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まわり道

唐突だが今期の朝ドラ「半分青い」は、かなりお気に入りである。
いつものように朝支度のなかで惰性で観るのではなく、観たくて観ているという感じ。
別に何か為になるとか、考えさせられるというのではなくて、単に娯楽として面白いという理由なのだけどね。
でも今朝の内容には少しだけ考えさせられている。

岐阜の田舎で育った少女(すずめ)が人気漫画家(秋風)に弟子入りするという物語なのだが、すずめはあっさりくっきり漫画家になるんだと決心して上京し修行している。
すずめの幼馴染の少年(律)も大学へいくため上京して、なんやかんやで東京でもすずめと絡んでいる。
そんななか秋風と律が話しをするシーンが今朝あった。
律は、すずめのように将来何をしたいのか決まっていないし、夢がなになのか解らないと呟く。
そんな律に秋風は自身の漫画家になるまでの経緯を話す。
いろいろ「まわり道」をしてから漫画家になったと。
いろいろなことがあった全てが今に繋がっている、全ては実りのある時間だった、と言う。

で、考えてしまったのはここだ。
ボクは、こうした話を聞くたび自己を振り返ってしまう。
秋風の言葉は、話としては別に珍しくもなくよく聞く話なのだが、こうした話を聞く年齢ごとに思いも変遷していくよなぁ、とある意味感慨深い。
ボクは律と同じで若いときより、特に「なりたい像」「やりたい職業」、いわゆる「夢」などなかった。取り敢えず生活するために労働をする。ということでずっとやってきた。
秋風はこのあたりを「まわり道」として、ある時「漫画家になる」と決心して、仕事をやめて退路をたって漫画家を目指した、と語った。
おそらくこう語る秋風と今のボクは似たような年齢に違いない。
ボクといえば、いまだに秋風のいうところの「まわり道」のままである。
秋風のように特になにか一大決心をして「まわり道」から「本道」に移ることがないまま、ここまできた。

とはいえ、「やりたいこと」「好きなこと」をしないでここまできたか、というそうでもない。
職業以外のところではやってきた。
思い立って10年ほどホームレスと共にいた。その後の10年は子どもの保育運動みたいなことをやったり、並行して12年ほど思索としてブログでテキストを綴ってみたり、最近は「傾聴」という新しい趣味をはじめてみたり、、、あ、ヤバっ、思わずでた、はたしてこれらは「趣味」なのだろうか?ということ。でも、ずっとやってきたテニス(辞めた)やスキー(辞めた)やバンド(辞めた)やソロギター(継続中)や写真撮影(継続中)が趣味というイメージで、それとは違うという思いもある。
上に挙げたものは前グループも含め、それぞれにプロという道があり、職業になりうる。しかも単に生活のための賃金を稼ぐ労働ではなく、「仕事」としてなりたつのだろう。(スポーツの仕事としての目的は実はボクにはよく分からないが、^^;)
秋風が漫画家になるというのは、マンガを書くという趣味ではなく、漫画家になるという決心であり、それで金を稼ぐというよりも、それを「極める」ということなのだろう。
比較してボクが、前述のそれぞれを極めようとしたのか自問するなら、「否」と言わざる得なく、つまり、これだけ年齢を重ねたにもかかわらず未だ「本道」は見えていない。

流石に拙い。時間がない。
このままでは「まわり道」のまま終わってしまう。
今朝、連ドラを観て焦った、、、と、実はそんなこともないんだけどね。
焦ってみたところで稲妻に打たれるような何かが閃くわけではないことはもう解っている。
だてに年齢を重ねていない。ドラマをみて焦るほど若くはないわけだ。
でもやはり年齢に関係なく「本道」に出会うために「まわり道」を続けるしかないかな、とは少し考えてしまう。
でも「夢」など浮かばない。
これほど「夢」がないと、もはや「まわり道」そのものが「本道」のような気さえしてくる。いや、ちょっと待て、そもそも「本道」などというものがあるのだろうか?と開き直ってみる。
秋風にしても漫画家という「本道」もまた「まわり道」の可能性だってあるわけだ。だって所詮、人生は「死」までの「まわり道」ではないか、もちろん人である限り秋風だって例外ではない。
これを言ってしまえば、全ての人が同じである。
「なりたい像」も「やりたい仕事」も「夢」も人生の途中にある手段だろう。それらになることがゴールではないということは秋風だって言いそうである。
ではゴールとは何か?
ほんとのゴールとは死である。
人生とは死ぬまで生きることであり、生きることは「生きる」とは何かを識ることではないのか? その手段として「夢」があるのではないだろうか。
つまり秋風の「漫画家になりたい」だって、漫画家そのものになることが「本道」ではなく、漫画を描くことを通して何かを表現するためで、さて表現したいことがなんであるか「識る」ために違いない。マンガを通して表現することで「識る」が何であるかを探っているのではないか?
その表現は、恋愛や友情や、、いろいろなテーマがあるかもしれないが、とどのつまり「生きる」とは何かを「識る」に集約されるに違いない。
その「識る」が人生の「本道」ならば、漫画家だって手段というの名の「まわり道」ではないか。
漫画にしろ音楽にしろ、写真にしろ別の仕事にしろ「表現」とは、表現することのみを目的としているのではないだろう。
表現の向こうにある「生きるということの何か」を「識る」ことを目指しているのではないのか?

秋風の言葉を借りるなら、いろいろなことがあった全てが「識る」に繋がっている、と感じる。
生きているうちに、生きることが何か、を識ることができたなら、識ってからは「夢」など超越して「ただ生きる」ことができるのかもしれない。これこそが「極める」としたいところである。
本当のゴールまでの「まわり道」をゆっくりと楽しみながら。
もちろん今の「識る」までの「まわり道」もゆっくり楽しむことができるさ、きっと。


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