【田舎恐怖小説】さあばさま
「それと、いちばん奥の間ァは、開けちゃなンねぇぞ」
障子戸を開けようとした直前、ヨシエさんは云った。
「さあばさまが、おらっしゃるでな」
その言葉に、興味を引かれた。
戸にかけていた手を離して、囲炉裏ばたに座るヨシエさんの方に向きなおる。
「ヨシエさん、『さあばさま』って、何です?」
尋ねると、小さな老婆は首を横にゆっくりと振った。
「わがらねェ。オラにゃ、詳しいごだぁわがらねェぢゃ」
「神様や仏様のようなものですか」
「ン。まァ、この村の、守り神ョ」
「守り神、ですか」
膨らんだ好奇心が、私を囲炉裏のそばに引き戻し、座らせた。
夏の夜である。
囲炉裏に火はなく、黒いからっぽの鍋がカギに吊るしてあるだけだ。
太い梁の渡された天井は高く伸びている。古民家の作りの特性なのか、夏なのにどこかから、ひやりとした空気が漂ってくる。
「ヨシエさん、その守り神について、詳しく教えていただけませんか?」
大学の民俗学のフィールドワークとして、今年の夏は東北のある県の村を転々としていた。
新幹線や電車で移動していると、山と山の隙間、トンネルからまた別のトンネルへと抜ける十数秒の間に、小さな集落が見えることがある。
そんな過疎の集落を歩き、民話や昔話を収集するのが私の研究である。
様々な地域の文献をあさり、日本の各地域を旅してきた。
そんな私だったが、ヨシエさんの口から出た「守り神」の名前には、まるで聞き覚えがなかった。似たものも思いつかない。
さあばさま──
訪れたこの集落は、こう言うのも何だが、期待外れもいいところだった。
老人たちが語る昔話に、定型の域を出るものはなかった。
どんな民話や昔話にも、ある程度の「型」がある。骨組みだけ抜き出せば、数十種類に分類できてしまう。
だが地方によって微妙に差異がある。地域性や住人の性質が、ディテールに現れる。
その小さな違いを比べてみることが、民俗学、民話収集の醍醐味のひとつであると言えよう。
それで、このあたりで定着しているのは、「蛇」との「異類婚姻譚」だった。
青年が山で助けた蛇が、娘に化けてやってくる。しばらくは幸せに暮らすものの、ある日、青年が部屋を覗くなどして正体が露見。蛇は青年を噛み殺し、山へと帰る──
この周辺で聞き集めた話は、だいたいがこのような内容である。
どこにでもある話だ。おっと思うような細部もなく、展開も月並みで平たく、はっきり言って面白味がない。
こんな山奥の辺鄙な村なら、少し変わった話があってもよかろうものを、と私は内心、不満に思っていた。
集落には田畑があるものの、使われている様子はない。農業もやらずにどうやって生活しているのか、と少し気になった。しかし、私の学問には関係のないことだ。
村の中で一番大きなこの家に泊めてもらい、念のため、村の最年長である羽生ヨシエさんに、この辺に伝わる昔話はないかと促してみた。
彼女の口から出たのはやはり、蛇との婚姻譚であった。
囲炉裏ばたで、小さな皺くちゃの老婆の口から語られる話には相応の雰囲気はあった。
しかし、私はこう思った。
またこれか。
もっと稀有な、面白い話はないのだろうか?
私は少なからず失望しつつ、彼女に一応の礼を言ってから、寝所へ行こうとした。
その時に発せられたのが、この守り神の名前だったのである。
さあばさま──
「さあば-様」であろうか?
