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「彼女の知らない空」は組織人の背中を押す(本の感想5)

早瀬耕さんの最新短編集「彼女の知らない空」が良かったです。面白いだけでなく、心にぽっと灯火をくれる。それは組織の中で生きる人、生きざるを得ない人に向けられた光である。本作で描かれるのは「大きな力の前で、個人としての誠実さは保てるか」ということだからです。

撃つことをやめられるか?

表題作「彼女の知らない空」憲法9条が改正された世界が舞台。主人公は空自佐官で、妻と共に千歳基地の官舎で暮らしている。でも、妻は知らない。主人公が基地を拠点に、遥か遠くのQ国にある無人機を操縦し、場合によっては、反政府組織を銃撃することを。背表紙側の帯びにも引用されている、こんな文章が印象的です。

 ぼくは、深呼吸をしながら操縦スティックを動かす。
 やはり、人を撃ちたくない。あのピックアップトラックに武器が積まれていたか、ドライバーたちのいずれかが反政府組織の標的リストに載っている人物だったならば、ぼくは、自衛隊史で初めての殺人者になっていたのだ。(p58)

「ぼくは、自衛隊史で初めての殺人者になっていたのだ」。鮮烈なフレーズです。同時に、殺人者になりたくはないという主人公の気持ちがにじむ。「殺人者になるわけにはいかない」というほど強くは出れないけれど、できうるならその結果を避けたい、脆い誠実さが垣間見える。

では本当に、撃つべき場面で撃つことをやめられるだろうか?今回はたまたま、撃たなくてもよかっただけだ。いざ「仕事」として反政府組織を撃つことが定められた場面で、それを断られるだろうか?この「組織と個人の葛藤」を、早瀬さんはじっと見つめて物語にしています。


会社と戦場は違うだろうか?

「東京駅丸の内口、塹壕の中」という作品に読み進むと、この葛藤にさらに立体感が生じる。この感覚が面白い。

主人公はシステム会社の課長。仕事ではいわゆる「デスマーチ」状態の過酷なプロジェクトを進めるべく、部下にパワハラめいた言動を繰り返してしまっている。一方で、不思議な夢を何度も見る。夢の世界では「指揮官」として、戦場で部下に命に関わる命令をしている。

タイトルにある東京駅丸の内口の喫煙所で、夢の戦場と現実をリンクする老人に出会う。その老人は現実の存在なのに、まるで老兵のような口ぶりで話す。

 老人に煙草を渡し、短い会話が始まる。
 「前線に長くいるとな、殺した敵兵の数よりも、味方の戦死者の数を自慢し始めるんだ」
 自分がいるのは戦場ではないが、老人の言うとおりかもしれない。職場の喫煙所で、何の気なしに聞いている社員同士の会話で、何日間も休んでいないとか、残業時間の長さを自慢している社員がいる。そういう会話で、仕事の成果が語られることはない。それに似ている。
 「キャッツラに弾が当たったどうかは確かめられんが、自分の隣で死んだ奴は、いやでも分かるからな。すぐに笑い話のネタだ」(p175)

主人公と同じ発見を、読者も感じます。戦場と現実の会社員生活は、どのくらい違うだろう?身近な「戦死者」をながめて、「自分はああならなくて良かった」と胸を撫で下ろすことはないだろうか?生き延びた自分を誇る思考が、いつのまにか他者を追い落とす方向に過剰化してないだろうか?


やめられなくても「ためらう」

ここでもう一度「彼女の知らない空」の主人公を思い出す。撃つべき任務にあって、撃ちたくないと思ったこと。軍隊という組織で究極化された「葛藤」は、「組織に所属する個人」は多かれ少なかれ背負うことになるのではないか。

きっと撃たざるを得ない。じゃあ、組織にいる限り誠実ではいられないのか。この問いを、物語に浸りながらひたすら考えることになる。

もしも誠実でいられず、誠実でいたいとさえ思わないのなら、「ためらい」はない。迷わず引き金を引くでしょう。でも早瀬作品の主人公は、そうじゃない。課長も、デスマーチが戦場での行為となんら変わらないと「思ってしまう」。

「ためらい」を抱くことが、誠実であることの一歩ではないかと思うのです。ここにある物語は、そういう弱さを、ささやかに祝福してくれます。だから我々の背中を押してくれる。何も変わらないとしても、きっと意味はあると。(2020年3月11日初版、小学館文庫)


次におすすめの本は

藤井太洋さんの「ハロー・ワールド」(講談社)です。本書もまた、仕事の途中で不正義に直面したらどうするか?を主題にとらえている。でも中身はさらにSF寄りで、ドローンやSNSなどのテックをふんだんに活用しています。主人公の気質も、早瀬作品に比べると大胆さが濃い。「こういう選択肢もあるんだな」と思えます。


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