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表現 ‘しない’ ことによる秩序を発達させてきた日本社会

世の中の色々な動きや、ここのところ迷走・低迷している自分自身の人生と向き合う中で、最近1つの共通項に気付いたので整理してみることにします。

それは、(自分も含め)私たち日本人は表現『しない』ことにけているという点です。



本記事における 『表現』 の定義

話を整理しやすくする都合上、ここでは国語辞典に載っているような一般的な定義からはやや狭め、自分の個人的な思いや考えや感情を表に出すこと、と定義させてください。
つまり、単に用意された台本通りに演じたり、場の空気だけに合わせてリアクションを取ることは『表現』ではないと捉えます。
あくまでも、自分の意志に端を発する何かを外部へ表出する行為を『表現』と呼ぶこととします。


最近の私

冒頭で迷走・低迷していると書きましたが、人生のアップダウンを折れ線グラフで表すとするならば、これまでの人生で最低レベルにまで線が下がっています。(自分史上最低かというとやや微妙なので「最低レベル」)
まあ端的に言えば “人生うまくいってない” ということです。
直近半年くらいでようやっと底を打って、ここから少しずつ上昇していけるかもしれないという光が、わずかばかり見え始めたくらいのところです。

コロナ以外の要因 + コロナ禍による生活コミュニケーション環境全般の変貌により、私の人間としての/生物としての活力・エネルギー*がめちゃくちゃ落ちていることを日々感じます。
* 私は「生体エネルギー」と呼んでいます。

「再度自分を学びの海にぶち込みたい」という新たな欲望が湧いてきたのは良いことなのですが、それを目指そうにも今のように生体エネルギーが衰えて気力が落ちまくっている状態では、とてもじゃないけど走り抜けられない。
そんな危機感から私が改善の必要性を感じ始めたのが『表現』なのです。

  • ポジティブなこともネガティブなことも都度その場で表現していくことにより、自らのメンタルヘルスを良好な状態に持っていく

  • 学んだことや学びたいこと、自分の考え等を表現(アウトプット)することで、より豊かな学びや他者とのコミュニケーションを手繰り寄せることに繋げる

大きくこの2点が期待できるポイントかなと思いますが、次章では私たちが『表現』の過程においてやりがちな癖について考えてみたいと思います。


表現と日本人の癖

それでは、人が表現し(自らの思いや考えや感情を表に出し)コミュニケーションをとるときの流れを、仮に以下のような工程に整理してみましょう。

1. 人や物や事から受け取る刺激を元に感じたり考えたりする
   ▼▼
2. 1をどう表現するのか、あるいはしないのか検討する
   ▼▼
3. 表現する・表出させる(2と並行して行われることもある)
   ▼▼
4. 相手や周囲からのリアクションやフィードバックが返ってくる
   ▼▼
5. 4を受けてさらに表現する・表出させる(1からのサイクルに戻る)

実際の表現行為の手前、工程2において、私たちは表現するのかしないのか、表現するならどんな内容にするのかという検討を行うわけです。
(その作業が1秒以下なのか分単位〜年単位で掛かるのか、あるいは工程3と同時並行的に行われるのかは様々です)
これを具体シーンに近づけてイメージしてみると、私たちは自分の意志や感情を表明するとき、この表現によって場がしらけないか?自分の印象が悪くならないか?怒られたり非難されたりしないか?と、無意識のうちにたくさんの検討を重ねています。

そこで思い出したいのが、日本社会で広く当たり前に共有されている次のような価値観。

  • 空気を読む

  • 世間に迷惑を掛けない

  • ‘常識’を大事にする

よくよく考えると、私たちは空気だったり世間だったり常識のようなものを前にしたとき、『表現しない』という選択をしがちであることに気が付きます。
それはつまり、日本社会が積極的に表現のキャッチボールを繰り返して擦り合わせを図るやり方ではなく、表現を控えることで秩序を保つやり方を実践・発達させてきたということでもあるでしょう。

この仕組みは、『表現しない』という決断とそれを別のもので埋めるというアクションをとっているので、そう言う意味ではPDCAは回っていると言えなくはないかもしれません。
ただ一方で、“自分を直接的に表現する” という観点でのPDCAは全然回せていなのでは?とも思うわけです。
※もちろんおおっぴらに表現する機会が少ないというだけで、別の表現手法を豊かに育んできた側面はあるかもしれません。

