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自由とは狭い回廊ー読書感想#23「自由の命運」

「自由の命運」を読んで、歴史と現在と未来を見通す明快なスコープを得られた。自由とは何か?それは「国家の力と社会の力が均衡した狭い回廊」である。そして「狭い回廊」は国家と社会が互いの力を高め合う「赤の女王効果」を発揮し続けなければ留まれない。この考え方を吸収すると、今の世界や日本の「現在地」を考えられる。「国家はなぜ衰退するのか」がベストセラーになったダロン・アセアモグルさん、ジェイムズ・A・ロビンソンさんのタッグ。櫻井祐子さんの訳も流れる水のように読みやすい。圧倒的良書。


狭い回廊にいる足枷のリヴァイアサン

「自由が狭い回廊」とはどういうことか?一枚のイラストで表現できる。

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出典:「自由の命運」上巻p126、主題図1

ホッブズは無秩序な世界を制御するために人々が社会契約で生み出した統治機構を「リヴァイアサン」と呼んだ。ダロン&ジェイムズさんはこれを、国家(統治機構・官僚機構)の力が強すぎる「専横のリヴァイアサン」と、社会規範が強すぎて国家がまったく機能しない「不在のリヴァイアサン」に大別した。

専横のリヴァイアサンは、たとえばナチスドイツや毛沢東時代の中国がイメージしやすい。たしかに強力すぎる国家によって人々が争うことはなかったかもしれないが、リヴァイアサン自身が人々を暴力的に襲っていた。

不在のリヴァイアサンは内戦状態の国を思えばいい。国家が猛威を振るわない代わりに、武力勢力の凌ぎ合いを平定することは不可能になる。

自由な社会は専横と不在の間に存在する。それは極めて狭い。このとき、リヴァイアサンは十分な機能を持ちつつ、抑制されている。国家が社会に力を持ちつつ、社会が国家をコントロールしている。自由の狭い回廊に横たわっているのは「足枷のリヴァイアサン」だ。

この概念図のポイントは「回廊は狭いが、出入りは可能である」ということ。矢印で示したように、リヴァイアサンは専横や不在に流れやすい。一度専横に傾けば、そのまま独裁的な国家を生み出しやすいし、自由の方向に戻るのは難しい。

だけれども、努力を続ければ回廊に入ることは不可能ではない。逆に、専横から自由へ動いたそのままでは、回廊を飛び出して不在に傾く。

なお「じゃあ国家も社会も力を弱めればいいのか」と言えば違う。回廊の左下はすぼんでいることを心に留めたい。脆弱な国家と無秩序な社会を備えるのは「張り子のリヴァイアサン」だ。たとえば一時期のコロンビア。選挙もあるし、官僚機構もあるけれど、ゲリラが跋扈し、誰にも殺人や強奪は止められなかった。


赤の女王効果

本書は「歴史上、足枷のリヴァイアサンはどうやって誕生したか」「私たちはどうやって自由な回廊にとどまれるのか」を上下巻1000ページのボリュームで語り尽くす。

比較的現在も自由が維持されているヨーロッパの秘密を探った第6章「ヨーロッパのハサミ」、いま一番勢いがあるとみて間違いない中国やインドの弱点を指摘した第7章「天命」、第8章「壊れた赤の女王」。最近話題の警官によるアフリカ系アメリカ人の殺害がなぜ自由が完備されたアメリカで起こるのか考えるヒントになる第10章「ファーガソンはどうなってしまったのか?」。見所はむちゃくちゃたくさんあります。

その中で、かなり大事で繰り返し登場する「赤の女王効果」について整理したいと思います。これは自由の狭い回廊に留まるための鍵となる。

ダロン&ジェイムズさんは序盤で「自由は扉ではない」と語ります。

 これが扉ではなく回廊である理由は、自由の実現が点ではなくプロセスだからだ。国家は回廊内で長旅をして、ようやく暴力を制御し、法律を制定・施行し、市民にサービスを提供し始めることができる。これがプロセスである理由は、国家とエリートが社会によってはめられた足枷を受け入れることを学び、社会の異なる階層が違いを超えて協力し合うことを学ぶ必要があるからだ。(上巻p28-29)

自由は点ではなくプロセスである。回廊に入ったからといって、自由は保障されない。だから自由は扉ではない。

回廊を長旅し、法律や制度を整え、社会は足枷を操りつつ、異なるバックグラウンドの人たちと協力する。この作業こそ「赤の女王効果」です。「鏡の国のアリス」に登場する赤の女王が、「同じ場所に留まるためには思いっきり走らなくてはならない」と話したことに由来する。国家と社会が絶えず競争しなければ、その国はいとも簡単に回廊から外れてしまう。


