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本物の精神と偽物の精神①

 音楽上達論と称して上達の条件、上達の段階、上達の心得を展開している私ですが、今回は心というものが上達において以下に大事かという事を、本物の超一流の精神の持ち主である井上尚也選手と、フェイク野郎と名高い皇治さん(以下工事と呼称します)の両極端な例で説明してみたいと思います。

 私は井上尚也選手を心から尊敬しており、正にボクシング界における宮本武蔵の様だと思っています。他にもボクシング界には心技体に優れた選手が揃っていてボクシング界は他分野と違って偽物が少ない世界だなというのが私の認識です。
 その点、音楽を専門としている私としては恥ずかしい気持ちでいっぱいです。

 さて、今回のテーマは精神です。人間にとって精神というものがいかに大事かという事を説明したいと思います。

何が決定的に違うのか

 井上尚弥選手は圧倒的な強さでボクシング四団体統一を成し遂げ、今だにその強さの全貌は明らかになっていません。まさにこれからピークを迎えようとしているように思えます。
 片やフェイクの工事の方はというと話題性だけはいっちょまえで、肝心の試合内容の方はスッキリする試合は少なく、それでいて口だけは達者で、正に有限不実行という有様です。
 単純にアスリートとしてみても超一流と三流くらいの差があります。
 本来なら比較する方がおかしいくらいの差があるのですが、この両者の差はどこから来たのかというと、私は精神が由来だと思います。
 何故なら流石のフェイク工事と言えども、最低限の練習やトレーニングはやってるはずで、下手をすると人一倍練習しているかもしれません。それなのに結果は散々なものとなっています。
 この違いこそ正しく精神のなせる業であり、練習量とか根性とかの違いではないと思うのです。むしろ大事なのは練習の量よりも質やその中身であり、それを決めるのも精神だからです。

精神を創り上げるのも精神である

 そもそも精神というのは人間性の最たるものであり、精神も創り上げるものである以上、井上選手は幼少期から本物を志向し、本物として創り上げたから本物の精神を把持しているのであり、あの凄まじい試合の数々は井上選手の強靭な精神あってのものだと思います。

 対して工事の方はというと、最初は本物志向だったかもしれませんが、いつしか偽物へと転落し、そのまま偽物の精神を創り上げ、偽物の精神として完成してしまった。
 結果として彼はその言葉までもが価値を失い、嘘で塗り固めたようなピエロに堕ちてしまったのでした。それで平気なところがまさに偽物の精神、ここに極まったというところでしょうか?

 以上の例からも解る通り、精神も技術と同様創り上げるもので、技術を創るのも精神ならば、精神を創るのもまた精神であるという事です。

終わりに

 如何だったでしょうか?人間にとって精神という物がどれほど大事か、おわかりになりましたでしょうか?
 人間の心とは常に変化し続けるものなので、本物が偽物に、偽物が本物に変わってしまうことも簡単に起こりうるもの、そして精神というものは自分で創り上げるしかないものなので、自分の責任で創り上げるしかないものなのです。

 今回は上達における精神の重要性が本題でしたので具体的なところには触れませんでした。
 井上選手の実績や人柄、その精神性などはネットで調べればすぐに出てきますので、興味のある方は調べてみる事をおすすめします。
 対してフェイク野郎の方はスルーで良いと思います。酷いものを見せられるだけですから…

 もう少しこのテーマを掘り下げたいので、次回は本物と偽物でどれほど違ってしまうのか、本人のインタビューをもとに展開していく予定です。


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