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ネット上にあふれているそれ、本当に「コミュニケーション」と言えますか?

24・25日のTRP(Tokyo Rainbow Pride)からゴールデンウィークにかけては「Pride Week」と呼ばれ、期間中に様々なイベントが催されています。

それに絡めてLGBTQ+の動きについての考えを今まとめているのですが、
先に整理しておきたい話が出てきたので、1つの記事として独立して切り出すことにします。


これは、様々なトピックにわりと共通して起こっていることで、今後書く予定の「差別」や「ハラスメント」の話題にも深く関係してくるので、
すぐに引用できるようにしたい、という意味合いもあります。

 

 

そもそも前提や定義が共有できていない問題

まず散見されるのが、お互いにバラバラの前提条件や異なった定義のまま、意見をぶつけ合っているケースです。

特に、「差別」や「傷つく/傷つける」あたりのワードは、互いに擦り合わせることなくみんながそれぞれ自分なりの解釈のまま殴り合っていることが多いので、しんどいなあと感じることがよくあります。


議論や対話において、最低限土台となる認識や言葉の定義を共有しておくことはとても大切です。
なぜなら、それがないとそもそも議論や対話自体が成り立たないからです。


例えば、私は「子どもは社会において弱い立場に置かれがちであり、まずは『保護』という発想が第一にくるべきである」と思っている。
相手は「社会で暮らしていく上では秩序が重要で、社会秩序を保つ上では大人も子どもも関係なく扱うべき」と思っている。

この状態で未成年の犯罪に対しての対応方法を話し合っても、すぐには噛み合わないですよね。

まずは、自分が前提としている発想や条件を互いに示しておく、あるいは相手がそれを悟りやすいような表現を入れながら意見表明する必要があります。
前提条件の共有】


例えば、「目を合わせただけでも浮気になる」と定義している人と、「一緒に食事に行くのはOK、キスは浮気」と定義する人が浮気の話題について意見交換しても、スムーズにいかないですよね。

よい意見交換にするには、浮気の定義をお互いに擦り合わせておく、あるいは自分の中の浮気の定義を相手に明示した上で話し始める必要があります。
言葉の定義の共有】


また別記事で詳述することになるとは思いますが、「傷つく/傷つける」については表面的に「傷つく」のか、尊厳や人格のレベルで「傷つく」のか、少なくとも2階層以上に分解して話すべきです。

そのトピックにおいて頻出で重要な役割を果たすワードについては、特に慎重に定義の食い違いに目をやらないといけません。

そしてそのためには、1人1人が言葉や状況について再解釈・再定義を意識的に行っていくことが大切です。


この2つはそれなりに面倒くさくて時間が掛かります。

時間は掛かりますが、やらないと良い議論や対話がいつまで経っても生まれません。
世の中には効率化に向かないものがたくさんありますが、話し合いや人間関係の構築といったものはその代表例でしょう。

時間が掛かるのが当たり前だし、仮に手段があったとしてもむやみやたらに効率化するのではなく、意識的に時間を掛けることが大事だと考えます。


この問題、
日本人は教育で議論や意見表明の訓練をあまりしていないから余計にひどくなっているのか、
あるいは使うツールの問題か、
あるいは世界的に特定のトピックに関してはそうなりやすい傾向があるのか、

定かではありませんが、見ているとけっこうフラストレーションが溜まります。。

 

 

単純化・複合化しすぎ問題

色んな人が言うように、人間はとにかく楽をする生き物です。

物事を単純化して考えたり話したりしようとする癖があります。
善と悪がパキッと分かれていて、両者がわかりやすく戦う娯楽作品は人気がありますよね。
(脳科学的にもなにかそういう話があったような、なかったような)


一方で、現実世界は複雑です。
点でも線でも面でもなく、立体的に多角的に捉える必要があるでしょう。

複雑なことをなるべく平易な表現で置き換えて説明したり、理解の助けにしたりすることはよくあります。
そしてそれができる人は一流だと言われたりもします。
ただし、これには注意点があります。

1つ目は「平易な表現に直す=単純化する、ではないこと」。

そして2つ目は、「“本質から逸脱しない範囲で” を忘れてはけないこと」です。


複雑なことは、本質を見失わないためにもある程度複雑なまま、分解しながら議論を進めていく必要があります。
安易な単純化や、複数の論点を混ぜこぜで語るのは非常に危ういです。

でも、そういうことが実際起こっているんですよね。
みんな、単純化・複合化しすぎよ~。と言いたい。
(自分もどこかでやってしまっているはずなので、自戒も込めて)

 

 

SNSの使い方に難あり問題

私も常に距離感や使い方を模索するように意識はしているのですが、現代人はSNSにブンブン振り回されています。

技術や世の中の変化が早すぎて、私たち人間の方が追い付いていない典型例かと思います。


まず忘れたくないのが、SNSは議論することを前提としたプラットフォームではないことです。

SNS上で社会に関して様々な声がビュンビュン飛び交うのは、今や日常になりました。
議論ぽいものもよく見かけます。

私は「SNSでまともな議論や意見交換ができる」と思わない方がよいと感じています。

Twitterはよくも悪くも「感情の加速器」それを心得た上で使うべし

これは、私がTwitterアカウントのプロフィール欄に載せている言葉です。

 

SNSは人間の「感情」と非常に相性が良いです。
共感や興奮、怒り、不安、そういった感情を、何倍にも増幅しとてつもないエネルギーを起こしやすい環境です。

研究者によっても明らかにされているように、特に負の感情は増幅されやすいです。

一方で、長文や複雑なものを伝えるには相当のテクニックが求められますし、
たとえどんなに練られた素晴らしい発信をしたとしても、いとも簡単に切り取りや曲解が発生し、
まともなコミュニケーションに繋げるのは容易ではありません。


本当は恋文のようにアンサー記事を書き合って意見交換したり、オフラインで顔を付き合わせてコミュニケーションしてみたり、
良い意見交換や議論とはそういう面倒くさい時間を掛けてこそ生まれるものですが、

SNSはスピードが命。

素早く反応してバズらせて、相手を困らせた方が偉くて正しいように見えてしまうのです。


そう。
だからこそ、
「SNSで声が大きい=世の中の多数派=正しい」
という思い込みの図式に陥ってはいけません。

SNSで声が大きいのは、よくも悪くも使い方がうまいからだと思います(意図的⇔たまたまの両方があります)。

正しいかどうか/本質的かどうかとはなんの関連性もないので、参考程度に留めておくのがいいのではないでしょうか。

もちろん、これまで埋もれていた小さいけど大切な叫びを可視化してくれるという良い効果もあることにはありますが。

 

 

いったん以上です。
また何か気付きがあれば、適宜追記編集したいと思います。

 

'21/04/30 最終更新

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