今起きているのは「ゼロサム化」

自由の回廊に留まるには赤の女王効果を発揮し続けなければならない。しかし国家と社会がただ競い合うだけでは、お互いが壊し合う結果になる。これが「ゼロサム化」であり、赤の女王が「制御不能」になった状態です。下巻にある第13章「制御不能な赤の女王」がこのことを語ってくれます。テーマはナチスドイツ。

ワイマール共和国は自由な社会だった。結社組織が自由で、市民は様々なコミュニティに属していた。ナチ党もそんな結社の一つです。ただ問題だったのは、リスペクトが欠け始めたこと。社会の成員同士はお互いの利益のために争いすぎ、それを平定できない国家に不信感を高めていった。

象徴的な現象として、1930年選挙後の国会が挙げられます。初めて主要政党になったナチ党の107人は、なんと共産党(77人)と共謀して議事進行を妨げた。これは健全な連立ではない。ただ与党を貶めたいだけの一時的な共闘であり、そこにあるのは右派と左派がそろって国会への敬意を失っていたという現実だった。(下巻p250)

機能不全に陥った国家は、ますます社会の不安を高めていく。この情勢下だったからこそ、ナチ党は選挙によって「民主的に」独裁政権を樹立した。その頃には、社会が国家をコントロールする力を失っていた。ダロン&ジェイムズさんは「ポピュリズムは回廊内の政治をむしばんでいく」と指摘する。

国家と社会の競争(と社会階層間の競争)が分極化し、ゼロサム化すればするほど、赤の女王は制御不能に陥りやすくなる。運動に参加しない人々を、ひとくくりに敵であり、民衆の足を引っ張ろうとする狡猾なエリートの仲間であると決めつける、ポピュリズム運動のレトリックが、分極化に拍車をかける。制度への信頼の低下すれば、制度を通して妥協を図ることが難しくなるからだ。(下巻p285)

賛同しない人間は敵という「分極化」、制度への信頼を失う「国家の機能不全」がスパイラルし、自由が「自壊」していく。これがポピュリズムの副作用であり、現代の社会も無縁ではない。ダロン&ジェイムズさんも明確に付言する。

 経済的変化の利益を享受できず、エリートの支配をひしひしと感じ、制度への信頼を失いかけている国民。分極化、ゼロサム化が進む権力間の闘争。紛争を解決、仲裁できない制度。制度をさらにゆるがし、制度への信頼を根こそぎ失わせようとしている経済危機。エリートと戦う国民の代表を標榜し、国民によりよく奉仕できるよう制度的抑圧の緩和を求める絶対的指導者。どこかで聞いた話だろう?
 問題は、この状況にあてはまる国が一つではなく、いくつもあることだ。(下巻p291-292)

ポピュリズムによる自由の自壊に直面する国として挙げられているのは、トルコやフィリピン、フランス、そしてアメリカ。でも、日本だって当てはまるんじゃないか?と思う。

思い出さなくてはならないのは、自由とは国家と社会が絶えず高め合ってこそ堅持できること。自由が毀損されるとすれば、それは国家だけの責任ではなく、社会の役割不足もある。だから現代政治の問題は、私たちの問題でもある。

そのために大切なのは、ゼロサム化の反対をいくことではないか。分極化を鈍らせ、異なる主張に耳を傾ける。国家を批判しても、国家への信頼を完全には失わない。社会を保つ制度そのものを破壊しない。こう書くとなんだか退屈かもしれないけれど、「なるべくマイルドに社会を良くしていく」という感覚が大切になるのかもしれない。

もちろんこれは冷笑とは違う。ただ、ナチ党が共産党と手を組んだように、ドラスティックな攻撃は別のドラスティックな運動に利用されるリスクを孕んでいる。

もう一度、本書の訴えに耳を傾けたい。自由は狭い回廊だ。だけどそこには、狭くとも確実に道がある。国家を壊しても、社会を壊しても自由は訪れない。その両方が手を組みつつも競い合う中にしか、自由は生まれない。(早川書房、2020年1月20日初版)


次におすすめする本は

ダニエル・カーネマンさん「ファスト&スロー」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)です。上下巻で濃厚、いくつも発見がある、だけど概念がシンプルに図式化されているという点で、「自由の命運」と共通します。行動経済学の枠組みを学ぶことで、現代社会をよく見渡せるようになるという点でも似てるなと思いました。


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