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幸せを再定義したい

自閉症です。どうも。
定期的に、自閉症の友人と雑談する時間を設けています。自閉症は、目に見えるものしか見えない特性があり、客観的に物事を捉えるのが苦手です。1つのテーマについても、自分の考えが正しいと思い込みがちで、視野が狭くなりやすく、他人の意見を受け入れるのが難しくなったり、他者との距離を感じやすい特性があるように思っています。
ただ、前回の記事で、他者との間に距離があっても、お互いを信頼し、共通の目的を持って歩み寄ろうとする気持ちがあれば、自閉症という障害があってもヒトと歩み寄れることもあると確認しました。この感覚は、就活の中では得ることが出来ませんでした。私は社会に対して歩み寄りたい、共に手を取りあえると信じていたけど、相手がそうではなかったのでしょうね。寂しいことですが、過去の私を含めた自閉症全体のイメージが、そういう社会を作ってしまったのかもしれません。

さて、話を戻して、友人との雑談の中で、その時話をしていた友人は既婚で、子供も居てという状態で、その中で自閉症にありがちな、"何故生きるのか"という話題になりました。納得して次に進みたい自閉症が考えがちな、最もポピュラーで、最も敬遠されがちな(自殺に直結する)話題の1つです。
その友人は、子供と嫁を幸せにするまでは死ねない、だからそれまでは生きると言っています。とは言え彼は、旧帝大の理系卒で、過去フォーチュンが選ぶ企業番付1位に君臨したこともある、国内最王手の巨大企業に勤めていて、30代にしては充分過ぎるほどの給与を受け取っています。
日本人の平均的な価値観で言えば、所謂勝ち組であり、その家族が不幸であるとは到底考えにくいと、殆どの人が考えると思います。

ですが、ここは自閉症の世界。そんな話には到底ならないわけです。
先ず第一に、他人を幸せにするということは、他人を変えるということを意味しています。そして、私も彼も興味を持って心理を学んでいますから、他人を変えることは出来ないという共通認識を持っています。いや、持っていたはずです。彼は、家族というものに対して自己と他者の境界線が無くなっていたように思いましたが、そう質問すると、ハッとしたようでした。
次に、幸せとは何か、幸せとはどういう状態なのかということです。
家族のために今の仕事は当面辞めないという彼の発言は、日本人の価値観からすると完全に正しいです。なんといっても勝ち組ですから。
ただ金があれば幸せなのか、ではいくらあれば幸せなのか。
今回は、そんな話をしていきたいと思っています。

金があれば幸せ?

子供に習い事をさせたり、自分がやりたいことをしたり、家族で旅行に行ったり。やりたいをやるにはお金が必要なことが多いです。
これに関して言えば、前々回の記事で書いていますが、望んだものが手に入らない苦しさという意味を持つ求不得苦という言葉があります。そして、当時世界一のお金持ちだったローマ皇帝や、それに準ずる地位に居た人もまた、求不得苦を感じることがあった。というところまで紹介しました。
彼らは、自らの意志を強く持ち、その苦しさに立ち向かいましたが、そうでなかった人間も居ます。有名なところだと、ローマ帝国第五代皇帝ネロという人物です。
暴君として名高い彼は、セネカと並ぶ彼の右腕であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスを失った辺りから情緒不安定かつ人間不信に陥り、弟、母、妻、セネカといった身近な存在を次々と処刑し、最後は自殺します。
金で買えるものは、凡そなんでも手に入る地位にあったはずの彼ですが、周りの人間を一切信頼出来なくなり、常に自分が狙われているのではないかと怯える日々を送っていたのかもしれません。そんな日々が幸せだったのか?と思うと、そうではないように感じます。

