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育てているのは…

「私の育て方が悪かったんです」

相談に来られるお母さん方から、一番聞いた言葉かもしれない。ほとんどの保護者が自分自身を責めていて、どう対応したら良いのかと途方に暮れていたり、特効薬的な対処はないものかと求められたりもした。

私には子どもがいないので、子育てのことはほとんど分からない。むしろ先輩方に教えてください、とさえ思ってる。そんな私だから、相談する側もさぞ頼りない気持ちになるだろうな、と思いながら、「お母さんのお話、きかせて下さい」「一緒に考えていきましょう」という言葉くらいしかかけられなかった。でも、それだけは私にもできる、と微力でも自分のやるべきことだと思っていた。

まだまだ未熟者だけど自分自身の人生を振り返ってみたとき、当たり前だけど私は一人でここまで育ってきたわけじゃない。両親がいたから生まれてきて、優しかったり意地悪だったりの兄弟がいて、新しい世界を色々教えてくれた従姉妹のお姉ちゃんがいて、間違いを犯した時に穏やかに諭してくれた丸メガネの面白先生がいて、腹割って話してると思ってたけど裏で悪口を言ってた友達がいて、どうしようもない絶望の中で寄り添ってくれたカウンセラーがいて、自分でも気づかないところを見つけてケアしてくれたおじいちゃん先生がいて、いつでも味方になってくれる明るい親友がいて、働く厳しさ楽しさを教えてくれたバイト先の店長がいて、良い時も悪い時も愛してくれる夫がいて…現在進行形でいろんな人達に育てられ続けている。そのことは胸を張って言える確かな事実だし、その証拠に今の私がいる。

そして、子どもたちと向き合うとき、子どもたちに言葉を発するとき、そのほとんどがこれまで育ててくれた人たちが私に発してくれた言葉だったり態度だったりその時の風景だったりで、それがそのまま鏡のように跳ね返って、また更に自分を育てたり癒したり励ましたりしてくれていた。そのことに気づいたら、なんだかとても温かくて、全てが繋がっている感覚があって、生きていることを実感できた。

聖書の中にこういう言葉がある。

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」Ⅰコリント3:6

あの子は今どうしてるのかとか、あの時のあの対応で本当によかったのかとか、もっとこうすべきだっかもしれないとか…自問の日々だったけど、その子のなかで、これから出会う大切な誰かのバトン役だったかもしれない。あるかないか分からないくらいの一雫の水滴だったかもしれない。でもその一欠片になれるなら、これほど嬉しいことはないし、その他の役割は誰かに委ねよう、そう言い聞かせていた。自分ができることは自分以外の誰かになることではないから。

だからお母さん、そんなに自分を責めないで。一人で抱えすぎないで。大切な愛するいのち、みんなで一緒に育てよう。

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