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曖昧な言葉たち

自閉症です。曖昧な表現は苦手です。
何気ない日常の会話でも、自分の思っていることを正確に相手に伝えたいと思っていて、出来る限り曖昧な言葉は使わないようにしています。
ですが、使わないように気を付けているはずなのに、先日つい"こそあど言葉"という曖昧な指示語を多用してしまって、しまってというか、友人とPortal2というゲームをしていた録画を見返したら、お互いに多用していた(が、揉めること等は特に無く、ゲーム自体は非常に楽しめていた)ということがあったので、これについて思った事とかを書いていこうと思います。

曖昧な言葉の使用を強いられたゲーム

とりあえずPortal2というゲームが、どういうゲームか分からない人が多いと思うので、その時の録画の1部を貼ります。

ゲーム的には、ドラえもんの通り抜けフープみたいなツールを使って、ギミックを解いて2人一緒にゴールを目指していくゲームになります。
たった83秒間の間に、果てしないほど多量の"これ"とか"こっち"、"そっち"みたいな、良く分からない曖昧な言葉が使われていて、改めて少し見返すだけでも、非常に分かりにくい日本語を使ってコミュニケーションしているように思います。
この日実に3時間近く、この曖昧なコミュニケーションを続けていたにも関わらず、キレることなく、お互いがお互いを一生懸命理解しようとしていたし、実際理解してたくさんのステージを攻略したと思います。

どうして曖昧な表現を多用してしまったのか

気を付けていると言う事は簡単です。誰にでも言えます。
ただ現実は、曖昧な表現を多用していました。まだまだ自己を表現する技術が未熟で、発展途上であることが良く分かりました。
今回は、どうしてPortal2というゲームに於いて、これほどまでに曖昧な表現を多用してしまったのか、考えてみたいと思います。

1.相手に対する甘え

先ず一緒に遊んでいた友人に対する、良く言えば信頼、悪く言えば甘えみたいなものがあったことは間違いないと思います。
言わなくても伝わっているような間柄のことを、ツーカーの仲なんて言いますが、そのレベルには無くとも、この時はお互い、同じゲームで時間を共有して楽しむという明確な目的があり、そこに敵意のようなもの全くないということが前提にあった気がしています。

2.何て言ったらいいのか分からない

もう1つ考えた理由がこれで、初めて触れる世界で、モノの名前がどう定義されているのか知らないという理由があったと思っています。
Counter-StrikeやVALORANTと言った、一瞬の判断で雌雄が決するゲームをやる方なら分かると思いますが、この手のゲームでボイスチャットを使って敵の位置を報告する場合、曖昧さを回避するためにマップのエリアごとに細かい名称が設定されています(公式の呼び方+クラン毎での更に細かい取り決めがある場合が普通です)。
今回はそういう事前の準備を全くしておらず、良く分からないものを楽しむというコンセプトでのゲームプレイだったというのも、曖昧な言葉を多用せざるを得なかった要因だと思っています。

とりあえず大きな理由はこの2つだと考えました。
似たようなシチュエーションで、例えば飲食店に行って注文をする時、メニューを指さしながら「これください」と言う事があると思います。
これは店員さんに対する信頼と甘えがあると思うし、例えば初めてのお店や、海外旅行でモノを頼む時、どういう言い回しをしていいのか分からない時に頼りになるのは、写真に指差し指示だと思います。
そう考えると、今回のゲームプレイで曖昧な言葉が増えてしまったことは、致し方ないことなのかもしれません。
お互いが納得していればこそ成り立つコミュニケーションであると思うし、そういった間柄で居てくれる友人には感謝しかありません。