他人と比べ安い現代社会

とは言っても、2000年近く前の話ですから、今とは大分事情が違っているでしょう。という訳で、現代的な例を出していきます。
例えば、ある日5000円のランチを食べる機会があったとします。ランチで5000円、中々無いと思います、庶民の感覚からするとね。
で、当然映えているわけです、見た目が。手元にスマホがあれば、箸を付ける前に撮りますよね、写真を。そして、SNSにアップロードするわけです、その映えたランチを。当然期待するわけです、イイネの嵐を。
ただ想像してみて欲しいのです。もしアップロードしたその瞬間、自分のタイムラインに、他の方が投稿した10,000円のランチの写真が流れていたら、どうでしょうか。自分の5,000円の映えランチよりも、遥かに多量のイイネを受け、賞賛される、他を寄せ付けない映えランチの投稿を見てしまったあなたは、5,000円のランチ、心から美味しく食べることが出来ると思いますか?
そして考えてみて欲しいのです。5,000円のランチを美味しく食べることが出来ないヒトをあなたが見た時、その人が幸せな状態であると思えるかどうかを。

ヒトの価値観は様々で、そこに関してケチをつけるつもりは毛頭ないです。
ただ私は、以前触れたようにパンと水さえあれば、幸せにおいてゼウスにも勝ると豪語した、エピクロスのような生き方の方が、遥かに幸せに見えるし、私はそうありたいと思っています。
求不得苦を克服し、手に入らないものではなく、手に入ったものに感謝して幸せを感じることが出来る価値観を手に入れることが、幸せな状態と言える条件の1つであると、ここでは定義しておきます。

そもそも求不得苦は何故発生するのか

幸せな状態というものを追求して再定義するのであれば、次に問題となるのはここです。そもそもヒトの欲求はどこから生まれてくるのか、考えていきます。
今丁度クリスマスが終わった頃なので共感出来る方も居るかもしれませんが、クリスマスってケンタッキーフライドチキン食べたくなりませんか?
もっと言えば、クリスマス前の冷え込んだ時期、マクドナルドに行ってグラコロを食べたいと思った人、少なくないのではないでしょうか。
多くの日本人は、夏が終わって夜空が澄み渡る月見の季節になると、月見バーガーを食べたくなり、季節が進んで寒くなるとグラコロを食べたくなり、クリスマスになると恋人とケンタッキーを食べたくなり、2月の半ばには異性から貰うチョコレートが無性に食べたくなる。日本人の遺伝子が、半ばそうプログラムされているかのように、季節ごとに特定のモノを得たいという欲求が湧いてくるはずです。これが何故そうなっているのか、殆どの人は考えたことが無いと思います。
日本人は季節を大事にするからとか、期間限定商品だから、とか色々理由付けは出来ると思うんですけど、はっきりと隠さず申し上げれば、そういうCMをテレビで見るからではないでしょうか?そういうモノが期間限定で存在するということを知る機会が無ければ、そもそも欲することもないのではないでしょうか?

こういう考え方を、唯物論とか物質主義と言います。割とぶっ飛んだ考え方のようでもありますが、冷静に1歩引いて考えることが出来る人間であれば、確かにそうかもしれないと感じることが出来ると思います。そして、そのことを知った、バイアスが外れた状態で、それでも敢えて手に入れたい、食べたいと思い、かつそれを手に入れて美味しいと認識出来るのであれば、私はそれもまた、求不得苦を物理的に解決しながらも、自らの意思で決断し、幸せを感じている状態であるというように考えます。

幸せとは

幸せとはどういう状態なのか、今回の内省では、精神が物質によって規定されておらず、自らの意思で全ての行動を選択出来る状態であり、かつ求不得苦を克服した状態であること。と再定義出来たような気がします。
もっと考えていけば、もっと色々な定義が出来るような気はしています。まだ四苦八苦のうちの1つにしか触れていませんからね。歴史を紐解けば、幸せを掴むために生老病死にすら抗おうとした人も数多く居ますから、浅いところに居ることは自覚しています。
少し思い返してみれば、こうして1つ1つよく考え、掘り下げていく時間もまた、幸せな時間であることは確かです。そういう意味では、お互いを信頼し、共通の目的を持って歩み寄ろうとする気持ちのある友人が、色々なきっかけをくれることと幸せを結びつけるような再定義を考えていくことが、次の課題になるのかもしれません。
いずれにしても、そういう機会に恵まれた境遇にあることもまた、ある種幸せなのですから。

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