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決定権なき決定者ーミニ読書感想「辺野古入門」(熊本博之さん)

社会学者・熊本博之さんの「辺野古入門」(ちくま新書)が勉強になりました。著者は宮崎県出身で、20年以上にわたって辺野古に通い続けてきた方。平易な語り口で、辺野古の歴史から基地問題の経緯、地元住人の複雑な心境をレポートしてくれています。

印象的なキーワードは「決定権なき決定者」。この矛盾する状況に置かれるからこそ、普天間基地の辺野古移設問題は難しいのだと分かりました。


昨年、ひろゆきさんのTwitterをきっかけにした論争や、AbemaTVでの討論の様子を見て、もやもやを抱えていました。自分は辺野古の基地問題についてなにも知らないな、と。学びたいと思いつつ何もアクションを起こせていませんでしたが、書店で「入門」を掲げる本書を見つけてようやく一歩を踏み出せました。

辺野古に関する本と聞けば、「著者は賛成派なのか反対派なのか」が気になるところです。結論から言えば、反対派に深く話を聞きつつ、賛成派にも、なかなか賛成か反対か表明しにくい住人とも(飲み屋などで)交流をし続けている。中庸と言い切るのは簡単ではないものの、バランス感覚は感じました。

キーワードの「決定権なき決定者」。著者は次のように説明します。

  辺野古には、普天間代替施設/辺野古新基地の建設の是非を決める決定権がない。それは名護市にも、沖縄県にもない。
  それなのに、辺野古が普天間基地の移設候補地になった一九九六年からずっと、建設に賛成なのか、それとも反対なのか、問われ続けている。つまり辺野古住民も、名護市民も、沖縄県民も、「決定権なき決定者」なのである。
  「決定権なき決定者」という概念を説明するためには、社会学者ニコラス・ルーマンのリスク論から説明しなければならなくなるため(詳しく知りたい方は拙著『交差する辺野古』の第九章をお読みいただきたい)、ここでは簡単に、「あることについて賛成したときにしか決定を認めてもらえないのに、賛否を示すように迫られている人(たち)」と定義しておこう。
  このような状況に置かれ続けると、人は、賛否を問われること自体から距離を置くようになる。いくら反対の意思を示しても認めてもらえず、賛成したときだけ決定したとみなされるのであれば、賛否を答えることに意味がなくなるからだ。
「辺野古入門」p211-212

政府は、沖縄知事選挙や、名護市市長選挙の結果にかかわらず、辺野古への基地移転は進めると明言しています。実際、翁長元知事のように辺野古移設への反対を明確に打ち出した知事が当選しても、基地建設に邁進してきました。

ところが、それでも、基地移転は選挙のたびに争点であり続ける。沖縄住人、名護市民も、辺野古住人は常に「賛成なのか反対なのか」を問われ続ける。反対と言っても止まらないのに、です。

本書では、「基地はないならばない方がいいが、どの道阻止ができないのならば、なるべく生活の安全につながるように交渉すべき」という趣旨の意見を持つ住人の方が登場します。この意見は難しい。結論だけを取り出すと「条件付きの賛成」なのですが、本心であれば「反対」なので。

つまり、「決定権なき決定者」にされている人々の「思い」というのは、かなり混み合っている。「辺野古住人は基地に賛成なのか反対なのか」「どっちの意見が多いのか」と聞くことは、もはや愚問と言ってもよいのかもしれない。そんなにはっきりと割り切れるものではないし、賛成以外受け付けられない状況で聞くのはナンセンスだからです。

この事実が見えてくれば、いわゆる民意というのはグラデーションと地層を持ったものだと理解できます。賛成の意味合いは複雑。賛成という人の心の奥底には反対も眠っている。逆も然り。

だから私たちは、安易に辺野古の人々の思いを理解できると思ってはいけない。また、「決定論なき決定者」に置かれる現実が容易に変わらないことを前提にして、政府の対応を注視し、そうであるならばどのような沖縄支援が必要なのかを議論していく必要があります。

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