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なぜ、人だけが自殺をするのか @ TBとして

いわゆる一昔前w?のブログってやつにはTB(トラックバック)って機能があったんだよね。
誰かのエントリー(ひとつのテキストの公開)について感想なり、そこから考えさせられたことや、反証やらを自分のブログに「あなたの書いたことを読んでワタシはこんな風に考えましたよぉ」と公開して、ネタ元のブロガーにお知らせするってヤツ。
そこから深い対話になったり、それをたまたま読んでいた第三者がネタ元を読んだり、対話に加わったりって展開になると、皆が思索を深められていいよね、となるか、反証なんかだと対話ならぬ我の張り合いとなってただの喧嘩になって泥沼化したりするのが面倒なんだけど、、^^;

noteだと、一応「作品」の発表の場みたいな位置づけだと思うので、その「作品」についての「とやかく」を書こうものなら、どこのお偉い批評家さんなの、なんてなりかねないね、笑。やっぱnoteにTBは不似合いなのかもしれない。
ボク自身、noterさんのコメント欄に、軽いTB的な「意見」なんかを書いちゃったりして何度も失敗しているのでめちゃ自嘲、いやもといnoteではかなり自重している。
でもね、作品系じゃなくホントに考えさせられるnoteを読むと考えずにいられなくなり、つい考えをテキストにしたくなり、それを公開したくなり、してしまう、ということになる。
もちろん、考えさせてくれることに感謝して、思索を深めあえたらいいというのがベースである\(^o^)/

さてまたしても前置きが長くなってしまったが、表題のnoteに対してのTBです^^

なぜ、人だけが自殺するのか」
動物が自殺するって聞いたことがない。
人だけが自らの命を断つ。これは社会が歪んでいるからなのかな。
生きづらい社会だからかな。

これがネタ元のnoteの表題と出だしの引用である。
実はボクも同じようなことを考えていた。ずっと考えていたわけでなく、断続的に答えがでないままに考え続きてきた。
でもね、同じ内容でも他者が書いたものだと、ちょっと新たな思索も編まれてくる。このあたりの新鮮さは好きである。

まず、自殺するのは人だけかな? 動物は自殺しないのか?
あらためて考えるとそうでもないかもしれない。と閃いた。
人間が自殺するのは現実だし、事実だろう。では動物はしないのか?
ほんとに??
考えていて思い浮かんだのが動物園の動物である。
動物園の動物は動物園の檻に入れられたから死んだ、といえる例は多数あるのではないだろうか?
自然のなかで生きていたものが捕まえられ、狭い檻にいれられる。ググってみるとそうした動物のなかには「常同行動」という異常行動がみられるものがあるようだ。「ストレス」とも書かれているし、人間と同じように「自傷行為」等もあるらしい(・o・)。
そうした精神状態ののち、それが原因で死ぬこともあるのではないか?
それを自殺というかどうかは、動物に自我があったり意識があったりして意志によって自らを殺すとするのかは解らない。
でもね、身体的に無理がかさなり「身体の意志」によって自らの死を選択するとはいえないか?
「身体の意志」って思わず書いてしまったが、なんだろう?
人間の「意志」といえば意識によるアタマで考える「意志」かもしれない。でもね。
人間はアタマデッカチになり、アタマで考える「意志」の位置づけが絶対的になったが、意識での意志では理由付けできない身体の発露はいくらでもある。
風邪をひく、、なんて、アタマの意志でコントロールできないよね。
そうした発露を「身体の意志」とするなら、ストレスによる動物園の動物の死は、限界を越えてしまった「身体の意志」による自殺といえるのではないか。(限界を超えたなんて理由をつけたものの、身体に負のベクトルの「意志」があるかは疑問もあるのだが^^;)
人間の自殺においてもストレス等によって心身が追い込まれたあと、実際に自ら死に至らしめるのは意識の意志によるのか、身体の意志によるのか判別できるのだろうか?
やっり意識による意志かもしれないが、不自然におかれつづけた身体の可能性としては解らない。
(だんだん、人間だけが意識による意志をもったから自殺するようにも思えてきたが、不自然における身体の発露は身体の意志をも狂わせ負のベクトルにへと向かわせる可能性があるのかもしれない、とりあえずありときます^^;)
いやいや、ここで言いたいのは、動物園の動物は人為によって管理された動物であって自然の動物ではなくなってしまっている、ということ。
そして「自然」ではない「不自然」な死をむかえる動物が多々いるということです。