曖昧な表現を減らすには

曖昧な言葉を使ってしまったことを無理矢理肯定した直後に、こういう話題に入っていくのもいまいちかもしれませんが、普段私は曖昧さを回避するために、コミュニケーションの中でふと出た曖昧な言葉を再定義するという作業を行っています。
定義を辞書にあるものとし、再定義は、それを自分の中でどう捉えるかといった感じです。これに関しては、Meditationという過去の記事で1度行っているので、どういった作業かどうかはこちらの記事を見て頂くのが良いと思います。
自分が用いる言葉1つ1つに何故この言葉を選んだのか、後から考え直し、明確に理由付けすることで、自分の中の考え方の癖や他の視点に気付いたり、行動を振り返って次に活かすことで、自己の伝えたい事を、より過不足なく相手に伝える、伝わっている状態にすることが出来るような気がしています。伝わっていなくとも、この人はこういうキャラクターだから。という芯を、他の方から感じて頂けるような、そこを認めて接してくれる方とは長く信頼関係を築けると思っています。

逆に言えば、この作業が無ければ、伝えたものは伝わっているはずだ。という、相手に対する期待が発生してしまって、それが積み重なれば、結果的に相手との関係性を崩してしまうことになるような気がしています。
人との関係性を築いていくことが難しい自閉症という呪いを持って生まれてしまった以上、築かれた僅かな関係性を、1つでも大切にしたいものです。

曖昧さの減る日本語

出来るだけ自分で使う言葉には気を付けるようにしていますが、気付けば周りの方も曖昧さを回避するような使い分けをしている言葉もちらほら見受けられうようになったと感じています。
具体的に言うと、"ファン"という言葉です。何かに対してスキを表明するときに昔良く用いられていた気がしますが、今は目にする機会が明らかに減りました。

今日何かに対してスキを表明する時、オタクとか推し、サポーターみたいな言葉を用いることが多くありませんか?
例えば"家電オタク"と聞いて、一昔前のようなイメージではなく、今は"家電が好きで、詳しい人"という意味で用いられる機会が多いと思います。
スポーツチームの"ファン"だった人たちは、今"サポーター"と選手から呼ばれる機会が多いですよね。選手からすれば、フィールドで戦う自分達を支えてくれる大切な存在という敬意を込めて、ファンではなくサポーターと呼んでいるのかな?と思いますし、ファンの方々も、その方が一緒に戦っている雰囲気を味わえて良いのかなと思っています。

SNSの普及でスキを発信しやすくなった分、自分のスキをより明確で、過不足なく同じ属性の人と共有し、繋がりたいという欲求の現れなような気がしています。
そう考えると、明確な表現を用いることで、人間関係を構築することが簡単になるというのは、自閉症に限らず、多くの人が自ずと感じるていることなのかもしれません。

曖昧さが許容される条件

つまるところ、整理しなければいけないのはこれなのかもしれません。
考えてみれば、ビジネスシーンで関係性が構築される前の段階であれば、徹底したビジネスマナーみたいなものがとても重要視されます。これは正しく、曖昧さを排除して、相手に敵意が無いことを伝える作業であるといえると思います。形式に捉われ過ぎるのも時代錯誤な気はしますが、筋を通してからやり取りした方が、お互いに敬意を持って、気持ちよく接することが出来ると感じる人の方が多いような気はしています。
こういうことに対して非合理的だと感じてしまったり、他人との距離感が分からないからこそ、自閉症の人は他者との関係性を築くのが難しく、社会性に乏しくなってしまうのかもしれません。そう思えば、多少無理してでも自閉症のヒトこそバリバリの体育会系のところでボコボコにされるような経験を積んでみることも良いものなのかもしれませんね。

また、親しくなったと思っていても、それはあくまで自分がそう思っているだけなのかもしれないということ。親しき仲にも礼儀ありという言葉があるように、、自分が扱われたいように、先に相手に対して敬意を持って接することが大切なような気がします。
その上で、共通の目的が出来た時、初めて形式を無視して、お互いのwin-winのために、曖昧なままでも目的を達成することが可能であるのならば、初めて曖昧でも良いというのが、このPortal2というゲームで得た新しい知見だったのだように思います。

言葉は、自分を表現する最も簡単で難しいツールだと思います。
時に人を動かす大きなエネルギーにもなるし、人を死に追いやることもあります。
だからこそ、毎日1語1語考えて発言して、それについて更に熟慮し、幾度となく改善していく価値のあるものなのかもしれません。

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