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音楽のチカラは母をも

1.私の母

今回は、音楽と母にまつわる話をしたいと思う。私の書くものには度々登場する母。私を大きく育て上げてくれた母。そんな母を漢字一文字で現すならば、

「凛」

これに尽きる。今は還暦も超え、アルコールが入れば饒舌になるが、私が実家にいる時分は四六時中喋っている陽気な父の横で、多くは語らず、"フフフ"と笑うぐらいの物静かな母だった。
そして、私からは想像できないかもしれないが、ひかえめに言っても美人である。

学生時代は瓶底メガネをかけた本の蟲だったそうで、実際に当時の写真を見せてもらったことがあるのだが、……まごう事なくそれっぽかった。

それが、父と出会った頃の写真では、バキバキの頃の梅宮アンナみたいで、それはそれは激マブな女へと変貌を遂げていたのだ。
うちのアンナは、当時、今の10分の1ぐらいほっそりとした、ファッションと車とバイクに目がない垂れ目の父に恋をして、20歳という若さで結婚し、21歳で第一子となる姉を生んだ。(やるな、父!)

若妻で若母だったアンナだが、私が物心ついた時には、家族が起きる時間に着替えも化粧も済ませ、家族みんなの弁当を作っていた。
料理もうまく、家事のすべてを完璧にこなすのが母だった。

この歳になり、車で帰省した私たち家族にも、帰り際には今だにお弁当を持たせてくれる。この部分のDNAだけは、自分の体内に組み込み忘れられている気がしている。微塵も分けてもらっていない。
しっかりエプロンをつけて、キッチンに立っている姿、それこそが私の中の母だった。

2.ウルフルズと母

私は、小学校高学年の頃、父がVHSにダビングしてくれた音楽番組で4人組のバンド、ウルフルズに恋をした。【サン・サン・サン95'】のミュージックビデオだった。ジョン・B・チョッパーでもなく、サンコンJr.でもなく、ウルフルケイスケでもない、トータス松本という生き物にその日からクレイジーになった。
ひよこのぬいぐるみにすらも松本と名付けた。

当時の全ての楽曲を聴き、アルバムが出たら買ってもらい、すり減るぐらいVHSを観た。ウルフルズが出てきた夢ですら、今だに覚えているぐらい大好きだった。すると、母がファンクラブに入会してくれた。めちゃんこ嬉しかった。毎月届く会報と、訳の分からないキャラクターグッズ(怒られるぞ)を手に入れるのが楽しみで仕方がなかった。

今は無き、公会堂で行われたLIVEにも母や姉と何度も行った。トータスの臀部でんぶを出した衣装も拝んだ。汗を拭いた後に投げたタオルも、そこらへんの人間という人間を跳ねとばしてゲットした。それぐらい熱狂していた。

そんなある日、私が学校から帰宅すると、家の中から大音量で何か音楽が聴こえていた。それに加えて、掃除機をかける音も重なっていたので、誰の曲かがわからなかった。

ドアを開けて、リビングに向かって
「ただいま!」
と言った。いつも明るく応えてくれる母だが、全くもって返事が無い。
“そうか、音楽と掃除機の音でお母さん聞こえてないんだな”と思った。

「ただいまぁ!!!!!」

そう言いながら、リビングの扉を開けて入ると、

大音量でウルフルズの「すっとばす」の映像を流し、それに合わせてヘッドバッキングをしながら掃除機をかける母がいた。

「凛」である母が、掃除機と共に狂喜乱舞している。

子どもが帰ってきたことも気づかないほどに、ノリノリのノリに乗っている。

初めて見る姿だった。
そこで私は気づくのである。
ウルフルズにクレイジーなのは、私だけじゃなかったんだと。
ファンクラブに入りたかったのも、私だけじゃなかったんだと。

3.斉藤和義と母

私が故郷を離れ、関西で大学に通い始めた頃。地元でも大きな野外音楽フェスが開催されるようになった。いつしかそれに親族総出で行くのが恒例となっていた。

ある年、母は怪我をしていた。犬の散歩や階段の踏み外しで骨折するのが得意な母は、確か膝かどこかを痛めていたので、スタスタと普通に歩くことができなかった。松葉杖をすればよかったのだが、そうすると脇が痛いし、余計に足腰が弱るとのことで、ゆっくりと少しずつ歩いて生活していたのだった。

そんな怪我人が野外ライブフェスに行く理由。
大好きな斉藤和義が出演するからである。トータス松本あたりから薄々と気づいていたのだが、母と好みのタイプがどうやら重なっているところがある。

そのフェスではステージから後方に行くと、みんなシートを敷いて陣地を確保している。その場で座って聴く人もいれば、立って聴く人もいる。より近くで聴きたいアーティストの出番になると、思い思いに前列のスタンディングエリアに移動するのである。

もちろん母は怪我人なので、後方の陣地に置いた椅子に座ってゆったりとステージを眺め、時々立ったり、少しだけ前に移動して楽しんでいたのだ。

中盤に差し掛かり、母がトイレへ行くと言った。特に何も気にしなかった。
しばらくそれぞれが楽しんでいた。どれぐらい時間が経っただろうか。少しずつ家族が気づき始めた。

「お母さん、トイレ、長くないか?」

遅い。
もし、大便だったとしても遅すぎる。
私たちは焦った。よく考えると、フェス用に用意された簡易トイレ。洋式があっただろうか。膝に爆弾を抱えた母が、支えなしに和式を使用することが果たして可能だろうか?

もしかして…トイレでひっくり返ってるんではなかろうか!?

携帯に電話を掛けた。なんとシートに置いて行っている。親族で手分けをして、何ヶ所かにあるトイレエリアを探しに向かった。戻ってきたり、助けてくれた人が呼びに来てくれるかもしれないと、何人かはシートに残ることにした。

そうこうしていると、なんと母のお目当て、斉藤和義殿の出番になってしまった。MCが出てくるまであおり、ついにはご本人が登場。

 ”くぬぅ!私だって、正直見たい!!しかし、母が、いない!!!!”

私はステージに後ろ髪を束で引かれる思いで、母を探し続けた。
ステージから、名曲「ずっと好きだった」のイントロが。
なんというタイミング。なんという神様のいたずら。

あの野郎、どこに行きやがったぁ!!!!!!なんて声に出そうになってしまった。

和義殿が奏でる、超絶にかっこいいギターが聞こえてきたその瞬間。

どこからともなく、現れた。

両手を高々と上げ、左右に振りながら、ゆっくりと膝をかばいながら歩く母だ。

和義殿のギターに合わせ、ステージだけをまっすぐに見据え、ノリノリのノリに乗っている母が、まるで音楽に吸い寄せられるかのように現れたのである。

ただちに業務連絡は親族間に伝わり、全員が胸を撫でおろしたのだが、とんだお騒がせなノリノリの怪我人であった。

4.さいごに

音楽は素晴らしい。世界を救うかどうかまではわからないが、家事に疲れた母親にヘッドバッキングさせることができるし、怪我人を躍らせることは間違いなくできるものである。

音楽は、素晴らしい。

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