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クリスマスの願い事

今年も残すところ2週間ほどとなり、季節ごとのイベント事なんかも、残すところクリスマスと、108回の鐘を突く行事くらいになりました。
今も無駄に長く存在していますが、今年もまた、いつになく色濃い1年だったような気がします。特に1番の出来事と言えば、障害者雇用に関して真剣に取り組んでいるように外面からは見えるゼネラルパートナーズと言う企業から、引導を渡されたことですかね。深く考えれば、発達障害と言うものはそういうものなんだと思いますが、気持ちの整理をするのに1か月くらいはかかった気がします。そういうったこともまた、時間が経てば存在し続けていく中で糧になっていくのかもしれません。

さて、もうすぐクリスマスという事で、クリスマスといえば欲しいモノを強請って良いイベントですよね。
私が今スグ欲しいものと言えば、安楽死制度なんですけど、それは今すぐには実現しないだろうと思っていて、でも安楽死制度なんてなくても死ぬことは可能だから、実際は勇気さえあれば不要なものな気もしています。
それでも欲しいものが出に入らない苦しさというものに直面した時、どう考えれば良いのか?と言う事を考えるきっかけとなったものであり、その苦しさから自らを解き放つ術も今はある程度手に入ったと思っているので、そのことに関して書いていこうかな、と思っています。

求不得苦

求不得苦と書いて、"ぐふとくく"と読むそうです。意味は今回の題材の通り、求めたものが手に入らない苦しみということで、そのまんまですね。
日本語の四字熟語に四苦八苦というものがありますが、この求不得苦は、八苦のうちの1つで、昔から欲しいと思っても手に入らないものというものはたくさんあったのでしょうね。
特に四苦八苦の語源となった、ゴーダマ・シッダールタが生きた時代のインドは、単純に国全体が貧しく、モノが手に入らないというより、モノが無い時代だったそうですから、ヒトが欲求の階層の下から満たす心理を考えれば、単純に生理的欲求すら満たすのが難しい時代だったはずです。

後に釈迦如来となるゴーダマ・シッダールタは、求不得苦を含む8つの苦しみに対して最も有効な解決策は、諦めることであるとしています。
この諦めるは、道理を明らかにすること。つまり、魂の輪廻の中で避けることが出来ない運命であり、そこに対して苦しいと感じること自体が徒労だから、気にしても仕方ないというニュアンスになります。

腹をいっぱいに満たすだけの食べ物や、喉を際限なく潤す水、毎日快適に夜を過ごせる寝床等があっても、どうせ来世に持ち越すことは出来ないのだから、苦から解放されるには、その無いものを強請る執着自体を手放した方が合理的であるという考え方ですね。
社会主義を提唱したマルクスは、精神は物質によって規定されると説いていますが、シャカ族の王家に生まれ、何不自由ない生活を送っていたはずのゴーダマ・シッダールタが、この境地に至るほどの無常観をどこで会得したのか、非常に興味があります。

神は居ると思う?

物質的には大変恵まれていたはずなのに、ゴーダマ・シッダールタと似た境地に至った人物が居ます。このnoteにも度々登場していますが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスという、ローマ五賢帝時代を飾る最後の名君になります。

神々には全くパワーが無いのか、それともパワーがあるのか、そのどちらか1つだ。
もしパワーが無いのなら、何故君は神に祈るのだ?
もしパワーがあるのなら、何故次のようにしないのだ?
「悪いことが起こりませんように」とか、「良いことが起こりますように」と祈ったりせずに、「自分が恐れるものを、一切恐れないように」、「自分が欲しいと思うものを、一切欲しいと思わないように」、「何が起こっても悲しまないように」と祈らないのか?

Meditations

欲しいと思うものを欲しいと思わなくなれば、欲しても手に入らない苦しさから解放される。物質的に世界で最も恵まれた人間でさえも、欲しいものが手に入らない苦しさがあったが、それがパトスであると自ら認識し、ロゴスによって自己をコントロールするということ。
精神が物質によって規定されかけるたびに自分に何度も問いかけ、その内省の中で物質から精神を切り離そうとする、彼のヒトらしさと人間らしさを見ることが出来る良いセンテンスだと思っています。

選択の自由

現在では、こういう考えを"主体性"と表現することが多いですね。
夜と霧や、ロゴセラピーで有名なヴィクトール・E・フランクルは、

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまいかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

夜と霧

これだけ読んでも、事前知識が無ければ何もわからないと思うので、凄く簡潔に言うと、ユダヤ人である彼は第2次世界大戦の時に強制収容所送りになり、様々な拷問を受けたが、それに対する反応(例えば鞭で叩かれた時に、痛いと反応するのか、無反応か)を全て自分自身の意思で決めることが出来た。ということです。
私達は日々様々な外部からの刺激を受けますが、それに対してただ動物のように情動で動くのでは、人間としての尊厳を自ら放棄しているようなもの。
そして彼もまた、物質よって精神を規定されることはなく、一見何もない中で、最後に残った意思を、理性によって発見したのかもしれません。

突き詰めていけば、何も要らない

実際は、そういうことなのかもしれません。
ただ自分の意思で、出来ることをやるということ。
出来ないものには執着せず、諦めること。

幸いにも、自分は物質的には割と恵まれている方だと考えています。
日本という国に生まれ、働かなくても最低限存在することが許されているし、図書館に行けば素晴らしい知恵がたくさん手に入ります。
死にたいと切に願って、勇気さえあれば、その願いは意志によって容易く叶えることも出来るでしょう。

ただそうやって、物質から精神を切り離すことに成功した、浮世離れした人が増えることに対して、社会というものは良しとしないからこそ、物質によって精神を規定できるような仕組みを作っているのかもしれません。
私からすれば、それこそが現代のカースト制度であり、その根幹を担うことをしている人は、奴隷商人のようなものだと思っていますが。

安楽死制度に関することについての意見を書く約束を以前したものの、未だに書けていないことに対して少し自分自身を律する必要があると考えているのですが、今年の夏前に公開されたPlan75という映像作品を見てから書きたいという思いがあったりします。
映画館に行くのが大分億劫で、行かずじまいだったのですが、中々どうしてサブスクみたいなものにも流れてこなくて、少し後悔しています。
それと、物質が精神を規定する話についても、もしかしたらどこかで触れた方が良いのかもしれないと考えています。

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