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「人生フルーツ」@自ら暮らしを創る

正月に東海テレビ制作のドキュメント映画のいくつかが地上波で放送されました。そのなかに映画館に観に行こうと思っていて行き損ねたものが「人生フルーツ」です。

「人生フルーツ」は、この社会の王道である高学歴で建築家の男と妻が、社会に対する違和感によりこの社会と一線を画す生活を営みます。
自らの手で庭に畑をつくり果樹園をつくり雑木林をつくり、落葉を集めて土をつくり木でおもちゃをつくり家の補修をしてスローな時間を過ごします。
こんな生活、そもそも田舎はこんな感じだったのかもしれません。
昭和の頃は、田舎の若者がこんな暮らしを毛嫌いして華の都に夢みてでてくる、というドラマがよくありました。そういえば華の都で仕掛けられた刺激に載せられてハンカチーフ一枚で田舎と絶縁した青年はその後どうなったのでしょうか?笑。
まあ「人生フルーツ」は、今でも若人や都しか知らない大人には響かないドキュメンタリーかもしれませんが、捏造された価値観に脅迫されるかの喧噪に辟易とする年齢になると、そんな暮らしに憧れるものです。
草刈りと水やりと土作りと収穫と、そうして一日が過ぎていく。
瓶に水を貯め「小鳥の水、どうぞ」なんて小さな看板を立て、ほんの少し生活に色を添えて楽しむ。いいじゃないですか。
では、花の都への脱出を図った青少年たちと、人生フルーツの老夫婦はどこがちがうのか?
老夫婦は田舎風の暮らしにポジティブになり自ら暮らしそのものを創った。
青少年たちは田舎の暮らしにポジティブになれなかった。
青少年たちがポジティブになれなかったのは、自らの暮らしを自ら創れなかったからかもしれません。田舎の風習や伝統、継承と抑圧はそれはそれは強力だと聞きますから。それを押し付けられてはやってられませんね。
では、都へでてそこから自由になれたのか?
それは解りません。解りませんが、、、
田舎の圧力からは自由になれたかもしれませんが、やはり都で他者に仕掛けられたものに乗せられ、それを自由を得たとして自らを誤魔化したのではないかな?もしかしたら自らを誤魔化すことに気づく以前かもしれませんね。
ああそうか、とすると「人生フルーツ」の中心世界は「田舎風の暮らし」ではなく、「自らの暮らしを自らで創る」ことなのかもしれません。
その精神世界は、誰かに与えられるものではなく、もちろん社会的価値を見出そうとするものでもなく、自らの感性のまま「自然に生きている」ものだと感じました。
「自然に生きる」ことが「自然な感性のまま」ならば、環境は田舎でも都でもいいのですが、それでも「自然に生きている」ということは「自然の近くで生きる」ことかな?と個人的には夢をみます。

90歳をすぎても毎日、自然に生きている老人はある日、庭で草刈りをして家に戻り、少し横になったまま永眠しました。
なんてステキなんだろう。
死が物語っているような気がします。
自然に生きることとは、すなわち自然に死ぬことなのかもしれません。
ボクも「人生フルーツ」にむけて舵をとっていきたいものです。

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