それとしてもやはり、聞いたことがない。
座り直した私が前のめりに「守り神」について問い詰めても、彼女は首を横に振るばかりだった。
だが、断片的に次のようなことが聞き出せた。
「家のモンには、あんまり言うな、言われとるんじゃ」
「オラたちがこげして平和に、特に不自由なく暮らしていけンのも、さあばさまのおかげだど……」
「オラは、奥の間には入るな、言われとる。入るのは村の、50か60の若いモンだけよ」
「他の家にもおらっしゃるよ。こごの村の家には、どごでもおらっしゃるはずじゃ」
「……オラ、一度だけ見たことがある。でもよ、アンタには説明でぎねぇ。あらぁ、なんなんじゃろうな……」
ヨシエさんは私の詰問をかわしつつ、小さな情報の欠片を落としていく。だが欠片が小さすぎる。守り神の伝承や正体について、全体像も輪郭もまるで見えてこない。
もう少し、もう少し単語や、用語のようなものがあれば──
焦燥にかられる私の頭上で、ぽぉん、と柱時計が鳴った。
9時であった。
「おぉ、もうこんな時間だべ」
老婆はのっそりと立ち上がった。
「話しすぎたや。オラぁくたびれたよ。いつもはもう寝とる時間だで」
「ヨシエさん、もうちょっとでいいんです。お話を」
「今夜はョ、ウチの息子も嫁も、村の寄り合いで帰りが11時過ぎになるで。あんたもはよう、寝てしまいんさい」
食い下がる私に、彼女はにべもなくこう言った。
「あとョ、くれぐれも、本当に、奥の間ァは開けて覗いてくれるなよ。息子と嫁に、叱られるで……」
私の質問に、これ以上答えるつもりはないようだった。
寝所へ入っても、眠れなかった。
いつも深夜1時を回ってから眠る私だ。こんな早くに眠れるわけがない。
とにかく、「さあばさま」のことが気になった。久しぶりに胸がわくわくし、学者魂に火がついた。
レアな民話、特殊な信仰、異形の神──そういうものは遠い昔やフィクションの中にしかないものと思っていた。
しかし今、もしかすると私は、そのただ中にいるかもしれないのだ。
スマホを取り出した。偉いもので、こんな山奥でも電波は届く。アンテナもばっちり三本立つ。
保存してある各種宗教辞典を片っ端から見てみたが、やはり「さあばさま」なる名前のものは見つからない。
私はふと、ある映画を思い出した。よく似た響きの題名で、しかも仏教系の新興宗教をテーマにしている韓国映画だ。
検索してみると、すぐに出てきた。
『サバハ』
「사바하」、または「娑婆訶」である。日本語に直すと「ソワカ」だ。「アビラウンケンソワカ」のソワカ。真言密教だ。
意味は、
「すべてが成就する」
「サバハ」が訛って「さあば」となった可能性について考える。
だか、韓国語の真言密教がこんな東北の山奥、ぽつんと佇むこの小さな集落で、沸いて出たように信仰されているとは考えにくい。
それに、老人が詳しく知らず、比較的若い世代が信仰しているらしい、というのもわからない。普通は逆ではないか。
解せないことだらけだ。
一体、どういうことなのか?
私は客用にしては薄っぺらな布団の上であお向けになり、天井を見上げた。
頭上には闇が広がり、何かが隠れているような、潜んでいるような、そんな気がしてくる。
時計を見ると、10時過ぎだった。
夫婦が帰ってくるにはまだ、余裕があった。
覗くな、とは言われた。
でも、ここまで来てしまったからには、覗くしかない。
私は静かに起き上がった。
音を立てないよう襖を開けた。
老婆の寝所はここから遠い。動いても、気づかれる心配は少ない。
液晶が光るスマホを掲げて、廊下に出た。
その途端。
素足がひやり、とした。
涼しいのではない。
寒いのだ。
廊下の板が冷たいのではなかった。どこからか冷気が漂ってきている。その冷気に、足首までが埋まる。
こんな古民家に高性能な冷房があるだろうか。あったとしても寒すぎる。夏なのに、秋か冬のような寒さだ。身が縮んだ。
私は廊下を進んだ。便所があるという方向には行かず、奥へ奥へと、足音を立てぬように行く。
この古臭い家の廊下に電気はない。ほとんど真っ暗な中を、スマホのライトを頼りに歩く。
体が震えた。
寒さのせいばかりではなかった。
この寒さを浴びて、私の脳裏に「冬眠」という言葉が浮かんだ。
冬のように温度を下げて、何かを寝かせておく……。
矢継ぎ早に「低気温」「両生類」が連想される。そして、「蛇」の文字に行き着いた。
蛇、異類婚姻譚、サバハ、ソワカ、真言密教、軍荼利明王、夜叉、グンダリ、蛇を首に巻いた姿、螺旋、永遠、繁栄──
