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“誰も傷つけない” は目指すべきではない

最近よく耳にするようになった『誰も傷つけない』という言葉。

これまで光が当たらなかったマイノリティや気にされることのなかった弱者たちへの、無自覚な加害や差別に気づき、そこに「傷ついている」人たちがいることに自覚的になろう。

おそらく初めはこういった文脈から使われ始めた言葉ではないかと推測しますが、今や言葉だけが一人歩きして薄っぺらい自己防御のための使われ方をしているような気がしてなりません。

ヨーロッパではポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)疲れによるバックラッシュが先んじて生じていると聞きます。
日本の『誰も傷つけない』も、もしかしたら一種のストレス反応なのかもしれないですね。

ここからは私が感じている違和感を何章かに分けて書いてみようと思います。


「誰かを傷つけ得る」という事実と向き合え

端的に言うと、『誰も傷つけない』は人間をやめろと言っているのと同じです。実現は不可能なのです。
もし誰も傷つけず360度完全無害で生きられると思っているのなら、それは生きることを舐めているし、この世界が見えていません。
人間は何十年と生き続ける中で、数えきれないほど人を傷つけながら生きます。またその逆も然り。

だから、誰かしらを傷つけながら生きるという原罪に向き合え、ちゃんと腹をくくれ、と言いたい。
『誰も傷つけない』などと軽々しく口にできるのは、ただの自己防御であり、この混沌とした世の中で自分だけ都合よく無害な存在でいようとするエゴだとすら思えます。
そのような現実逃避や一時的な空想は、決して本質的な改善には繋がりません。

さらに言うと「共存を目指して多様性とその包摂を涵養していこう」という昨今においては、人々の多様度が増すほど傷つき方もより多様になるので、『誰も傷つけない』が困難になることは明らかです。
皮肉なことですが、多様であることと『誰も傷つけない』は両立できないのです。むしろ全人類が一様で同傾向である方が、『誰も傷つけない』は実現しやすくなります。


社会的合意形成と豊かな共存に向けて

『誰も傷つけない』が空想であるとするならば、じゃあ「無自覚な加害や差別に気づき、そこに傷ついている人たちがいることに自覚的になろう」という当初の文脈に対しては何ができるでしょうか?

『誰も傷つけない』という解決策は、表現を控えることによる調和が得意な日本人らしい発想とも言えますが、実際に取り組むべきは表現を繰り返すことによる擦り合わせだと私は考えます。
大事なのは誰も傷つけないことではなく、誰かが傷ついた/傷つきそうなときに

  • どう既存の営みを見直し社会的なコンセンサスを調整していくのか?

  • どう相互の豊かなコミュニケーションと豊かな共存に繋げていくのか?

という点ではないでしょうか。


傷つく可能性を表現の段階で徹底的に排除するのであれば、それは「豊かで共存可能なコミュニケーションを模索する」という大事な命題を忘れています。
あらゆるリスクを排除し続けほとんど何も言えなくなったとき、私たちはもはや人間ではなくなります。
『誰も傷つけない』がたとえ実現したとしても「人間としての豊かさ」を失ってしまったら本末転倒ですよね。

何を目指して傷つく・傷つけないという話をするのか気を付けないと、私たちは大きく足を踏み外すことになります。


笑いをどう捉えるか

『誰も傷つけない』シリーズはお笑いの領域にも進出しており、特に「誰も傷つけない笑いが良い」というコメントはあちこちで散見されます。
私は、浅はかなことを・・と苦々しく感じている一人です。

人間は何に笑うのか?
アカデミックな研究でとっくの昔に体系的な分類がされているんだろうとは思いますが、私がパッと書き出せる種類としては以下のようなものでしょうか。

変な言動
上手くできない姿
不思議な見た目
批判や皮肉
自らの不遇さ

よくよく考えてみると、どのテーマも「おかしいよね?」と ‘ふつうじゃない’ 人や事を笑っています。

笑いと不幸
笑いと怒り
笑いと哀しみ
笑いと属性
笑いと政治
笑いと人間関係
  :

笑うという行為は実は色んな感情や生活と繋がっていて、これは傷つく ⇔ これは傷つかないなどと、簡単に白黒分けられるものではないですよね。
笑いというのはとても深淵な行為で、そもそもが傷つく/傷つけることと隣り合わせの行為だと言えると思います。

いいかげん、有害か無害かみたいな極端な単純化で楽をするのはやめませんか。


ロザンのお二人の話もちょっとおもしろいので貼っておきます。


‘傷つく’ は2段階以上に分類しよう

以前こちらの記事でも触れましたが、「傷つく」はかなり広い意味合いの言葉です。人によって解釈の違いが生まれやすいのです。
つまり、同じように使っている「傷つく」でも実は定義が異なるということが、おそらく頻繁に起きています。

こういう上っ面の言葉だけに捉われて話をしていると、いつまでも本質的な議論はできません。
私は少なくとも2段階以上に定義を分けて話すべきだと考えます。

  1. 日常的・表面的・ごく個人的に起き得るライトな ‘傷つく’

  2. アイデンティティの深いところや尊厳のレベルで影響の出る ‘傷つく’

1 については、よく言われるように「生きてりゃ日々傷つくことだらけよ」の一言で片付きます。
「世界はあなたを傷つけないようにはできていない」というスーさん(ジェーン・スー)の言葉も私の中では印象的ですが、この比較的ライトなレベルの傷つきをゼロにしようとするのは無理な話です。それに、そこをなくそうと取り組むことがはたして豊かな社会に繋がるのかと考えると、限りなく疑問符が増えていきます。

一方で、もっと深いレベル。
特定の存在や属性に対して、アイデンティティの基幹部分だったり人の尊厳に影響を及ぼすレベルである 2については、少し線引きして考える必要があると思っています。


今世の中に氾濫している「傷つく」は、残念ながらこういった複数のレベルの ‘傷つく’ が入り混じっています。
だから、

「このカルチャーって素晴らしいよね!みんなもっと語ろうよ。」と言うと
「私それ大っ嫌いなんだよね。大嫌いなものを世に広めようとかすごいメンタル傷つくからやめてもらえる?」

「○○が好きだ!」と言うと
「私の大好きなあの人が私じゃない別の人のことを好きって言ってる。傷ついた、、」

のような、「不快だ・嫌いだ」をむやみに「傷ついた」に置き換えて被害者性で武装しようとしたり、
その傷つきを発信側に意識させて配慮を求めて何になるの?それやってると、そのうち誰も何も発信できなくなるよ。
というものまで混入してしまう事態が起きています。

ぶわっとうねりが起きるときというのは、往々にして誰もが当事者意識を持ったり認識しやすい抽象的な言葉が拡散しがちですが、だからこそ逆に各人のイメージに振れ幅が出やすくなってしまいます。
それに気付かず不毛なやり合いを繰り返していると、本質的な議論が進まず誰もハッピーにならないので、自分がどういった定義の下に主張を述べているのかを相手に対して明らかにすることがとても重要だと思います。


'22/12/31 最終更新

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