奇妙な果実(改)
イチジクを呪うイエスの挿話は普通に読むと全く納得できないものだ。シュタイナーはこれを弟子たちの象徴的=靈視的経験として読み説いている(バーゼル、1912年9月22日)。イチジクの木→仏陀が悟りを得た菩提樹、イチジクの実→すでに過ぎ去った時代の靈智(仏陀が得た認識)、飢え→靈智への飢渇。この靈智が新たにされた唯一無二の事象が「ゴルゴタの秘義」であったというのである。
靈視的~象徴的、という混濁した視界の領域(それは夢の領域に限りなく近いだろう)に言葉(→創造)の謎も位置している気がする。シュタイナーの言う「ゴルゴタの秘儀」の意味も自分としては今のところ象徴的にとらえることになる(ほかにない)。そしてそれがすでに自分の目の前に与えられているようにも思っている。今の自分にとっての意味しかないものかもしれないが。
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それは全体というよりも宇宙を貫く痛い一本の杭のようなものだが、自分自身がその痛みを通じてしか知ることのできない靈智があり、その痛みから遠ざかれば遠ざかるほど「キリスト」からも遠ざかることになる。
靈と肉のパラドクス。
唐突にビリー・ホリデイの「奇妙な果実」が地に落ちて、新しい智慧の木を芽吹かせる時代がすでに始まっている気がしてきた。
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