。感染予防のため窓が少し空いているにもかかわらず、マスクごしに吸い込む空気はどことなく使い古されたような匂いがしました。

「どうして今日はこんなに神経が過敏になっているのだろう」

私は一度冷静になろうと思い、カバンから読みかけの本を取り出してみたのですが、まったくと言ってよいほど本の内容は頭に入ってきません。

私は早々に本を読むのを諦めて、吊革につかまったまま、ただひたすらに流れていく窓の外の景色を眺めていました。

大型ショッピングセンター、マンモスマンション、トンネル、住宅街、河川敷、商店街、立体駐車場。

全てはいつもと変わらずそこにありました。

私がイライラしていようと、そうでなかろうと、世の中はそんなことで変わる程やわではないのです。

目的の駅に到着すると、私は吐き出されるようにして電車を降り、いくつもの階段を上ったり降りたりしながらバスターミナルへと向かいます。

そして、何台も止まっているバスのうちの一台に乗り込むと、そこにはさっきまでの混雑が嘘のような、間延びしたような空気が流れていました。

ポツリポツリと座席に座っている人達からは、時間に追われているような雰囲気はなく、開け放たれたドアから入ってくるビル風は、絶え間なく車内の空気を入れ替えていました。

私は後ろから2番目の座席に腰を下ろすと、思わず「ふうーっ」と、深く長く息を吐きだしました。私はどうやらずいぶん長い間、体に力が入ったままになっていたようです。

5分ほどすると、バスは半分以上の座席を空けたまま出発しました。

心地良いバスの揺れに身を任せていると、徐々に平常心が戻ってくるのが感じられます。

私は朝の口喧嘩を思い返しながら、あんなにムキになることじゃなかったなと後悔するのと同時に、もう何年も前にした夫婦喧嘩のことを思い出していました。

その時の喧嘩はオレンジの切り方が原因でした。

私が妻に頼まれて切ったオレンジの形が、妻のイメージしていた形とは異なっていたのです。

私はその喧嘩の時に言われた、
「料理人のくせにどうしてオレンジも満足に切れないわけ」
というセリフを思い出して、一人マスクの中で笑ってしまいました。

「あの瞬間は本気で腹が立ったけど、今思えば結構笑えるな」

夫婦喧嘩なんていつもそんなもんです。

ちょっとした余裕の無さが、ちょっとした言葉に引っかかって、ちょっとだけ相手にぶつけたくなってしまうのです。

いつのまにかムシャクシャした気持ちから解放されていた私は、雲の隙間から差し込む日差しに照らされて、ほっぺたがほんの少しだけオレンジ色に染まっていくのでした。

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