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コーヒーの香りがする小説ー読書感想「シカゴ・ブルース」(フレドリック・ブラウンさん)

人はタフでいるためにコーヒーを必要とする。長い夜を越えるために、大切な話を心の中で整理するために。フレドリック・ブラウンさん「シカゴ・ブルース」は、コーヒーの香りがかぐわしく漂う。シカゴの路地裏で強盗に父親を奪われた18歳のエド。自由人アンブローズおじさんと共に素人捜査で犯人を追う中で、エドは少しずつ大人になる。クールで、骨太な物語。ピアノジャズのように静かに胸に迫ってくる、素敵な読書体験ができました。(高田真由美さんによる新訳、創元推理文庫、2020年9月30日初版)


1時間はすぐ過ぎた

エドは何度もコーヒーを飲む。その中でもお気に入りのシーンは、アンブローズおじさんとの捜査が少しずつ進み迎えた、中盤の夜。

 「(中略)まあ、どのみち、あの番号の登録情報が手に入るまでは動けない。だからちょっと眠っておくのも悪くない」
 「寝なくたって平気だよ」
 「そうか。きみは若いからな。眠らなくてもなんとかなるだろう。わたしはもうすこし分別を持たなきゃならないはずなんだが、あいにくそういうものは持ちあわせていなくてね。もうすこしコーヒーを飲むか」
 トンプソンの店の時計を見て、ぼくはいった。「街なかの会社がひらくまで、まだ一時間以上あるね。コーヒーを取ってくるから、おじさんと父さんが一緒にいたときにやったことをもっと話してよ」
 一時間はすぐに過ぎた。(p214-215)

エドは父を失うまで、父のことをよく知らなかった。アンブローズおじさんから若かりし頃の話を聞いて、自分と同じ10〜20代に父が冒険家だったこと、スリルあふれる恋愛も経験したことに驚く。その頃の話をエドはもっと聞きたがる。

そのかたわらに、コーヒーがある。きっと話に夢中になって、コーヒーは冷めてしまうだろう。そうするとエドはもう一度立ち上がっておかわりを汲むんじゃないだろうか。束の間、おなかが温かく満たされ、胸もいっぱいになる。

アンブローズおじさんもいい。眠りを必要としない若さ。エドにあって自分にはないことを素直に認めて、でも大人にあってしかるべきの分別も自分にはないんだぜと舌を出す。こんな人が寄り添ったからこそ、エドは成長できた。

そして締めの「一時間はすぐに過ぎた」。父の話を夢中で聞いたエドの喜びを、こんなに端的に表現する言葉もないだろう。白み始めた空も思い浮かぶ。マジックアワーのような朝焼けが、エドの前に広がったんじゃないか。


マティーニを一杯

エドはタフな男だ。悲しんでも嘆きはしない。アンブローズおじさんは、そんなエドの静かな悲しみを乗り越えさせるために独自捜査を提案したように思う。エドは冷淡ではないのだ。ただ耐えている。その静かな格闘をおじさんは知っている。だから、おじさんの言葉はなんだか沁みる。

 「それを見せたったんだよ、エド。人が窓から外を見るとき、いやなんでもいいが何かを見るとき、何が見えるかわかるかい? 自分自身だよ。あるものが美しく、あるいはロマンチックに、あるいはこちらを活気づけるように見えるのは、見たその人のなかに美やロマンスや活力があるときだけなんだ。頭のなかにあるものが見えるんだよ」(p120)

エドは街並みを見て「古い煉瓦造りの醜悪な建物が、醜悪な人生をかくまっていた」(p120)と思っている。そう思うのは、君がいま悲しんでいるからだ。おじさんはエドの心中を見抜き、やさしく抱きしめているように思う。

捜査を積み重ね、事件の「真相」に辿り着いたとき、エドはこうしたアンブローズさんの言葉をしっかりと身につけている。終盤のこのシーンが印象深い。

 信号が青に変わり、ぼくたちは通りを渡った。
 おじさんがいった。「ビールでもどうだい、坊や」
 「マティーニがいいな。一杯だけ」
 「だったら、とびきりの一杯を飲ませてやるよ、エド。行こう、見せたいものがある」(p311)

コーヒーではなく、ビールを。さらにエドは「マティーニがいいな」と背伸びする。でも一杯だけだ。少年と大人のはざまにいるエドの人生の余白が感じられる。

それに「だったら、とびきりの一杯を飲ませてやるよ」と応じるおじさん。もう少年でなくなったわたしたちも、おじさんのような存在にはなれるだろうか。誰かに「見せたいものがある」と言える大人に。見るべきものでも、見させるものでもなく、見せたいものがある大人に。

作者のフレドリックさんは1972年にすでに没しており、本書の米国での刊行は1947年だそうだ。けれどもまったく古さを感じない。それはこの物語に描かれる悲しみと悲しみの癒し方が普遍的だからだろう。いつだって、いまだって、孤独を越えていくためにコーヒーは必要だ。


次におすすめする本は

ポール・オースターさん「サンセット・パーク」(新潮社)です。「シカゴ・ブルース」と同じくらい静かなテンポで進む。都会(ブルックリン)の片隅で若者が孤独を抱えて生きていくのも似ていて、必ず楽しめるはず。こちらはコーヒーではなく、本が印象的な小道具になっていて、紙のじんわりとしたにおいが漂うような気がします。

詳しい感想はこちら。


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