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⑯ラオスの魅力と喪失No1.(ルアンパバーンから)

2017年6月25日、ラオスのルアンパバーンに4泊5日していました。
以下、その時の回想になります。

ただいま、ラオスのルアンパバーンに4泊5日している最中です。同じ都市に 3泊以上したことは一度も無かったので、少し長過ぎたと反省していますが、ゆっくりと物事を考えるのにラオスは向いていると言えます。

それは、人々があくせくすることなく、時間がゆっくりと流れていると感じるためです。

ラオス専門家の友人@ビエンチャンはラオスを「タイにとってのラオスは関東にとっての東北のようなものだと思います」と表現していました。

確かに、タイ語とラオス語は、標準語と東北弁という関係のようで、ラオス語は東北タイでも使用されていて、ラオスはタイから見て田舎臭くみえるようです。

ちなみに、タイとラオスの面積と人口を見ても、タイが兄貴、ラオスが弟分であることがわかります。

●タイ:面積51万㎢、人口 6900万人
●ラオス:面積24万㎢、人口 650万人


タイとラオスは兄弟???

それでは、なぜ兄弟関係なんでしょうか?

両者の関係について、京大の至宝の梅棹忠夫先生が触れている記述が「東南アジア紀行」にありました。この本は1959年の旅行記で、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの旅が綴られています。しかも、初版 (1964年)の15年後の 1979年に文庫本化されています。旅というよりも京大山岳部ばりの探検という表現が適切で、旅行中の身には親近感が湧いて面白いです。それでは、以下に引用します。

 ラオスというところは、もともと1つのまとまりのある国ではなかった。ルアン・プラバン、ブィエンチャン、チャムバーサックと、それぞれ別の王国だった。そして、いずれもタイの従属国だったのである。
 フランス人は、コーチシナを手に入れると、メコン流域において活発な探検活動を開始した。1866年にはじまるドゥーダール・ド・ラグレーの探検隊は、メコンをさかのぼって雲南省に入った。フランスが目指していたのは、コーチシナから中国奥地にいたる水路を発見することだったのだ。しかし、これは失敗した。メコン河には、滝や急流がいくつもあって、とうてい船ではゆけぬことがあきらかとなったからである。

 オーギュスト・パヴィのラオス探検は、このあとをうけて、1879 年から15年間にわたって行われた。そして、ラオスが植民地として有望なことを確かめると、フランスは、ラオスとの宗主国タイに対して、厚顔な要求をつきつけたのである。「フランスは、メコン左岸の地を領有するにあらずんば満足する能わず」と。

 フランスの艦隊はメナム河にあらわれ、バンコク政府はついにフランスの要求をのみ、ラオスに対する宗主権を放棄した。1893年3 月のことである。
 フランス領となってからも、なお、ラオスがまとまった一単位になったわけではなかった。ルアン・プラバン王国領の部分は保護領で、他の地域は植民地としてあつかっていたようである。ルアン •プラバン王国のシーサワンウォン王を、ラオス国王としてあつかったのは、じつは、1945年の日本軍による「仏印処理」がはじめてである。戦後、フランスもそれにならって、ルアン・プラバン王国のもとに統一ラオス国家の成立をみとめたのであった。

 ラオスは、フランスがタイからいわば強奪して、むりやりインドシナ連邦に編入した地域である。そもそも、インドシナという概念が、フランス製なのだ。もともとそういう実体があったわけではない。フランスは、領有時代にその実体をつくりあげようと努力したが、成功したとはいえない。ラオスはもともと、ベトナムやカンボジアとよりも、タイとこそむすびついているのである。メコンの流れは、ラオスとタイをへだてるよりも、むしろ両者をむすびつける役割を果たして来たのであった。