念のため断っておきたいのですが、本記事では上述の日本式の秩序が良いか悪いかということを単に論じたいわけではありません。
そうではなく、私たちの暮らす社会がどういうタイプの秩序の元に動いているか、ということにまずは自覚的になることが必要だと言いたいのです。
社会の1つの形としてはアリなんだけど、メリット・デメリットがあるよねという話です。


表現しない、ことのメリット・デメリット

さて、表現を控えることで秩序を保つやり方が発達しているということは、言い換えれば実際に表現する手前段階の「表現すんのかいせんのかい* きん」が私たちは猛烈に発達しているということです(ブレーキ側がかなり強め)。
それにより『表現しない』というアクション(判断)の上手さは鍛えられ、自然と空気も読めるようになっていきます。
* ‘すんのかいせんのかい’ にぴんとこない人は「吉本新喜劇  ドリル」で検索してください。

公共空間における日本人の行儀の良さ、災害時に奪い合うのではなく自然と列に並ぶ精神、おもてなしや接客のレベルの高さ。
そういったものは、秩序と礼節を重んじた『表現しない』というアクションの賜物ではないかと思うわけです。

一方で、『表現する』というアクションはなかなか上達しません。あなたを自由に表現してください、自分の意見を述べてください、と言われても多くの人は「ええ〜っと・・」と戸惑ってしまいます。
表現すんのかいせんのかい筋が発達しすぎたことにより、「表現きん」の成長の機会を奪ってしまっているわけです。
具体的には、

  • 自分を表現する際の自信や瞬発力・バリエーション

  • 表現に対して返ってきた周囲のリアクション・フィードバックへの耐性

  • 応酬になったときのディスカッション力・交渉力

  • 表現とコミュニケーションを通じて擦り合わせようとする姿勢

が弱いと感じます。


表現することそのものが大事

そんな中、大きく見落とされているのではないかと感じるものが1つあります。

『表現する』こと自体がそもそも大切で尊いことだよね

という価値共有です。

自分の個人的な思いや考えや感情を表に出す行為、そしてそれをもっと豊かに磨いていく行為というのは、とても価値のあることだと思います。
それは、決してアーティストやクリエイターと呼ばれる人たちだけの特権ではなく、私たち一般ピーポー(一般市民)にとっても大切なことです。
日常的な小さなことから社会に向けた広いものまで、自分を表現するというのは、人間として生きる上で不可欠な営みです。

ところが、市民の表現すんのかいせんのかい筋が発達した社会では、
「その表現は正しかったのか?」
「表現しないことで生まれたであろう秩序を蹴ってまで表現すべきことだったのか?」
という点に真っ先に目が向けられ、厳しくジャッジされてしまいます。

良いか悪いか、周りに迷惑を掛けていないかどうか、
という価値基準が強すぎる

少しでも基準を満たさない表現は激しく叩かれる

『表現する』ことへのハードルは上がり続ける

より表現しなくなるからいつまでも表現が磨かれない

という負のスパイラルが生まれます。


コロナ禍で私がよく聴くようになったラジオでも、その一端が垣間見えます。
ラジオといえばリスナーからのお便りですが、お便りが読まれるときにしばしば顔を出すのがへりくだりバリアです(特に相談ごとのとき)。

拙筆乱筆・・・
長々と読みにくい文章で・・・
分かりづらかったら申し訳ありません・・・
長文失礼しました・・・

リスナーの声があるからこそ番組として愛されり立てられるし、たとえ分かりづらかったとしてもそこをおもしろくするのはパーソナリティーの役割なので別に気にすることではないし、何よりも聴いていて実際に分かりづらかったことはほとんどないのですが、それでも本当によく耳にします。
みんな何重にもへりくだって恐縮しすぎだよ〜と思いつつ、同時にこれは読み手に突っ込まれないようにするための書き手側のバリア手法でもあるなあと。
『表現する』ことに対する潜在的な恐怖や異物感があるからこそ、実際に表現しようとする際に免罪符のような枕詞まくらことばをつけたがるのではないかと思います。


もっと表現する練習をしていきませんか?

そこで提案したいのが、

小さなところからでいいからもっと表現していこうよ!
表現し合う中でより良いコミュニケーションを模索しようよ!

