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㊹ラオスのススメ/アメリカや日本から学べず、ラオスから学べること

 さて、いったい何がラオスにあるというのか?良い質問だ。たぶん。でもそんなことを訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。
 しかしそう問われて、あらためて考えてみて、ラオスという国について自分がほとんど何も知らないことに気づく。これまでとくにラオスに興味を持ったこともなかった。それが地図のどのあたりに位置するのか、それさえろくに知らなかった。あなたもおそらく同じようなものではないかと、僕は(かなり勝手に)推察してしまうのだけれど。

「ラオスにいったい何があると言うんですか?」村上春樹

さて、村上春樹さんの質問を冒頭に書きました。

私なりの答えです。

ラオスにくると癒されることが多いです。

夏休みにラオスでリフレッシュできました。そして、冬休みも同様にリフレッシュできました。

よく考えてみると、ラオスで時間を過ごすことで、人間性を取り戻すことができました。

マッサージをして血流が豊かになるとか、情報の荒波から隔絶されて1日中ボーっとして考えごとができるという肉体的な疲労回復や自分の時間を取り戻せることができるだけではありません。

なぜ、ラオスで人間性を取り戻せると感じるのか?3度目のラオス滞在でずーっと考えていました。

養老孟司さんの「遺言」という本を手にして腑に落ちました(文字通り紙の本を手にして)。

以下引用です。

 実生活の中で感覚を復元する。これもむずかしい世の中になった。効率や経済、つまり便宜やお金で計れば、感覚は下位に置かれる。ビルの中では、とにかく床は平坦で同じ硬さである。田んぼ森の中で働いたら、そんなわけはないだろうとすぐにわかる。しかし、そんなわけはないだろうといっても、怪訝な顔をされるだけ。日常とは怖いもので、慣れたものなら「それで当然」であり、そうでないものは考えたくもないのである。
 根本的にそこから生じた社会の病が、日本では少子化であろう。「はじめに」に書いたように、私は元宇品(もとうじな)の海岸でイヌを見ていた。    
 数十人の子どもたちを連れていたのだけれど、子どもたちよりイヌのほうが幸せそうだったことは間違いない。ヒトは子どもといえども、むずかしい。イヌは身体が濡れていてもいいけれども、子どもはそうはいかない。すでに子どもはしっかり現代社会に取り込まれている。子どもなりの予定があり、しなければならないことも多い。子どもだって大人並みに、自殺したり、他人を殺したりするのである。
 現代日本では、イヌ、ネコ合わせて二千万頭という。ペットが多いのも、その反映であろう。子どもだと、かなりきちんと管理しなければならない。ペットなら、手抜きの管理でも、まあなんとかなる。イヌがヒトを咬んだりすれば飼い主が責任を問われる。だから紐でつなぐ。イヌは外からの危険を知らせたり追い払ったりする存在だったが、おかげでなんのためにヒトがイヌを家畜化したのか、わからなくなった。だから中山間地域では鳥獣害が問題になる。イヌがいないんだから、当然であろう。クマもイノシシもサルも、あるいはタヌキもアナグマも、畑に喜んで出てくる。作物のほうが野生のものより栄養価が高く、美味に決まっている。そこにヒトと動物の違いはない。
 イノシシが来ないように、電気柵を設ける。シカはそれを跳び越すので、二メートルを超える金網を張る。それでもサルが上がるので、漁網の古いのを横全体に張る。子ザルが網に引っかかって、動けなくなるらしい。あとは上空から侵入してくるカラスだけである。そこも網を張るしかないであろう。ヒトがなぜイヌを飼うようになったのか、現代日本社会、たとえば鳥獣害を見ていると、しみじみとわかる。そこでイヌを話すと、保健所が捕獲に来ることになる。ご苦労様というしかない。
 つい先日、プードルを抱いて散歩している人を見かけた。イヌの散歩か、飼い主の散歩か、哲学的にむすかしい問題を発見してしまった。ヒトでいえば、私ほどの年配の女性に相談を受けた。あちこちの医療機関で診てもらったが、特別なことはない。でも頭が重いし、元気がないし、しびれ感があるし、耳鳴りがひどい。それを一時間にわたって訴え続ける。聞いていて、びっくりする。この人は感覚が欠如しているのだろうか。外の世界が一切話題にならないからである。目も耳も触覚も、じつは外界を把握するために存在している。でもこの人はそれを完全に無視して、感覚は自分の身体に関することだけに集中している。いうなれば、「意識の中に住む」という。現代人の典型であろう。

遺言」養老孟司 おわりに

私のように日本の東京という人工都市(コンクリートジャングル)で、毎朝満員電車に揺られて、黒いスーツ姿の集団と一緒に改札を通り、コンクリートの巨大な建物に吸い寄せされていくという体験を日々繰り返していると、人間の生来の感覚を失いそうになります。

そういった意味で、フッと電車に吸い込まれてしまう飛び降り自殺が少なくないというのは理解できます。
ヒトの感覚を取り戻すために、時たま日比谷公園を散歩したり、休日に東京郊外に出てみるというバランスを無理やり維持しようとしています。

極度にバランスの欠いているように見える人が大勢います。
しかし、養老さんが描いているように感覚が価値を失ってしまった日本では仕方のないことなのです。おそらく、そういった人にとっては日本で生きることが自然であり、当たり前であり、人間らしいことなのです。日本以外の国に行っても、自分の周りで起こることが全て不快に思えるに違いありません。

しかし、バランスのあるヒトにはラオスはオススメです。当たり前のことが当たり前のように起こって、日常が過ぎ去っていきます。

私たちが失ってしまった人間性が、ラオスには当たり前のようにありました。

最後に、村上春樹さんの著書の引用で終わりにします。

ルアンプラバンで歩いてのんびり寺院を巡りながら、ひとつ気がついたことがある。それは「普段(日本で暮らしているとき)僕らはあまりきちんとものを見てはいなかったんだな」ということだ。僕らはもちろん毎日いろんなものを見てはいるんだけど、でもそれは見る必要があるから見ているのであって、本当に見たいから見ているのではないことが多い。電車や車に乗って、次々に巡ってくる景色をただ日で追っているのと同じだ。何かひとつのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。本当の自前の日でものを見る(観る)というのがどういうことかさえ、僕らにはだんだんわからなくなってくる。

「ラオスにいったい何があると言うんですか?」村上春樹

日本は、情報や見るものに溢れています。

タイパ(タイムパフォーマンス)という言葉が出るほどに、話題にキャッチアップするために、見なければいけないものが沢山あります。

行き過ぎた企業によるマーケティングや消費者による相互の欲望の喚起は、資本主義の極限の姿を見ている気がします。

こんな点で、ラオスで、ゆっくりするのはおすすめです。

See you soon.

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