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「今日もコピーが書けません」第5話:ガンジス川のデルタ株

2022年、それは、
・世界的にコロナのパンデミックが収束しつつある年
・ロシアのウクライナ侵攻
・Ado「新時代」発売
・「トップガン・マーヴェリック」公開
の年であり、世界に襲いかかった災厄がよくも悪くも日常になってしまうほど、悲劇的な出来事が多かった年だった。

「薬は飲まない方がいい。ココナッツで熱は下がるよ」流暢に日本語を駆使するインド人のガイドDはそう言って、ガンジス川沿いのストリートフードをいくつか買ってきてくれた。ビニール袋に入ったインドカレー、ライス、スパイスで漬けたたまねぎ、それにココナッツジュースである。

「ありがとうD、でもやっぱり薬が欲しい」Pはそう言って立ち上がり、迷宮のような路地をふらふらと歩いて個人商店の薬局へ向かう。道を曲がるとそこには牛のお尻があり、なんとか横をすり抜けて歩く。バラナシでもデリーでも、この国には、どこにだって牛がいて、犬がいて、猿がいる。その糞尿を片付ける自治や政府のシステムはなく、清潔と静寂は、この国においては贅沢品だった。

2020年から世界を襲ったコロナ・パンデミックによって、世界中の産業は一気にデジタルシフトが進んだ。広告業界もその例に漏れない。メタバースでのバーチャルイベントや、デジタルを主体とした広告と流通の関係、インフルエンサーの本格的な広告起用、などなど、昔ながらのメディアを扱う中堅広告代理店から、WEB系の広告代理店に人材が多く流れていた。

Pは、中堅広告代理店から独立した後、WEB系の代理店に再就職してみたりしたが、パンデミックによるリモートワークを2年続けたところで、「会社にいる意味ねえな」と思い、ずっと家で働くことにも飽きて、再び独立。世界一周の旅へと旅立つことにした。

そして、世界一周の後半にたどり着いたインドで、高熱に悩まされている、というわけである。薬局の親父が出してくれた薬は、極彩色の赤と黄色のカプセルだった。そのどぎつい色が病原菌を退治してくれそうであり、心強く感じた。だが、宿に戻り、安静にしていても、一向に体調は回復しなかった。宿に住んでいるガイドであるDも心配し、「一度日本に帰ったら?」と言ってくれたりもした。

「ありがとう、D。だけど、もう次のチケットもとっているし、熱はあるけど動けないわけじゃない。とりあえず、ネパールへ向かうよ。」こうして、バラナシからカトマンズへと飛び、AirBnBで探した民家の離れにチェックインした。覚えているのはそこまでだった。

右腕に刺さっているのは点滴のようだ。日本製のO製薬の点滴に、どこかほっとする。どうやら、宿で倒れてしまったようだ。ここはネパールの病院とのことで、とても清潔で、部屋も個室で広い。「Excuse me?」「あ、まだ動かないでください」なんと日本語の話せる看護師がいた。「ここは、大使館御用達の病院です。多言語対応しているので、ご安心ください。」見渡すと、確かにネパール風というより、西欧風な建物のつくりをしている。直線の多い無機質で清潔な病院だが、今はそれが頼もしかった。

「positive」PCR検査の結果は「陽性」だった。そう、ネパールで、コロナ入院することになってしまったのだ。点滴と栄養たっぷりの(西欧風)食事のおかげもあって、入院から3日目にだいぶ体調は回復していたが、いちどコロナ陽性になってしまったので、陰性の結果が出るまでは、この病室から出られない。ベッドのそばの電話が鳴る。

「Hello?」「あ、日本語でOKです。この病院の旅行保険担当Qです。」スマートで知性を感じる落ち着いた声だった。「世界旅行の際に所持されていたクレジットカードの付帯保険ですが、すべてこちらから連絡させていただきました。あなたは一銭も払う必要がありません。何か質問は?」「ありません。ありがとう、Thank You!ダンネバード」