単語や絵図が次々と鈴なりに現れ、私の頭の中で回転した。
廊下の突き当たりに、ぴったりと閉まった襖があった。
ここか、と取っ手に手をかけようとして、驚いて引っ込めてしまった。
襖と襖の隙間から、強い冷気が流れ出ていた。それが手首に鋭く当たったのだ。
下には、足の指先が冷えきるような空気が充満している。
冷たい空気の源は、間違いなくここだ。
そしてこの村の守り神、「さあばさま」も、ここにあるのだ。奉ってある。あるいは──「いる」。
私は痛いほどに冷えている取っ手に手をかけた。
ゆっくりと、20センチほど開けた。
その一瞬で、足首から膝までが刺すような冷気に襲われた。
思わずスマホの光を足元にやった。
ごく弱い光が、真っ暗な座敷の畳をうっすらと照らした。
そこに、畳はなかった。
私の裸足の足の先、襖の敷居の向こうに、なにかがあった。
長いものだった。
無数に、隙間なくあった。
細いもの、太いものが。
うねり、あるいは曲がったものが。
白や朱色や緑のものが。
座敷の床を、みっしりと埋め尽くしていた。
蛇だ。
蛇の群れ。
そう思った。
私の心臓は一瞬、止まってしまった。
心臓が再び動き出したのは、部屋の中でなにかが光っているのに気づいたからだ。
呼吸が止まったまま、私は足元から奥へと、ゆっくり視線を移した。
見てはいけないと思った。
絶対に見てはいけないと思った。
だが頭が勝手に、首が勝手に動いた。
座敷の奥の暗闇に、赤や緑や黄色の光があった。
数えきれないほどの数だった。
人間の目の光ではない。
彼らは、黒い身体をしていた。
私の瞳を射るかのように強く、光っていた。
黒い身体からも、無数の長細いものがずるずると横や下に伸びていた。
「守り神」の身体から、長いものが、蛇が、無数に這い出ている。
それが、この部屋をいっぱいに埋め尽くしている──
私は絶叫した。
「……ほいだがらってオイは、大学の先生なんて泊めねェ方がいいって言ったンだ。変な仏心出してョ」
夜の11時過ぎ、冷気の流れ出る半開きの襖の前で、羽生里恵は夫に不平をぶつけていた。
「しかもオメェ、寄り合いがあってオイたちのいねぇ夜だぞ。九十のバァさまと二人きりにして」
「オラぁ、なんもしてねェよ」
ヨシエが身をよじって反論する。
「蛇を嫁さ貰う昔話してやって、ほいがら、『奥の間ァは、さあばさまがおるから、開けねェでくれ』って、頼んだだげだで……」
「都会の大学の先生がョ! 『さあばさま』だの『開けねェでくれ』つって、覗かないワケがねぇンでろ! ほんで、このウネウネ見だら、驚くに決まってるや!」
里恵は大きな肩掛けのカバンを持ち上げた。客の残していったものだ。
「ホレ! あの先生、寝巻きのまんま、荷物も置いて、車で逃げてしまったで!」
「……あんまり年寄りを責めるようなごど言わねェもんだ」
怒りに任せてカバンを左右に動かす里恵を、それまで黙っていた隆一がなだめる。
「こんだ年寄りに、そんだ難しい判断でぎるわけねぇっぺ」
「そもそもアンタが悪ィや! このバァさまにちゃーんと解るように、コレのこと説明しねェまんまにしておいて!
『さぁば様がおるから開けないでな』『村の暮らしを守ってくださる』とか、そげだ神がかりな説明で済ませでョ!
このウネウネも、いつまでも整理しねぇで繋げたまんまにして! そういう無精が積み重なってのコレだ! どうすンなや、通報でもされだら!」
「その時はオメェ、正直に一部始終を……」
「ダァメだ! これが公になってみっちゃ! 他の村にも真似されて! ウチの村でヒッソリやってる旨味が無くなるでねぇか!」
「……………………」
隆一は困った顔をして、それから、襖の向こうを見た。
電気がつけられて明るくなった奥の間には、妖気や邪気は一切なかった。
いちばん奥の壁にはクーラーが設置され、熱を放射する箱を冷やし続けている。
畳敷きの広い座敷には、細いものや太いもの、白や緑の「線」が、うねうねと巡らされている。
だが、これらは蛇ではない。
その線は、幾つも並ぶ黒い大きな箱から伸び、また別の箱に繋がっている。
箱にはランプがいくつもあって、赤や緑の光が常時、ついている。
これが、各家の奥の間に鎮座するこの村の守り神、「さあば様」であった。
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レンタルさあばー …………
【おしまい】
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