時をかけるビール〜いつまでも変わらぬ味を〜
今から7、8年まえ、私は休日のたびに日帰り温泉に行っていた時期があります。
その温泉施設は当時住んでいた家から自転車で20分程の距離にありました。
その頃私はラジオにハマっていたので、お気に入りの番組のポッドキャストを入れたiPodと、読みかけの本とタオルを持参して行っていました。
まずはゆっくりと一時間ほど、源泉掛け流しの露天風呂に浸かります。その後、施設内にあるお食事処の座敷に移動して、温泉上がりのビールを飲むのです。
「くうぅぅ、やっぱり温泉上がりのビールは最高だなぁ」
と、頬を緩ませながらラジオを聞いたり、本を読んだりするのがその当時の私の休日の楽しみ方でした。
ちなみにその頃よく聞いていたのは、「安住紳一郎の日曜天国」と「爆笑カーボーイ」という番組です。
そんな事を思い出していたら、なんだか急に温泉に入りたくなってきたので、数年前に近所にできた日帰り温泉施設に初めて行ってみることにしました。
インターネットで調べてみると、駅から無料のシャトルバスも出ているようでしたが、歩いても行けそうな距離だったので散歩ついでに歩いて行くことにしました。
今となっては全く面影がないのですが、私が今住んでいる地域はもともと温泉街として栄えていた地域で、今でも良質で真っ黒な温泉が湧いているのです。
家から歩いて約30分、道に迷うこともなく無事に温泉施設に到着しました。
入り口で「検温とアルコール消毒」をしてから受付に向かいます。
受付で「共有スペースでは必ずマスクをしてください」という説明を受け、館内着とタオルのセットと、バーコードが付いた脱衣所のロッカーの鍵を受け取って受付を済ませました。
さっそく大浴場がある2階に上がり、男湯の暖簾をくぐるとシンプルで清潔感のある脱衣所が現れました。受付けでもらった鍵の番号のロッカーを探し、服を脱ぎ、フェイスタオルを一枚もって浴場に向かいます。
浴場の入り口には「黙浴にご協力ください」と書かれた張り紙がしてありました。
私は素早く頭と体を洗い、源泉掛け流しの露天岩風呂に直行します。
ブラックコーヒーのように真っ黒な温泉に肩まで浸かると、「ああぁぁぁ」という声が自然に漏れてしまいます。そのまましばらく肩まで浸かっていると、徐々に体の緊張がほぐれていくのが感じられました。
お湯の温度は40.6℃と、ゆっくり入浴するにはちょうど良い湯加減です。
初冬の外気に冷やされて、真っ黒い温泉の水面からは白い湯気がゆらゆらと立ち上っていました。
肩まで浸かっているのがだんだん熱くなってきたので、浅いところに腰掛け半身浴をしながら周りを見回すと、浴場内がとても静かなことに気が付きました。
平日の昼間で一人客が多かったこともあるかもしれませんが、みんなやはり心のどこかで黙浴を意識していたのかもしれません。
聞こえてくるのはチョロチョロと流れる温泉の音だけで、たまに人が温泉から出たり入ったりするときに鳴るバシャバシャという音は、余計に静けさを強調させていました。
私はのぼせる前に温泉から上がり、一階にあるお食事処にビールを飲みに行くことにしました。
館内着に着替えて髪を乾かし、階段を使って一階に移動します。
お食事処の入り口にあるタッチパネルを操作して整理券を受け取ると、すぐに番号が呼ばれ席に案内されました。
「ご注文はタッチパネルでお願いします」とのことでしたので、私はテーブルに設置されたタッチパネルを操作して、瓶ビールと、グラス1つを選択し、ロッカーの鍵に付いていたバーコードを読み込ませて注文を済ませました。
料理人という仕事柄なのか、私はタッチパネルで食事や飲み物を注文することに対して、いつも少しだけ寂しさを感じてしまいます。
しばらくすると、瓶ビールとビールグラスがお盆に乗せられて運ばれてきました。
好きな銘柄のビールじゃなかったのが少し残念でしたが、さっそくグラスに並々注ぎ、グビグビッと一気に飲み干しました。
「くうぅぅ、やっぱり温泉上がりのビールは最高だなぁ」
と心の中で感嘆の声を漏らします。
そして「たとえ時代が移り変わっても、この味だけはいつまでも変わらないでいて欲しいなぁ」と、頬を緩ませながら2杯目のビールを注ぐのでした。
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