「東南アジア紀行下巻 梅棹忠夫」17章 大森林をゆくP185-187

やはり、旅行者が口を揃えて言うように、ラオスはタイの田舎であり、最後の楽園です。

私はタイ文化にあまり馴染みがないので、そこまでピンときているわけではありませんが、そんな私も建築物や食事は区別がつきません。

ラオスの魅力は、田舎さや自然が残っていて、タイ以上の究極のサバイサバイにあると言えます。

大地の母なるメコン河

そんなラオスの魅力を打ち消すかのような光景にルアンパバーンで出会いました。

ラオスの魅力の喪失

『東南アジア紀行』にはビエンチャンの町に無いものとして、新聞、上水道、電話が挙げられています。その他にラオス自体に鉄道が無いことが特筆されています。

この国には鉄道がない。これは、未開発のアジア諸国のなかでもめずらしいことで、ほかに鉄道のない国といえば、ブータンとアフガニスタンくらいであろう。ネパールには、わずかな距離だが、汽車が走っている。

「東南アジア紀行下巻 梅棹忠夫」17章 大森林をゆくP181

そうなのです。ラオスには鉄道が無いのです。恐らく、フランス統治時代に、ラオスからもラオスへも物資を大量輸送する必要が無かったことが関係しているのでしょう。

そもそもルアンパバーンの町は、フランス植民地時代の面影を色濃く残す町として町全体が1995年に世界遺産に登録されました( 日本ですと、白川郷・五箇山の合掌造り集落が同年に世界遺産登録されています)

梅棹さんの印象は以下です。

 ルアン・プラバンは、メコン本流と、支流のナム・カン川とにはさまれた、細長い町である。
 2つの川は、町の北端で合流する。町はごく小さい。人口は、よくわからないが、1万くらいではないだろうか。おもな通りは 2本しかない。はしからはしまで歩いても、たいしたことはない。(中略 )
 ルアン・プラバンは古い都である。ラーオ族がメコン河谷に進出しはじめたとき以来の拠点である。古代のランサーン(万象)王国は、この町を中心に展開したのだった。最初の統一国家としてのラオス建国者も、この町から出た。14 世紀中ごろのルアン・プラバンの王、ファー・グムは、クメールの没落とスコータイ朝タイの衰退に乗じて、ラオスの統一と独立を完成したのである。
 ルアン・プラバンは、日本を出発するまえから、ひとつのあこがれであった。地図を見ても、いかにも奥地の町という感じで、さまざまな空想をかきたてられる。朝日新聞に相談にいったときも、「ルアン・プラバンまで行った日本人はほとんどいないから、ぜひ行ってらっしゃい」とはげまされた。
 しかし、ここでも想像していたイメージは完全に裏切られた。いくらか中世風の、歴史のにおいを強く感じされる町を、わたしは想像していたのだが、現実に見るルアン・プラバンは、そういう古めかしさをほとんど持っていない。どちらかというと、近代風に整頓された、小ざっぱりした小都市である。インドシナのいたるところに見られるように、フランス文明がこの都市をも根本的につくりかえてしまったのであろうか。
 しかし、よく見れば、ここはやはりラーオの都である。市内には、たくさんの寺がある。ここの寺は、タイの寺のように、がらんとした広い境内は持たないようだ。通りに面して、土塀となかに、ヤシの木立ちにかこまれて、小ぢんまりした本堂が見える。寺は、ブィエンチャンのものよりも概して古く、美術的である。通りがかりに民家をのぞくと、老人が一人、しきりに木を彫っていた。中に入ってゆくと、仏像をつくっているのだった。

「東南アジア紀行下巻 梅棹忠夫」18章 高原の朝P209

朝のマーケットを見るとわかりますが、ルアンパバーンは食の宝庫です。住民は片手間でレストランやお土産屋や屋台を営んでいますが、お金をそこまで稼がなくても食うには困らないほど食料が溢れています(ちなみにネット接続も国内4社が争っているようで、高速で、暇つぶしには困りません)。そのため、あくせく生きる必要がないのです。

あくせく生きて周囲の人間関係に過剰に気を遣い、年間2 万人が自らの命を絶つ社会から見ると、羨ましい限りです(最近の日本は子供の自殺も増加しているほど社会が病んでいます) 。

いよいよ本題

6月24日、1600kip(2400 円ほど)でスクーターを1日レンタルしました。市内から南に 32キロのクアーンシーの滝に行くためです。トゥクトゥクでも行けますが、自分のペースで行きたかったので、炎天下のなか無事に辿り着き山登りと水泳を楽しみ、一旦ステイ先に戻りシャワーを浴びました。

