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瞳の中の私

 ほんの少しの賑わいを見せた、誰もが知り、目にする普通の街。そこにある二階に構える喫茶店。私と彼は、その喫茶店の窓際に座っている。

 私はほんのり甘く、苦いブロンド色のコーヒーをカイロのように手に当てている。

 彼は、決して使われることのないステックシュガーとミニチュアみたいなミルクを脇に備えたブラックコーヒーを前に、外の景色を見ている。

 私は時間が進んでいるはずなのに、止まっている様に感じる。彼は私の顔を見ることなく、ずっと外の景色を見ていて、たまにコーヒーを啜る。たまにタバコを咥える。

 私は、じっと彼の顔を見つめていた。どうして、こんな苦い時間が流れているのに、彼はそんな平然な顔をして外の景色を眺めていられるのだろう。いや、彼の中にも、いろんな思考を巡らせて、苦い時間を感じているのかもしれない。

 そうに違いない。と思おうとするのに彼の平然な顔を見ていると自信がなくなる。

 つい数分前、彼から何年も連れ添った私に 「別れないか。」 と言った。

 一体、何があったのか。どうして別れたいのか。彼の口からは何も発されることもなく、ただ一言。それだけを業務的で無慈悲に投げられた。

 私は決して、気が利いた人間とは言えなかったかもしれない、わがままな人間だったかもしれない。そんな頭のいい考え方とか合理的な考え方なんて出来ない。私はどちらかというと感情的で情熱的な人間だ。鬱陶しい人間だったかもしれない。でも、それでも、私は彼のことを愛していた。

 私は彼のそばにいるだけで落ち着いた。私は高価なものなんていらなかった。彼から誕生日や記念日に、ハイブランドのアクセサリーをもらって、すごい喜んでいたけど、本当は彼のそばにいるだけでよかったし、彼と過ごす時間だけがどんなブランドのどんな素材のどんなアクセサリーよりも特別なもので嬉しいものだった。

 今、彼の顔を見るだけでグッと締め付けられて、手のひらが湿る。あったかいカップが心を落ち着けてくれる。

 初めてだ。彼と過ごす時間でこんなに苦痛に感じるのは。

 彼はどう思っているのか。考えてみれば、ちゃんと彼がどう思って、どう考えてるなんて聞いたこともないし、わかることなんて決してないと思う。

 彼の脳を開いてみれるものなら見てみたい。彼の脳の皺一つ一つを読み取ってみたい。

 それでも、私は彼の気持ちや思考は読み取ることも理解することもできないのかもしれない。

 私の自己満足で妄想の愛だったのかもしれない。でも、少なくとも心を通わせて私は彼と関係を紡いできたはず。

 せめて、脳は開けられなくても、その瞳にはなにが映っているのか。

 外の景色を見続けた彼の顔を、首の骨をへし折る勢いで掴み、私の目の前にやり、その瞳を覗いた。

 その瞳は死んでいるのに、黒く染まった部分は宝石のように艶やかだった。

 私の姿がそこに映った。

 そこに映る私は、その宝石のような瞳とは正反対な、まるで触ると手がべとつき、臭い匂いが漂ってきそうな、色が濃い肉の塊のように見えた。

 窓の反射で映るま私は人間なのに、彼の瞳に映る私は肉の塊だった。

 今の彼には肉の塊にしか見えないのだろうか。もう一度、瞳を確認すると、そこにはちゃんと私が映っていた。でも、ちゃんと瞳は死んでいる。

 ゆっくり離すと、記憶された金属のように外に顔を向ける。

 益々、彼のことがわからなくなった。同時に、彼の心が離れて行くのも、痛く伝わった。

 ただ、私があんな肉の塊に見えるのなら、なにも変わらず、普遍的な外の風景を見ている方がマシだってことはわかった。

 それだけがわかって、


 泣いた。


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