部屋に看護師がメニューを持って入ってくる。マスクはもちろん、完全防護服である。恰幅のいい中年女性のRだ。彼女は英語が話せるので、こちらはつたない英語でやりとりする。「P、今日のランチはどうする?」「えっと、このパスタと、フルーツにしようかな」「いいチョイスね」「薬はこれだけ?」「そう、のどのシロップと、痛み止め、あとは体力が回復するのを待つだけね」「ちょっと退屈になってきた」「この病院一泊いくらだと思ってるの?せっかく保険がきくんだから、ゆっくりしていきなさいよ」「え?いくらなの?」「1500ドルよ」「1週間で?」「何言ってるのよ、1泊1500ドルよ」

本当に保険がきいてよかった。1泊20万円強である。ぜんぶ自費だったら、帰国を考えるくらいの出費だ。いろんな意味でほっと胸を撫で下ろし、陰性の結果が出るまで、もうちょっとこの病院でのんびり過ごすことにした。

「ハロー、P、退屈そうね。」今日の担当は、若い女性の看護師Wで、日本人であるPに興味があるようだった。「Netflixも見飽きたよ。STRANGER THINGSのシーズン4は面白かったけど」「あなた、結婚は?」「してない」「仕事は?」「広告のライターだよ。今は旅しながらオンラインでちょっとやっているだけだけど。」「不思議ね、私たちの国では、この年で、結婚もせず、でも仕事もあって、旅してる人なんて、本当に珍しいわ」「まあ、いろんな人がいるよね」「あなたにとって「愛」とは何?」「難しい質問だね。ともに歩くこと?」「シンプルね」「君にとっては?」「それはプライベートな質問よ」「なんやねん」

「ハーイ、P、時間ある?」Wは仕事の合間に、異国の話を聞きたがった。「今日はどの国がいい?」「北欧の話を聞かせて、ヒマラヤとは違う雪が降るんでしょ?」「訪れた時は夏だったから、雪はなかったね」「なんだ、そうなの。どの国に行ったの?」「フィンランドに行ったんだ。そこには国が主体で運営しているサウナがある。そこにはレストランが併設されていて、タトゥーまみれのおしゃれな店員がいる。BGMのアンビエントもクールだった」「行ってみたいな、サウナはどうだった?」「日本のサウナは、狭く、暑い場所で、我慢に我慢を重ねて、そこからの解放としての水風呂と休憩がきもちいい、っていう楽しみかたなんだけど、そのサウナは違った」「どう違うの?」「ガラス張りのサウナ室で、空と海が見える。青く広がるバルト海に陽光がきらきら反射していて、カモメが舞っている。まずその見た目の違いに驚いたね」「同じサウナでもぜんぜん違うのね」「それに、温度もそこまで高くないんだ。男女が水着で入っていて、ぽかぽかしている。でも、1メートル四方の鉄の塊の中には、熱された石がたくさん入っていて、そこにひしゃくでアロマ水をかけると、一気に部屋が暑くなる。」「ダイナミックね」「そう、みんな『オーマイガッ!』って言って、部屋から出て行き、バルト海にダイブするんだ」「最高じゃない」「海に浮かびながら、太陽とかもめを見つめていると、ととのうっていうのは、いろんな種類があるんだなと思うよ」「ととのうって何よ?」「英語で説明するのは難しいな。ニルヴァーナ?仏教的なチルアウト状態というか・・・」「なんでそこに住まなかったの?」「うまくいえないけど、結局、苦しみや、困難があるからこそ、その後の喜びが増すというか、今回の入院の後の自由が待ち遠しいようにね」「困難を求めてカトマンズに来たってわけ?」「いや、そういうわけじゃないけど・・」「ずっと旅をする人生を送るの?」「いや、日本で働くよ。その日々があったから、この旅が楽しかったんだ。今はこの旅があったから、また働きたくなってるんだ」「まったく日本人ってやつは・・・」

数日後、無事陰性の結果が出て、Pは退院することができた。7日間、日本円にして、140万円近くの高級ホテルを後にして帰国し、フリーランスのコピーライターとして、また一から働くことにした。旅をしたり、入院したりした結果、日本という静寂と清潔の国で、仕事が恋しくなってしまった自分に気がついたからだ。

「はいPです。ええ〜明日までですか?3本??コピーライターは自動販売機じゃないんですよ!」

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