だから、冒頭の引用も、
人間だけが自殺をする。「自然の生物(すべて)」は自殺しない。
と、するほうがボクにとっては解りやすい。

自然は自殺をしない。人間は自殺する。それは人間が不自然なほうに身をおいてしまったから。

「動物は自殺しない」を出してくれたおかげでこの考えが強くなったわけ。
人間界の動物園の動物は「不自然」だから自殺している(可能性がある)。
人間は動物園の動物と同じ人間界という「不自然」な環境にいる。
人間が人間的な目線で「自然は外において」人間中心の「自然ではない」社会をつくる。

前段落、最後のセンテンスは、いま内山節の“「里」という思想”という本を読んでいる影響。
東京と上野村という96%が森という自然の村で交互に過ごす著者が次のようなことを書いている。

景色もまた上野村と東京とでは、違うものとして存在している。東京では私にとって景色は、漠然と他者である。私の外に展開しているものにすぎない。ところが上野村にいるときは、景色は他者ではなく、むしろ私の存在の一部としてくい込んでいる。早春の景色が私を畑に連れていくように。私もまた、自分が自然と村人のつくりだす景色の一部になっていることに気づいて安心する。
すべての時間が平等で、主体と客体を分ける必要のない世界。私はこの世界に、時間が無事に展開していると感じる世界を、自然と人間が無事存在している世界を感じとる。(「里」という思想 44pより)

「安心する」のであり、「無事存在している世界」なのだ。
もちろん人間目線で「自然」という「言葉」をつかったテキストであるので不自然と言えるかもしれないが、しかたない。人間が言葉にするすべては「観念」をもってしまった人間の思索でしかありえないのだから。それでもこのニュアンスに深いものを感じる。
もし自然の生物が自殺しないなら、人間も引用のテキストのように自然を自己の外におくのではなく、自然と自己を同化し、「自然」という観念も「自己」という観念も霧散するほど一体化すれば、すくなくとも「自殺」というものは限りなく少なくなるような気はする。
動物園の動物は「自然」を身体の外に強制的に置かされた。だから自殺をする。とも。

今の西洋的な近代の社会は、「人間も自然の一部である」を捨てて人間中心にすえ自然を外におく、不自然な文明的な「発展、発達」を選択した。けっか今の「不自然」な社会がある。
「不自然」である限り「自然生物」である人間の自殺はなくならない。
「不自然」な動物園の動物の心身が異常をきたし、やがて自ら命を落とすように。
動物園が動物のことを思い、どれだけ環境を自然に近づけようがそれは人間が捏造する「虚構」なのである。「虚構」は「不自然」であり、「不自然」は「自然な生」に異常をきたす。
貨幣、人権、平等、国家、法律、アイデンティティ、生きがいetc。人間はいくつもの「不自然」の拙い部分を補強するために、もしくは人間中心を補強するために「虚構」を捏造した。それでもやはり、自然を外におくかぎり「不自然」なのだ。・・・・この「虚構」から先はさらに長くなるので、今回はこれぐらい^^; でも、自殺が在ることについて、
社会の内容がとやかくというより、社会そのものが「不自然」だから自殺が在る、と思う。

話しは飛ぶが、もしかしたら週末に森を歩きながら「森から帰りたくない」と感じるのは「自然と一体になりたい」という人間のなかに隠されている自然生物的な部分の発露なのかもしれない。まあ、動物園の動物が再び自然にふれたら全力で逃走し、「檻」から逃れようとするにちがいない、、、それと同じかな?
もっとも人間のつくる不自然(社会)は人間にそこで適応しろと求めるし、みなが適応しようと努力して多数は適応できている。適応できている多数は不自然度が高く、適応できない少数は自然回帰できる能力をもった人間なのかもしれない。
もちろん自殺するのは後者なのだけど、だからこそ、自殺せずにその「能力」を伸ばし「不自然」の上をいって欲しいと、能力に乏しいワタシは思うのだ^^

(テーマの写真を選んだことの追記)
自然界にあっても卵を温める小鳥が人間という「不自然」に目をかけられただけで、ストレスにより自殺ならぬ子殺し(ネグレクト的な)をする可能性があるなぁ sigh orz



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