その後、パダテキスタイルギャラリーという市内から北に20分ほど行った織物工房とショップで絵画を手に入れて再度ステイ先に戻りました。

そして、17時ごろに市内から北に25キロのパークウー洞窟に行こうと思い立ちました。

40分ほど走ったところで、やたら中国関係の標識を目にするようになりました。

中国製と思われる鉄鋼製品工場、中国とラオスの共同病院、更にそこから20分ほど北に走ると真相が目に見えてきました。

なんと、中国中鉄の建設サイトがありました。そこでは、大量の中国人労働者が働いているではありませんか…

そして、向かいにある工場の奥に行ってみたところ、橋のようなものを作っているところでした。

そこから、5分ほど北に行ったところには埠頭を建設しているようでした。

「ルアンパバーンからわずか北に行ったところのメコン河に中国人が馬鹿でかい橋を建設中だった。いずれはルアンパバーンの景観自体も大きく損なわれてしまうんだろう。あれは何なんだ」とステイ先に戻った後に矢継ぎ早にAndy(ボストン出身のアメリカ人で、ラオス人と結婚して私が宿泊してい Manichanというゲストハウスを経営中)に質問したところ、

「あれは中国の高速鉄道プロジェクトだ。前にも言ったように自分は上海で働いていて中国が嫌いだからこのプロジェクトにも懐疑的だ。そもそもこんな話もしたくない。これは、中国寄りの政治家が中国と裏取引をしてあの場所に敷設されることが決まったんだ。一帯一路構想あるだろう。雲南省からルアンパバーン、タイへと繋がる予定らしい」との回答。

「えっー、知らなかったー、その雲南省からラオス、タイ経由でシンガポールを結ぶ高速鉄道の話は知っていたが、この世界遺産都市のルアンパバーン付近を走る予定だったなんて …」とショックをAndyに伝えました。彼は「娘の教育にアメリカと比較してラオスは適していて余生をラオスで過ごす」と言うほどのラオス好きです。

私は今回初めてラオスを訪れた観光客で、ルアンパバーンの町の雰囲気は好きになりましたが、所詮他人事です。それに比べてAndyは中国にラオスが支配され悪い影響を受けることを心の底から心配しているようでした。

ルアンパバーンは、韓国の俳優に取り上げられた2年前から韓国人観光客が大挙して押し寄せていますし、白人も多いです。

それに比べて日本人や中国人はまだまだ少ないですが、ナイトマーケットで見た中国人の傍若無人、傲慢さはかなり迷惑でした。

私が15歳のラオス人店員と話を楽しみながら、商品の値段と説明を聞いていたところ、、、

いきなり、中国人ババアとジジイが割り込んできて、布製の小さい鞄を3 個指差して、中国語でこれは3つでいくらか?と大声で聞いてきました。そして、店員が1 つ 300kipと答えると、「3つで300kip でいいだろう」とゴリ押しするではありませんか。店員は嫌気がさしてして、1つ300kip ですと同じことを何度も繰り返してようやく中国人が店を後にしました。彼女にどう感じたか聞いてみたことろ、「韓国人と日本人は好きだけれど、中国人はいつもあんな感じだから嫌い」と正直なコメントが帰ってきました。

学部時代やフレッチャーにいる中国人とは仲良いですし、アジアリーダーシップトレックで上海案内をしてくれた中国人もいい人たちでした。

こういう中国人観光客に会う度に、アジア各国で中国の品位と評判を底辺まで貶める売国奴だと感じてしまいます。習近平の腐敗撲滅の手も中国人観光客のマナーまで及んで欲しいものです。

地元民が目にするのはこういう中国人ばかりなので、当然、中国の高速鉄道プロジェクトの評判がいいわけではありません。

それでは、このプロジェクトをどのように評価するべきなのでしょうか?

中国寄りの政治家が中国に買収されて半ば強引に推し進められているだけなのでしょうか?

ラオスにとっての高速鉄道の必要性はあるのでしょうか?(今まで鉄道がなかったための憧れでしょうか?)

ラオスは他の国のプロジェクトを選択する余地があったのでしょうか?

尽きない疑問を次回考えていきたいと思います。本日は、パークウー洞窟に行ってみたいと思います。

See you soon.

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