見出し画像

インサイダーよりアウトサイダーであれーミニ読書感想「新・学問のすすめ」(外山滋比古さん)

英学者、外山滋比古さんの「新・学問のすすめ」(講談社学術文庫、1984年4月10日初版発行)が知的刺激に溢れた一冊でした。もともとは1964年から雑誌で連載したエッセイをまとめたもので、もはや60年近く前に書かれたものなわけですが、まったく古びない。英米が「敵国」だった時代に英学を志した外山さんが語る「アウトサイダー論」。即物的利益に預かろうとするインサイダーではなく、アウトサイダーであれ、と呼び掛けます。


パンチラインはこのあたりかなと思います。

貝類の研究をするのに、貝になりたいと思ったところで、貝の心を心とすることなどできることではない。しかし、貝の研究をするには、貝に対するはげしい知的好奇心がなくてはならない。アウトサイダーでありながら、同時に、対象へはげしい魅力を感ずるところに、研究と認識の立場が求められる。
「新・学問のすすめ」p46

アウトサイダーとは、貝類の研究をするときに、貝にならないこと。貝になったところで、貝のことを知ることにはならない。私たちは人間だからこそ、貝を探求できる。

しかし一方で、アウトサイダーとは「斜に構える」ことでは決してない。表面的に貝を眺め、貝を知った気になることではない。そこにはむしろ、貝になれないけれど、貝を知りたいという激しい知的好奇心が必要になる。

言い換えれば、「あえて」貝にならないことこそが、アウトサイダーの要諦なわけです。貝になれない「けれど」、貝を知りたい姿勢とも言い換えられます。

これは、HUNTER×HUNTERにおける「制約と誓約」に通じるものだと感じました。あえて制限を加え、何かを守ると誓うことで、本来得られないような強力な力を得られる。

著者はこのことを、「教育はあえて不自由を求める活動だ」とも表現します。

 (中略)教育はあえて不自由を求めるかつどうですから、自由・勝手はむしろ教育の逆の概念と言うべきでありましょう。
   よく、学校で習うことが社会へ出てから役に立たないと言われますが、人間のもっている動物性としての悪い自然との戦いである教育にとって、それが金もうけの役に立つか立たぬかというようなことは、次元の違う思惑と言わなければなりません。
「新・学問のすすめ」p97

後段で語られるように、著者は制約を加え、人間的涵養を目指すことこそ教育であり、実用主義は教育ではないと批判します。

アウトサイダーの反対であるインサイダーを考える時、インサイダーは実用主義との結びつきが見えてくる。たとえば著者は英語教育において、鎖国時代に蘭学研究に功績を残した研究者をアウトサイダーにみなす一方、「本物に触れるべき」と強調する留学至上主義者はインサイダーに位置付けます。

思えば「インサイダー取引」という言葉はあり、それは違法行為として規制されているのに対し、「アウトサイダー取引」という言葉は聞きません。チート、不正がある、それだけの旨みがあるのはインサイダーだけなのです。

たしかに貝になれば、貝としての利得を得ることにはなるかもしれませんが、それは貝の理解とは別物。著者は、インサイダーになることは学問ではなく、端的に面白くないものだと教えてくれます。

「こう生きるのが得だ」と語る言葉・本は現代に捨てるほど溢れていますが、「得だとしても面白くない生き方ってあるぞ」と諫めてくれる本は見かけません。60年前の本書の言葉は、それだけに貴重です。

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。