ということ。

なぜそう思ったかというと、
まずは最初にも書いたように最近の自分のメンタルヘルス事情や低下している生体エネルギーのこと。
ポジティブなこともネガティブなことも(好き!も嫌い!も)都度表現していかないと、自分の中で抱え込んでメンタルが落ちてしまうし、
知的好奇心を人生の活力源にしている自分にとって、ちゃんと表現し続けることが人生をワクワクさせるために必要だと悟ったからです。

次に、大きく変化する時代で生きる1人1人のこと。
最終的に自分がどういうスタイルで生きていくかは別として、表現筋を鍛えておいた方が生きる選択肢が広がるし、グローバルにコミュニケーションが取れる今の世の中で、より豊かな発見をし豊かな人生を歩んでいく助けになるでしょう。
『表現しない』も『表現する』もできる、あるいは実際に試してみた中で、自分にしっくりくる場所とスタイルを選んで生きていくというのが大事だと思います。

最後に、ダイバーシティ&インクルージョンが叫ばれ、新たなフェーズに入り始めている日本社会。
『表現しない』ことによる秩序の土台として存在していた

  • 空気を読む

  • 世間に迷惑を掛けない

  • ‘常識’を大事にする

のような共通認識とされていたものも崩れ始めています。
次章で紹介するような社会課題に対する有効な方法として『表現』の重要性は増していくし、多様な構成員が豊かに共存するためには、『表現する』ことを社会全体として磨いていく必要があると考えます。


ピンときた関連話題をいくつか紹介

『表現』についてモヤモヤする中で おっ!と思う瞬間が何回かあったので、最後に紹介させてください。


こちらは為末さんのツイート。
(facebookアカウントを持っている方は、facebook記事の方が文の切れ目がなくて読みやすいです。)

深い思索や鋭い考察を頻繁に投稿していて、よくこれだけ湧き出てくるもんだなあといつも思うのですが、この世間をお騒がせ罪は興味深いものでした。
すべての箇所に賛同はしませんが、多様性の包摂と、‘空気’ を前提とした『表現しない』ことによる秩序が両立しないという点は、私も同じ考えです。


こちらは私の好きなkemioのポッドキャスト番組。
YouTubeも楽しいのでオススメ)

たまたまゲストとして来ていたパリサさん(国内外でDJをしているらしい)の「日本の人はアウトプットの仕方が下手くそ」「東京はコントロールされすぎ色々」という話がおもしろかったです(21:29〜28:55のあたり)。
たしかに標準的な成長過程において、表現する練習や自由なアウトプットの場はあまり提供されていないかも、と聴いていて思いました。


あと以前、YouTubeで「アメリカで暮らすには毎日けんかするつもりでいなきゃ無理」というコメントと「ヨーロッパもそうですよ」というリプライを目にしました。
他にも、主張しないと生きていけないから自然と主張する力が備わるという話も聞いたことがあります。
一度そういう環境に自分をぶっこんで体感してみたいという気持ちや、前から持ち続けているフランスへの興味が、表現筋を鍛えたい理由の1つにもなっています。


こちらは芸人のロザンの2人が語り合うYouTubeチャンネル。
色々な角度から話をしているのですが、動画の後半で宇治原さんが話した例が印象的でした。(11:02〜)

「すいませんベビーカーです、ご協力ください」って、僕はハッキリと言うんです。

何気なく聴いていたのにふいに感動してしまいました。そういうコミュニケーションをもうちょっととっていってもいいんじゃない?という意見にはほんとに大賛成です。
菅さんのちゃちゃ入れが炸裂するのも最高なのでぜひ。


こちらは「それってあなたの感想ですよね」で有名なひろゆきさんのツイートです。
(最近たまたま見ておもしろかった「日経テレ東大学」チャンネルの夫婦共演あのちゃんとの旅動画もペタリ)

お騒がせ罪の話とも繋がってきますが、「空気を」とか「常識が」で紛糾するのではなく、もっとコミュニケーションをとっていこうぜという方向性はその通りだなと思います。
たとえ今すぐには難しいとしても、私たちがチャレンジしていくべきことでしょう。


'23/01/08 最終更新(本文)
'23/01/14 最終更新(タイトル一部変更)
'23/08/21 最終更新(見出し画像・目次の位置)

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